white minds

それはたった三日だった‐3

 起きろ。
 短くはっきりとそんな声を耳にした気がして、彼女はゆっくりと瞼を持ち上げた。否、持ち上げようとした。目を開けなくとも先ほどから外の様子は脳裏に浮かんでいる。音だってずっと聞こえていた。
 起きるんだ。
 再度声は彼女へとそう命じた。外から聞こえたというよりも頭の中で響く声は、やや高めだけれども凛とした響きを伴っている。変だなと思いながらも彼女はもう一度瞼を持ち上げようとした。
「あ、れ……?」
 今度は本当に持ち上がり、彼女は無意識に喉から声を絞り出した。そして今度は声が出たことに驚き、小さく息を呑む。瞬きを繰り返せば、それにあわせて視界は数度黒に塗り潰された。それまで常にはっきり映し出されていた映像とは全く別物だ。
「うご、ける?」
 ああ、動ける。
 自問すれば答えは自らの内から返ってきた。訝しげに思いながら彼女は右手をそっと動かしてみる。手首にはめられた銀色の輪が揺れ、繋がっている細いコードがシーツの上を滑った。
「動いてる。喋ってる」
 喉へと右手を持っていけば、それは声を発するたびにきちんと震えていた。間違いなく動いているし喋っている。何度念じても願っても動けなかった今までとは違うことに、彼女は頬をゆるめた。
 これでもうアスファルトたちを困らせることはないのだ。
 そう思うとさらに喜びが胸を満たした。彼女――レーナが目覚めないからと二人が悲しむことも、また諍いを起こすこともないのだ。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
 早くここを出るんだ。
 だが喜びに浸る間もなく声はさらに命じてきた。彼女は上体を起こし、声の主を求めて視線をさまよわせる。しかし部屋の中に人影はなく、固い表面がむき出しの寝台が並んでいるだけだった。喋りそうな存在は確認できない。
 出るんだ。
 しかし繰り返す声に、彼女は無言でうなずいた。どう考えても声は自分の頭の中で響いているが、それでもそれ以上疑問に思うことはなかった。今ここを出ることに彼女が反対する理由はない。彼女は右手を持ち上げるとはめられた銀の輪を取り外しにかかった。はめられたところをずいぶん前に『見ていた』から、はずすことは容易だ。
「これでよし、と」
 手足全ての輪をはずし傍にある機器の電源も落として、彼女は満足げに微笑んだ。一度動けるようになれば体は簡単に思い通りに動いてくれた。小さなボタンを押すことさえ造作もなく、シーツだって畳むことができる。彼女は再度機器を確認してからゆっくりと足を寝台から下ろした。けれどもそれは思っていたより高いらしく、足先が床に着かない。
 その髪飾りを手に取って。
 すると今度はそう命じられ、彼女は首を捻った。左右を見れども声の言う髪飾りは見つからない。彼女は意を決してそっと床へと降り立った。軽い足音が室内に響く。
「あ、あった」
 寝台の下を覗き込むと、それらしき物は見つかった。金色に光るくの字形の何か――声が言うには髪飾りだろう――が灰色の床にぽつりと置かれている。
 彼女はそれを拾い上げると自らの髪に挿した。髪飾りと言うからには頭に付けるのだろうと思ってのことだ。付け方があっているのかはわからないが聞ける人もここにはいない。声の主が答えてくれるとは、不思議だが全く思わなかった。
 早く。
「うん、わかってる」
 彼女は扉へと向かって歩き始めた。早くここを出たい。そして目覚めを待っていてくれる人たちに会いたい。どこへ向かうべきかわからない状況でも、彼女はただその一心で歩みを進めた。
 だから髪の上にある薄紫色の光には、全く気がつかなかった。




 騒ぎ続けるカイキたちを横目にアースはため息をついた。先ほどアスファルトとユズが第二戦を終えたばかりで、正直疲れ切っていた。だが幸いにもアスファルトが資料を探しに別の部屋へと行ってくれたので、とりあえずは安心だ。しばらく気を張りつめる必要はないだろう
「あーあ、僕お腹すいたー」
「またお前はそれかよ! いいか、何度言えばわかるんだ? オレたちは食事なんて必要ないの。食べなくても平気なのっ」
「羨ましいなあ、人間って」
「って聞いてるのかお前は!」
 いつも通りの会話が、部屋の奥では繰り返されている。平和だなと思いながらぼんやりとアースは扉の方を見た。先ほどアスファルトが出かけた時、どうやら完全には閉まりきっていなかったらしい。隙間から廊下の薄明かりが見えた。この明かりも全てアスファルトが作ったもので、技を利用している。
「……ん?」
 だがその明かりを横切る姿があり、彼は首を傾げた。ちらりとしか見えなかったが確かに誰かが横切った。しかもそれは彼よりずっと小柄で、そして見覚えのある姿だった。彼は数秒間神妙な顔で考えた後扉へと駆け寄り、それを勢いよく開く。
「まさか――」
 言葉の続きはそれ以上喉を通らなかった。廊下へと一歩踏みだした彼は、そこで立ち止まった。目線は左へと向けられたまま固まって動かない。そこにある後ろ姿が予想通りのものだったから、目を離せなかった。
「ん?」
 物音に気づいたのだろう、歩いていた少女――レーナはおもむろに首だけで振り返った。彼の視線と彼女の視線がぶつかり合い、しばし沈黙が辺りを覆う。
 歩いていたのは予想通りレーナだった。先ほど見たばかりなのだから見間違えるはずがない。いや、そもそもここにいる存在そのものが限られていた。身長はおそらくユズよりもさらに低く、横になっている時よりも華奢に見えた。眠っていた時はわからなかったが瞳は黒で、髪と同じく濡れたような光を纏っている。
「レーナ……?」
 おそるおそる呼びかけるのと、彼女が微笑むのとは同時だった。文字通り花が咲くように微笑んだ彼女は、今度は体ごと振り返る。腰まである長い髪が揺れて肩から滑り落ちた。彼はそれ以上言葉が紡げなくて、ただ瞬くことだけを何度もくり返す。
「アース、どうかしたのー? ……ってちょ、ちょっとレーナ!? え、あ、本当にレーナ!?」
 すると背後から訝しげに顔を出したユズが、彼の視線の先を確認したらしく声を張り上げた。彼女は彼を突き飛ばすようにすると、レーナめがけて走り出す。よろめいた彼は廊下の壁に手を着き、それでようやくまともに頭が働き始めた。
これはおかしなことだった。先ほどまで眠っていたはずの少女が一人で勝手に廊下を歩いていたのだから、どう考えてもおかしい。信じがたい。あの時は全く目覚める気配などなかったのだ。
「もう、ちょっとレーナ何で勝手に歩いてるのよ、というか起きてるのよ! 心臓止まるかと思ったでしょう!」
 だが彼がそんなことを思っている間に、ユズはレーナの傍まで駆け寄った。そして感極まった様子でレーナを抱きしめた。顔を上げたアースは、そんな二人を眺めながら苦笑する。おそらくレーナはユズのことなど知らないだろうし、何故ユズがこうも喜んでいるかわからないだろう。困惑しているはずだ。そのことをどうやって指摘しようかと考えていると、抱きしめられたレーナが微笑するのが見えた。先ほどとは違う穏やかな微笑を、彼女は顔いっぱいに浮かべた。
「動けるようになったから、早く会いたかったから来ちゃった」
 彼女の口からは小さくそんな言葉がもれた。ただ当のユズにはちゃんと伝わっていなかったのか、心配したんだから、という台詞ばかりがつぶやかれている。
「え?」
 しかしよくよく考えてみればおかしな言葉だということに、アースは気がついた。会いたかったという言葉は知っている人にしか使われないはずだ。知らない相手に対して使う言葉ではない。この場で出てくるはずがない。
「ちょっとユズどうかしたのー?」
 けれどもそれをすぐに彼が口にすることはなかった。何か異変が起きていることに気づいたイレイが、部屋の中から顔を出してきたからだ。壁から手を離したアースがイレイを見ると、その表情が少しずつ変わっていくのがわかる。好奇心に満ちたものから訝しげなものへと変化していった。少女の存在に気がついたのだろう。
「ってあれ……もう一人いる?」
 イレイはそう口にして首を傾げた。すると何かを察知したカイキやネオンも飛び出してきて、狭い廊下が一気に賑やかになる。アースの視界は半ばカイキたちによって塞がれてしまった。ユズとレーナの姿は彼らの向こうにちらりとだけしか見えない。
「えっと、ちょっと待てよ。ひょっとしてレーナ?」
「本当!? 起きたのか、起きたのかよ!」
「やったー! す、すぐにアスファルトに言わないと!」
 事情を理解した三人は、口々にわめき始めた。手を取り合って喜び合い、次にはアスファルトがどこへ行ったのかと騒ぎ始め、とにかく落ち着かない。その場でぐるぐると回り始める彼らにアースは嘆息した。
「わかったからお前たち落ち着け。アスファルトはわれが呼んでくる」
「お、さすがアース! 最後の一人が目覚めたってのに冷静だな。あ、さっき見てきたからか」
 彼が渋々とそう告げれば、その声を聞きつけたネオンがポンと手を叩いた。アースは自嘲気味な笑みを口の端に浮かべる。奥からこみ上げてくる複雑な思いを押し殺すには、それが精一杯の抵抗だった。
 ネオンの言うことは間違っている。冷静ではない。ただ驚きのあまり思考も感情も鈍ってしまっているだけなのだ。そして彼女の顔を真正面から見られないから、この場を離れたいだけ。落ち着いているわけではない。
「じゃあ頼むぞアース。オレたちは何とかユズを引き離しておくから」
「ああ」
 彼は手をひらりとさせながらも、もう一度レーナの方を見た。ユズに抱きしめられたまま、彼女は依然として微笑している。それは子どものように無垢でありながらもどこか儚さを伴っていた。妙に印象に残る表情だ。
 会いたかった。
 心底嬉しげで、そして不思議と切なさのこもった声が不意に蘇った。が、彼はそれをあえて意識の外へと追いやった。
「まさかな」
 よぎった可能性を押し込めて、彼は歩き出した。

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