white minds

「その境は突然に」

「何でオレが行かなきゃなんないんだよ」
 ぶつぶつつぶやきながら青葉は長い廊下を歩いていた。白い無機質な壁は全てを拒絶しているようだし、すれ違う人々も足早で無口だ。彼はその黒い瞳を細める。
 そういや、こういうところだったっけな。
 内心でそう独りごち、彼は嘆息した。この宮殿と呼ばれる建物に入るのは二度目だ。だいぶ前のことになるのだが、しかしこうやって訪れてみると嫌な記憶ばかりが思い出されてくる。
「相変わらず不親切だし、第十五会議室って……一体幾つあるんだよ会議室」
 辺りを見回してみても案内図らしきものは見あたらないし、何々室と書かれた看板もなかった。出かける時に梅花に渡された小さな紙を、彼は広げる。
『青葉、これが簡単なメモね。会議室は三階と四階にあるんだけど、十五は四階。入り口からしばらく左に進むと階段が見えてくるから、そこを上がって。四階まで行ったらさらに左、突き当たりまで進んで。その奥から三番目の部屋がそうだから』
 彼女の説明は丁寧だった。しかもこの簡易地図まである。今回は迷わなくてすみそうだと彼は思った。
「にしてもよく覚えてられるよなあ。というかよくこんなところで生活してられる」
 入り組んだ構造にせわしない人々。温かみのない廊下。外装の豪華さとは裏腹に、中は快適さのかけらもない。
「さっさと話聞いて帰りたい……」
 彼はもう一度大きくため息をついた。



 無事第十五会議室に辿り着いた青葉を待っていたのは、質問攻めという拷問だった。
「ううー疲れた。二時間以上、かよ」
 会議室を出ると彼はそうぼやいて大きく息を吐く。まるで尋問のような雰囲気だった。何にもない部屋で厳つい顔の男と二時間以上。耐え難い苦痛としか言いようがない。
「にしても……梅花、疑われてるんだなあ、本当に」
 彼はゆっくりと歩き出した。廊下に響く足音を聞きながら、ぼんやりと考える。
 しかも仲間に聞くだなんて何考えてるんだ……あ、いや、そんな仲間なんていないと思ってるのか、あいつらは。
 オレだって好きじゃないけど嫌いでもないし。
 彼はそこでふと出かける間際の彼女の言葉を思い出した。
『頑張って耐えてきてね』
 まさか彼女はこれを予想していたのだろうか? 自分が疑われていることを知っていたと?
 背筋に冷たい物が走るのを、彼は感じた。
 それはどんな気持ちだろうか。
「……ってあれ?」
 彼はふと立ち止まった。廊下が続いているだけのはずの場所に、広場がある。気持ちの休まらない冷たさは変わらないが、一応ベンチらしきものも置いてあった。
「こんな広場、来る時通ってきたっけ? ……来すぎた?」
 まさか迷ったのだろうかと焦りが生まれた。行くべき階はわかっているからまだいいものの、しかしこの年になってもと考えると内心穏やかではない。
 こんな時、変わり映えのないこの白い壁が恨めしく思えてくる。
 その時――――
「青葉……?」
 聞きなじんだ声が、背後からかけられた。彼は振り返る。
「梅花?」
「何してるの? こんなところで」
 そこにいたのは梅花だった。彼女のはずだった。だが何か違っていて彼は息を呑む。
 後ろでまとめていた髪をといてるだけだと気づくのはすぐだった。しかしそれがやけに目に付く。優雅にたなびくその様はまるで絹のようで、白い肌によくはえていた。
 好みなんだよなあ、外見は。というか可愛いんだよな、誰が見たって。
「ひょっとして、迷った?」
「うっ……」
 彼女は一瞬呆れた顔をして、しかしすぐにいつもの無表情に戻り小さく息を吐いた。彼がうめきながらうつむくと、ふと彼女が胸に抱えている書類がその目に入ってくる。
「まさか、仕事で呼ばれてきたのか?」
 彼がそう問うと彼女は怪訝そうな顔をし、その視線の先を追って、ああ、とつぶやいた。彼女は苦笑する。
「これはついでに頼まれたの。ここに来たのは長官から呼び出されただけ。いつもの仕事。でも会議室出たところで嫌なのにつかまっちゃってね」
 その書類には、びっしりと文字が書き込まれているようだった。何をするのかは知らないが、ついでに頼む量とは思えない。
「迷子なら送るけど? どうせ私いないとゲートも通れないんでしょ?」
「送るって……それからその仕事片づけるのかよ」
「うん。まあ制限は四十分だから大丈夫よ」
 彼は、絶句した。突然仕事を押しつけて四十分でやれとは横暴としか思えない。何故だか彼は腹が立った。
「何だよ、それ。ひどすぎるんじゃない? 文句の一つも言わねえのかよ!」
「……何で青葉が怒るのよ。いつものことよ、それくらい。あっちは私なら苦もなくやれるって信じてるんだから、仕方ないのよ」
「ってことは苦があるんだろ?」
 彼は彼女の腕からその書類を奪い取った。そのいきなりの行動に彼女は目を丸くする。
「ちょ、ちょっと青葉!」
「オレが手伝う」
 静寂が、訪れた。むっとした青葉と呆気にとられた梅花。互いを見つめたまま、しかし言葉は出てこない。
「で、でも、精神データ化だから青葉にはできないし」
「他にもやることあるんだろ? どうせ」
 青葉は梅花のその黒い瞳を見つめた。どこか儚さのあるその瞳は今は弱々しく揺れている。
 やっぱり可愛いかもしれない。
 彼は心の隅でちらりとそんなことを思う。
「……わかった。それじゃあ手伝って。さっさと終わらせて戻らないとお店の方が心配だしね」
 折れたのは梅花の方だった。彼女は苦笑しながら軽く手を振り、ゆっくりと歩き出す。
「お、おい、どこ行くんだよ!」
「部屋。道具が必要だからね。あ、遅れないでね? 迷うから」
 青葉は書類を手にしたまま、急いで彼女の後を追った


 彼女の部屋は質素だった。必要な物しか置かれていないそこは、先ほどの会議室を思い出させる。青葉は息を吐く。
「殺風景だなー」
 つぶやいてしまってから、彼ははっとした。いくらなんでもこれは失言である。彼は書類を抱えたまま恐る恐る梅花を見た。
「そうね。ほとんど使ってないから、生活感がないでしょ?」
 だが彼女は意に介した様子もなく真っ直ぐ机に向かった。そこには何か白っぽい平たい機械が置かれている。
「……パソコン?」
「そう。改良してあるけど。あっちから流れてきたのをこっち用にね」
 梅花はそう言いながらパソコンを開いた。ノート型らしい。彼は何とも無しにその様子を眺める。
 なんか、落ち着かないなあ。
 彼は心中でそうつぶやいた。いくら相手がこの梅花とはいえ、年頃の女の子の部屋に二人きりというのは相手を意識せざるを得ない。だがあちらは平静だ。何とも複雑な気分である。
「あ、何か飲む? 尋問されて喉が渇いてるでしょ?」
 梅花が不意に立ち上がった。それだけのことで青葉は少しどきりとする。
 そう言われれば口が渇きっぱなしだった。おそらく緊張のせいだろう。
「うぁ、えーと、お前なんか今日は珍しく優しくない?」
 しかし出てきた言葉はそんな皮肉だった。自分でもそれが嫌になり、彼は眉根を寄せる。だが彼女はやはり気にした様子もなく口を開いた。
「こんな所にいなくちゃいけないあなたへの、せめてもの気遣いってところかしら」
 彼女はどことなく悲しげな目で微笑した。普段滅多に笑わないだけに、それはひどく印象的だった。
「相変わらずよね、上の人たちも。まあ私をかばう人なんていないとはいえ、従兄弟に聞くのはちょっと軽率だとは思うけど。あ、忘れてるのかもね、そんなこと」
 つぶやくようにそう言うと、彼女はドアノブに手をかける。その長い髪が緩やかに揺れた。
「いとこ……?」
 突然出てきたその言葉に、彼は首を傾げる。ドアを引いたままの状態で、彼女は振り返った。
「あれ、まだ言ってなかった? あなたのお父様と私のお父様が兄弟って話」
「……は?」
 思考が止まるというのはこういうことを指すのだろう。そう彼は実感した。彼女の言葉を反復してみるのだが、それが何を意味するのかを理解することができない。
「じゃあ待っててね。すぐ戻ってくるから」
 そんな彼をおいて、彼女は部屋を出ていってしまった。殺風景な部屋に取り残された彼は、とりあえず落ち着こうと深呼吸を繰り返す。
 親父の……兄弟。
 彼は唇を強く結んだ。確かに一人いたはずだった。突然いなくなった弟が。
「でもまさか……いや、梅花がそう言うんだ、間違いないよな。あいつはそんなわけわかんない嘘はつかない」
 窓に目を移すと灰色の雲の間から青空がのぞいていた。これから次第に天気は回復していくだろう。
 何の因果だよ。
 彼は独りごちる。
 何でいとこ同士が同じ隊に選ばれたりするんだよ。何でそれをあっちが知っててこっちが知らないんだよ。本当、わけがわかんねえ。
 広がりつつある青空が恨めしく感じられた。たとえそれが何の関係もないとわかっていても。
「お待たせ」
 そこへ梅花が戻ってくる。彼は慌てて声の方を向いた。だが先ほどの動揺はまだ収まってはおらず、すぐに言葉は出てこない。
「どうかしたの?」
 梅花はカップを差し出したまま小首を傾げた。その様はやけに可愛らしい。青葉は首を横に振りつつ急いでカップを受け取る。入っているのは冷たいお茶だった。彼はそれを一気に飲み干す。
「さっ、さっさと仕事片づけるぞ。ほら、オレは何すればいいんだ?」
 そう尋ねる彼の声には、やはり動揺が含まれていた。



 結局よくわからないまま、青葉は書類の整理をやっていた。その間梅花はパソコンに向かって作業を続けている。
 ああ、やっぱり可愛い。
 彼は時折ちらりと彼女の横顔を盗み見た。髪を結んでいないというのもあるが、いつもよりも表情が柔らかいせいなのだろう、見慣れているはずなのにやたらと可愛らしく見える。
 ……何かものすごくまずい予感が。
 彼は押し殺しきれない動揺にとまどいながらも、何とか仕事に没頭しようと努力する。しかしなかなか進まなかった。意識はすぐに彼女の方へといってしまう。
 あんまり役に立たないかも。
 そう思い彼が小さくため息をもらした次の瞬間、梅花が大きくのびをした。
「ま、まさか……もう終わったとか?」
「うん」
 答えながら振り返った彼女は珍しく微笑んでいた。それもどこか清々しい笑顔だ。
「そっちは?」
「え、えっと、後少し……」
「こっちちょうだい」
 彼女はそのまま彼の手から書類を抜き取り目を通した。そしてすぐに分別を始める。彼は目を丸くしたままその様子を眺めた。
 作業は、数分程で終了した。
「は、早いな……」
「そう?」
 片づけを始める彼女の背を、彼は見つめる。小さくか細いその体のどこにそんなエネルギーがあるのか、不思議でならなかった。
「これを提出すれば全て完了ね。ちょっと待ってて」
 彼女はそう告げてまた部屋を出ていった。途端に静けさに襲われ、彼は一つ大きく息を吐く。この部屋は、否、この建物はそこにいるだけで重圧を感じさせる。それを忘れていられたのはおそらく彼女がいたからだろう。
 彼の願いが届いたのか、彼女はすぐに戻ってきた。
「これで帰れるんだよな?」
「ええ、そうよ」
 その事実を確認しただけで嬉しくなり、彼の顔はほころびそうだった。
 でもここに彼女は、もう嫌というほど来てるんだよな。
 それを思うと気の毒さを通り越して何か得体の知れない気持ちがわいてくる。何だかそれは怒りにも似ている。彼はそれを振りきろうと小さく頭を振った。
「ありがとうね」
「……え?」
 廊下に出たところで耳に届いた言葉。彼ははっとして顔を上げた。だがその時には既に彼女は歩き始めていた。彼は急いで追いかける。
「遅れると、また迷子になるわよ?」
 追いついた彼に向かって彼女はくすりと笑ってそう告げた。
 彼は苦笑しながら、どういたしましてと、そうささやいた。

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