white minds

それはたった三日だった‐1

 聞こえるはずのない雨音を耳にした気がして、アースは顔を上げた。誰かのすすり泣く声にも似た悲しい音が、さーさーと周囲を覆っているように感じられる。
「まさかな」
 ここは室内なのだからそんな音が聞こえるはずもない。外とは隔離された研究所にはいつだって仲間たちの声か機械音しかなかった。聞き間違いだと確信して彼はまた壁に背をあずけた。冷たい灰色の壁は無機質な印象で、ぼんやりとした明かりに照らされた室内は普段通り素っ気ないものだ。しかしそれも当たり前のこと、ここは本来は実験室なのだ。もっとも今は何にも使われていないから、彼の部屋も同然の扱いなのだが。
「アース!」
 すると突然扉が開き、イレイが顔を出してきた。満面の笑みを貼り付けた彼は瞳を輝かせ、今にも踊り出さんばかりの勢いで中へと入ってくる。大きな足音が室内に響いた。
「どうかしたのか? イレイ」
「あのねあのねアース、ちょっと来て欲しいんだけど」
「だから何かあったのか聞いてるんだが……」
「アスファルトがね、呼んでるの。何か手伝って欲しいんだって」
 イレイの話にアースは首を傾げた。最近アスファルトは研究が忙しいらしく、その手伝いをするのはよくあることだった。が、それでは何故彼が嬉しそうなのか理解できない。
 イレイを追うように部屋を出てからもアースは首を捻っていた。大きな体をリズムよく弾ませながら、イレイは笑顔で廊下を歩いている。楽しそうな姿はよく見かけるが今日のはまた異常だ。やはり解せない。
「ねえねえ、アースは聞いた? レーナのこと」
「レーナ?」
「最後の一人だよ」
「ああ、まだ目覚めない奴のことか。そいつがどうかしたのか?」
 尋ねればイレイは頭だけで後ろを向いて首を縦に振った。黄土色の髪が軽やかに揺れ、同時に額に巻かれた黄色のはちまきが揺れる。イレイは心底嬉しそうに口を開いた。
「もうすぐね、目が覚めそうなんだって」
「目が覚める? 本当か?」
「うん、僕嘘つかないよー。ユズがしょっちゅう様子見に行ってるし、アスファルトもそう言ってたもん」
 イレイがそう答えるとすぐに、横に大きめの扉が見えた。アスファルトの主要な研究室の一つだ。最近はここにこもりっきりになっていることが多く、そのせいで自然と皆もここに集まっていた。しかし今日中からはアスファルトの気しか感じ取れない。
「アスファルトー、連れてきたよ」
 その扉を押し開けてイレイはそう声を上げた。中を覗いてみれば気難しい顔をしたアスファルトが独り机に向かっている。その机の上には乱雑に何枚もの紙が散らばっていた。難航中のようだ。
「ああ、悪いな」
「えーその言い方なんかそう思ってない感じ。なにさ、またユズと喧嘩したのー? 僕嫌だよ、そういうの」
 アスファルトが振り返らずに答えると、イレイは頬を膨らませてそう文句を言った。アースは頭を抱えたい気分になる。アスファルトとユズの仲について口を挟めば、さらにその関係は悪化する一方なのだ。いいことなどない。だからネオンもカイキもいつも見ないふりしているのだが、イレイにその気遣いはなかったようだ。
「喧嘩ではない。あいつが馬鹿なこと言って怒っているだけだ」
 すると案の定、さらに不機嫌な顔をしたアスファルトはゆっくりと振り向いた。森を思わせる深い緑の髪が、重たげに白衣へと落ちる。
 アースはイレイをにらみつけたい気持ちを堪え、じっとその場にたたずんでいた。この場合はアスファルトが研究へと意識を切り替えるのを待つしかない。そしてイレイがこれ以上余計なことを口走らないよう祈るだけだ。
「馬鹿なこと、ですって?」
 けれどもその願いは無惨にも崩れ去った。背後から聞き慣れた声がかかり、アースの背に悪寒が走る。
「誰かさんが責任を私に押しつけようとするのが悪いんでしょう」
「事実だ」
「レーナが目覚めないのは私のせいじゃないわよっ! 予想とあわないからって決めつけないでよね。自分の力過信しすぎなんだからあなたは」
 後ろからまなじりをつり上げ、ユズはやってきた。アースを押しのける形で部屋へと入った彼女は、頬杖をつくアスファルトをきつくにらみつける。
 戦闘開始だ。
 アースはイレイと顔を見合わせてため息をついた。目覚めない一人を巡って二人が争うのは決して今に始まったわけではない。だから事情はすぐにアースたちにも飲み込めた。何故レーナは目覚めないのか。その不安が二人の仲をさらに悪化させているのだ。
 人間の遺伝子を使って生み出された彼ら五人は、レーナを除いて皆無事に目覚めている。アースたち四人と彼女の違い、それは端的に言えば性別の違いだった。だがそれだけでもなかった。男である四人へはアスファルトの気――この場合は遺伝子のようなものだが――が注ぎ込まれており、レーナにはユズのものが注ぎ込まれていた。性別が同じ方が安定度が高いというのがその理由だ。
 しかし何故かレーナだけが目覚めなかった。時間差があるのは別に不思議ではなかったが、それにしても遅すぎだ。四人目であるイレイが目を覚ましてからかなり時間が経っている。しかもレーナの気はもう安定しているし、問題があるようには思えなかった。
「で、でもレーナはもうすぐ目覚めるんでしょう?」
 にらみ合う二人に挟まれて、イレイはおろおろしながらそう尋ねた。その今にも泣き出しそうな顔に、先にアスファルトが折れる。彼は散らばっていた紙を整理しながら小さく首を縦に振った。
「ああ、ようやく今日になって気の波長に変化が見られた。うまくいけば目覚めるかもしれない」
「ほ、本当に?」
「うまくいけば、だ。保証はない」
 そう告げるとアスファルトはユズを一瞥した。しかし今度はユズも何も言わなかった。そのことにほっとしながらもアースは胸中で訝しく思う。
 最後の一人が目覚めるというのに、それが何故か不思議と嬉しいことのように感じられなかった。言い様のない胸騒ぎがして、落ち着かない。それは今までにはないことだった。
「遅かったかー!?」
 すると今度は背後から騒がしい声が聞こえた。今度はカイキのものだ。振り返れば青い顔したカイキが同じく青ざめたネオンと肩を抱き合っている。二人はユズを止めに来たのだろうと判断し、アースは手をひらひらとさせた。もう終わった後だという意味を込めて。
「ねえねえカイキ、レーナ目覚めるって!」
 すると先ほどのおろおろ顔とは打って変わって、溢れる笑みでもってイレイが飛び上がった。顔を見合わせたカイキとネオンを一瞥して、アースは邪魔にならないよう壁際へと寄る。目を丸くしたまま二人はすぐに室内へ入ってきた。
「ほ、本当か? 本当だな? よっしゃ! ついに美少女とご対面ってわけか」
「長かったよなあ、待ちすぎて首が長くなっちまった」
 二人は口々に言いながら口角を上げた。半信半疑ながらも喜びが全身から発せられている。ユズやアスファルトはそんな二人をあきれ顔で見ていたが、当人たちはそんなことは意に介していないようだった。何か想像しているらしく顔にしまりがない。アースは眉をひそめてボソリとつぶやいた。
「美少女?」
「え? 何だよアースは聞いてないのか? 最後の一人はすっごく可愛いらしいぜ。もうそれはこの上なくな」
「またそれか。お前らの言う可愛いはあてにならんだろう」
「な、それはアースの目がおかしいだけだ! それに大丈夫、今度はユズが保証してるんだからな」
 自信満々なカイキの様子に、アースは頭を傾けながらもユズの方を振り向いた。彼女は苦笑しながらうなずき、頬にかかった茶色の髪を手で払う。
「それは本当、神の私が言うんだから間違いないわ。人間の遺伝子がもとってのが信じがたいくらいよ」
 彼女はそう断言したが、それでもアースは話半分で聞いていた。確かにカイキの言葉よりは頼りになるが、彼にはその基準がいまいちよくわからないのだ。そもそも女性のことでカイキたちが一喜一憂する理由が理解できない。
「まったく、お前たちときたらそれしか考えられないのか。それじゃあ様子を見にも行かせられないな」
 するとそんな話に耐えきれなくなったのか、アスファルトが大仰にため息をついた。彼は呆れを背中いっぱいに溢れさせながら、机の上を何度も指で叩いている。
 様子を見に行く、という言葉に反応してか、カイキとネオンはぎょっとした表情を浮かべた。それはつまり最後の一人を目にする機会が失われたことを意味している。落胆する二人を横目にアースは何とか笑いたいのを堪えた。
「仕方ないが代わりにアース、見に行ってくれないか? 本当は別のことを頼もうと思っていたのだが」
 しかし話は思わぬ所から舞い込んできた。突然名前を出されたアースはひそかに狼狽する。蚊帳の外のことだと思い込んでいたから、そうくるとは予想外だった。また隣から突き刺さるカイキとネオンの羨ましげな視線も痛かった。半分は恨みすらこもっているように思える。全て自分たちのせいだというのに。
「わかった」
 けれどもそれらを表には全く出さず、アースは首を縦に振った。他の面倒な仕事を押しつけられるよりはましだろう。ただ見てくればいいだけなのだから。
「それで、何を見てくればいいんだ?」
「この紙に書かれている部分を確認してきてくれればいい。私は他の準備があるからな、任せる」
 近づいていったアースへと、アスファルトは一枚の紙を手渡してきた。軽く目を通したが予想通り難しいものではない。安心した彼は薄く微笑むと踵を返して歩き始めた。カイキとネオンの視線はあえて避けて、ユズの横を通り過ぎて部屋を出る。
「頼んだぞ」
「わかってる」
 背中にかかるアスファルトの声に、彼は振り向かずに答えた。居心地の悪い空間から抜け出せることに、心底安堵の息がもれた。

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