white minds

宮殿初参上‐1

 滝が若長に選ばれてから、三年ほどの月日が流れた。その呼び名にも慣れた彼は、しかし若長とは言うものの特別何かをしているわけではなかった。少なくとも彼にとっては、それまでとあまり変わらない日常を送っている。
 それでもただ一つ違うのは、それまで属していた技使い集団と行動を共にすることが少なくなったことだろうか。朝は剣の修行で昼間は勉強。夜は自由な時間だが、大抵長から渡された難しい本を読むことでつぶれてしまっていた。意味もなく外へ出かけることはまずない。
 ただ昼間の勉強は、それほど厳しいものではなかった。時間も特に決められているわけではないため、単に滝自身がそう定めているだけだ。それどころか、毎日しなければならないと決まっているわけでもない。一ヶ月に一度の試験で合格点を取りさえすればいいのだ。合格すれば次の段階へと進み、また試験のために勉強してとそれを繰り返していく。そして定められた量さえこなせば、この『勉強』は終了となる。
 そのため、天才と称される者は数年もかからずにこれを終えてしまうらしい。またさぼればさぼる程、いつまでも勉強し続けなければならなかった。ある意味では恐ろしい制度だ。これは宮殿に住む『上』が決めたことのため、どの族にいても変わらない。
 滝はどちらかと言えば早く進んでいる方だったが、それでも遊ぶ時間が全くないというわけではなかった。もっとも彼が若長に選ばれたことで、気軽に話しかけてくる者は減ってしまったのだが。
「暑っ……」
 そしてこの日も彼にとっては、いつも通りの一日と同じ始まりだった。家の傍の草原で、軽い運動を終えてから剣の修行。木でできた偽物の剣を振るう単純な動作を、彼は繰り返していた。空気を切る音が耳に心地よいが、それでも日が高くなるにつれ汗の量が多くなる。彼は袖で額の汗を拭うと、肩で息をついた。体が熱い。
「今日は気温上がるのか?」
 滝は空を仰ぐと瞳を細めた。青々とした空には薄い雲が幾つか、形を変えながら浮かんでいる。その背後にある太陽は燦々と輝き、地上へと光をもたらしていた。風も時折吹く程度だから、さらに暑くなっていくかもしれない。
「若長ー!」
 そんなことを考えている彼の耳に、遠くから呼び声が聞こえてきた。そこに含まれた響きに、彼は呼ばれた理由におおよその見当をつける。もはや五日に一度の頻度で恒例行事と化しているあれだ。彼は肩をすくめると振り返った。
「若長っ、ここにいましたか」
「もしかして今日もまた?」
「ええ、あの二人がやってるんです。今日はすごいんですよー。山一つなくなりそうなんです。お願いします!」
 走り寄ってきたのは、三十に届くか届かないかといってくらいの男性だった。長の下で働いている者の一人だ。よくヤマトのあちこちを見回りに行っていると聞いている。それで今日はたまたま彼が『それ』を目撃したのだろう。
 ここに滝がいることは、長の関係者なら大抵の者は知っているはずだった。滝は男性を見るとうなずき、もう一度空を仰ぐ。
「わかりました、すぐ行きます」
 滝は目的の気を探し出すと、そう答えて飛び上がった。意識することなく体は浮かび上がり、風を切って進み始める。お願いしますと念を押す声が、後ろからかすかに聞こえた。つまり今回のはそれだけひどいのだろう。その声音からも焦りが伝わってくる。
 目指す場所は、大きな気が二つぶつかり合っているところ。山のすぐ傍だった。そこならば大した時間をかけずに行けるだろうと、彼はおおよそのあたりをつける。すると案の定、しばらくもしないうちに彼の視界に二人の姿が入った。まだ子どもながらに空中で戦うという、手のかかる『弟たち』だ。
「あーあ、やってるやってる」
 確かに今日は一段と派手だった。地上からは幾つもの煙が上り、周囲には焦げ臭い空気が漂っている。このままでは近所迷惑も甚だしい。ひどい騒音だろうし、また地形が変わるのもいただけなかった。山が消えるのは困る。
 ならばこちらもそれ相応の制裁をしなければと、滝は口角を上げた。彼は精神を集中させると、右手を斜め前に突き上げる。その指先に黄色の光が宿り、バチリと小さく音を立てた。
「雷撃っ!」
 彼が叫ぶと同時に、指先の光が空高く上った。一度雲の向こうへと消えたそれは、戦いを続ける二人目掛けて急降下していく。明るい空の中、まばゆい光が二人の体を直撃した。
 悲鳴にもならない悲鳴が、澄んだ空気を揺るがした。完全に体のコントロールを失った二人は、重力に引かれて地面へと真っ直ぐ落下していく。普通なら危険な状況だが、しかし相手が彼らなら怪我も大したことないだろう。そう判断して滝は額の汗を拭うと、二人の落ちていった方へと近づいていった。そこらは土煙に巻かれて視界が悪くなっている。
「おーい」
 地面に降り立つと、滝は気の抜けた声でそう呼びかけてみた。その足下には、うつぶせに倒れる二人の少年の姿がある。声をかけてもその体はぴくりとも動かなかった。今回は威力を上げて置いたから、さすがに動けないのだろうか。いや、油断はできないと彼は身構える。
 予感は的中した。それから数秒程度で、倒れ込んだ一方の少年がむくりと起きあがった。ぼさぼさになった黒髪をかきながら、彼は辺りを見回し始める。そして滝の姿を見つけると、まなじりをつり上げて口を開いた。
「な、なにするんだよ滝にいー! 本当、今度のは死ぬかと思ったんだからなっ」
 彼――青葉はむくれた声でそう言って、座り込んだまま滝を見上げてきた。死にそうになった奴が数秒で起きあがるわけがないのだが、とにかく文句を言いたいのだろう。滝は腕を組むと嘆息し、その隣で倒れている少年を見た。じきに彼も動き出すはずだ。
 案の定、それからすぐにそちらの方も起き上がった。体のあちこちを押さえながら上体を起こした彼――シンは、顔を歪めると青葉を一瞥する。そしてその視線を追ってゆっくりと、滝を見上げてきた。
「ひどいって滝さん、まだ体がビリビリいってる」
 動きがぎこちないのはそのためだろうか? 小さくうめきながら文句を言ったシンは、首を捻りながらゆっくり肩を回していた。けれども口が回るくらいだから大したことはないだろう。そう判断して滝は口の端を上げた。また地形を変えられてはかなわない。それで文句を言われるのは滝たちなのだ。
「口利けるんだから大したことないだろう? ったく、オレの邪魔するなって何度言わせればいいんだよ……。それで、今回の原因は何?」
 青葉とシン、双方の抗議を完全に無視して滝はそう問いかけた。正直このやりとりにも飽きているのだ。もう何度繰り返したことだろう。すると待っていたとばかりに、二人は揃って口を大きく開けた。
「だってシンにいが陸の分までおやつ取るから――!」
「京華の分のおやつまで青葉が持って行っちゃって――!」
 青葉とシンは大声で叫びながらお互い顔を見合わせ、そしてああでもないこうでもないと口喧嘩を始めた。なるほど今度は互いの兄弟が理由かと、滝は苦笑してため息をつく。
 日頃思う存分動けないストレスが溜まると、二人は何だかんだと理由をつけて喧嘩を始める。しかし喧嘩と言ってもただの喧嘩ではない。技使いの、しかもトップクラスの能力を持った子どもの喧嘩だ。つまり喧嘩というよりは戦闘だった。その被害はいつも尋常なものではない。それでも近所の人は慣れたもので、それが始まると誰か彼かを介して滝のところへやってきていた。止めるように頼むためだ。
 二人を止めることは、今のところ滝しかできない仕事となっている。だが実際はその方が手っ取り早いからだろう。大人が出ていくよりも話がこじれなくてすむからだ。もっとも滝の言うことを二人が素直に聞くから、というのも理由ではあるが。
「はいはい。あー、もううるさいな。で、そのお前らの愛しの兄弟は?」
 いっこうに終わりそうにない口喧嘩に、滝は飽き飽きして口を挟んだ。すると二人同時にその場で固まり、そしてのろのろとした動きで目を合わせる。と思ったのもつかの間、慌てた様子で辺りを見回し始めた。わかりやすい反応だ。
「あ、あはは……ずいぶん遠くまで来ちゃったみたいで……」
「お、置いてきた……」
 シンと青葉は揃って乾いた笑い声を漏らし、勢いよく立ち上がった。もう喧嘩を続行する意思はないようだった。二人はうなずき合うと、一目散に駆け出す。そしてそのまま空へと駆け上がった。
「滝にい、ごめん! 陸たち捜してくるー!」
「すいませーん――!」
 二人の叫びが、遠くから聞こえてきた。滝はその背中に向かって適当に手を振ると、思わず微苦笑を漏らす。飛んでいかなければならない距離にいるなんて、呆れすぎて笑うしかない。とはいえおいていかれた弟たちの方も、いつものことなので動じてはいないと思うが。
「オレに言われる前に気づいてくれよなあ」
 そうであれば修行の邪魔をされずにすむのにと、滝はひとりごちた。だがそれが無理な願いであるとも、彼はわかっていた。

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