white minds

それはたった三日だった‐4

 灰色の壁に覆われた室内は、普段人が集まる時には場所には不相応に賑やかだった。本来はアスファルトの研究室なのだが、イレイが顔を出せばお腹が空いたの連呼が始まり、カイキやネオンが顔を出せば暇だの大合唱が始まる。アースは基本無口だが、それでもその場にいるだけでアスファルトやユズの言葉が弾んだ。結局一人の時とは打って変わり、数人が集まるだけでその場は騒然となる。
 しかし今日ばかりは違った。部屋の中はいつになく異様な緊張に包まれていた。椅子に腰掛けたレーナは額に銀の輪をはめたまま、不安そうにアスファルトを見つめている。しかしアスファルトが何かを口にすることはなく、データ用紙を手にしたままうなっていた。アースたちはそんな二人を、黙って遠巻きに見守るしかない。
 突然目覚めたレーナは、予期していた通り不思議な少女だった。目覚めたタイミングも解せないが、またその反応も腑に落ちないものなのだ。
「アスファルト、われはどこかおかしいのか?」
 静寂に耐えきれずに、レーナはそう尋ねて眉根を寄せる。しかしその口調もおかしい。少なくともアースの知りうる限りその年頃――とは言っても彼女は目覚めたばかりだが――の少女が話す言葉ではなかった。そもそも目覚めたてでこんなに喋っている例もない。アースなどしばらく頭の中で言葉が入り乱れ、どうもうまく話せなかったものだ。
「いや、そういうわけじゃないんだが」
 そのせいだろうか、レーナの方を振り返ったアスファルトも困惑気味に顔をしかめていた。言葉を選んでいるのか逸らされた視線は、アースが普段見るアスファルトのものではない。
 椅子に腰掛けたままの彼は、仕方なくか同じく椅子に浅く腰掛けた彼女の頭を軽く撫でた。沈黙を繋ぐためだろう。すると一瞬不思議そうにしてから、彼女は満面の笑みをこぼす。子どものように無垢に見えながらもどこか妖艶なその笑顔は、アースには直視しがたいものだった。理由はわからないが彼女の笑顔は印象的なのだ。引き込まれるのに見ていられない気がして、妙に胸が痛くなる。
「ただ強すぎるんだ、お前が」
「われが?」
「……そうだ。予想以上の精神量に安定した波形。それに、何というか、まるでずっと起きてたかのような立ち振る舞いに喋り方だな。例にない」
「われはおかしいのか?」
「いや、そういうわけじゃあないんだが」
「おかしいんだろう? われのせいで、アスファルトたちは困ってるんだろう?」
 答えに窮するアスファルトの横で、レーナは心底悲しそうに俯いた。黒く長い髪が頬へと落ち、その横顔をすっぽりと隠してしまう。そのあまりの儚さにアースは思わず手を伸ばしかけたが、しかし彼より早くにユズが動いた。レーナの傍へと寄ったユズは背後からその華奢な体をぎゅっと抱きしめる。レーナは驚いて頭だけでユズを仰ごうとした。
「あのねアスファルト、レーナをいじめてどうするのよ」
「いじめているつもりはない」
「言葉が足りないのよあなたは。いつもそうなんだから」
「お前は言葉が多すぎるんだ、いつも」
 けれどもそれは事態を解決する方向へとは向かわなかった。いつも通りにらみ合ったユズとアスファルトは、レーナを挟んだ形で見えない火花を散らしあう。アースは頭を抱えたくなった。この喧嘩を止めるのは骨が折れる。
 何故いつもこうなのだ。
 思っていても口に出せない疑問を、彼はまた胸中で呟いた。二人が仲良くしているところを見た記憶がほとんどない。何故一緒にいるのかわからないくらいに口喧嘩が耐えなかった。喧嘩する程仲がよいともどこかで聞いた気がするが、それにしてもこれは多すぎる。
「われのせいで、また二人は喧嘩するんだな」
 しかし予想に反して、今回ばかりはそう長くは続かなかった。俯いたレーナがもらした言葉に、二人の動きがほぼ同時に止まった。
「また、って?」
「前も何度も喧嘩してただろう? われの前で」
「ま、前?」
「われが目覚めないのはどっちのせいだとかで」
 聞き返すユズに、レーナははっきりとそう言い切った。アスファルトは完全に静止しており、またユズもレーナの顔を覗き込んだ状態で固まっていた。思い当たる節があるようだ。レーナの虚言ではなく。
 やはりか。
 アースは内心でそう呟くと同時に、一つの予感に襲われてその場を逃げ出したい衝動に駆られた。
 レーナの言動から推察するには、彼女は寝ている間も周りの状況を把握できていたということになる。手段はわからないが少なくとも声は聞こえていたということだ。教える前から名前を知っていたのだから確実だ。
「いや、顔も知ってたんだから『見て』たんだな」
 アースは今度は声に出して呟いた。イレイが一瞥してきたがそれは無視しておく。今はそれより重要なことが目の前にあった。目下彼が解決しなければいけない事態が、突然転がり込んできたのだ。
 彼女は自分の目の前で起きていたあの二人の痴話喧嘩も覚えている。きっとそれは昔のことだろう。ということはおそらく、十中八九、目覚める直前のことも覚えているはずだ。絶望的なことに。
「動けるようになったら大丈夫だと思ったのに……」
「あ、あーもうレーナそんな顔しないで、ね? えーと、あ、ほらアース! アースのところ行ってなさい。私はアスファルトと大事な話があるから」
 すると不幸なことにも、困り切ったユズがそんなことを口にするのを彼の耳は捉えた。今まで経験したことのない様な焦りが全身を貫き、心臓の鼓動が一気に速まる。
「ほらアース、レーナは任せたわよ」
 しかしユズに逆らうだけの力も気力も、アースには残されていなかった。銀の輪を取ってもらったレーナは、ユズの腕に押し出されてアースの前へとやってくる。彼は目の前の小柄な少女を目だけで見下ろした。眠っているときは見えなかった黒い瞳が、微笑をたたえてじっと見上げてきている。白い肌にそれはよく映えていた。不意に触れた感触を思い出し、彼は小さくつばを飲み込む。
「おいユズ、こいつをどうしろというんだ?」
「決まってるでしょう、三人の毒牙から守るのよ。あなたなら大丈夫でしょうからね」
 それでも抵抗したくて、アースはユズへとそう問いかけた。無論返ってきたのは予想通りの言葉で、自らが犯した行為がさらに胸に突き刺さってくるのだが。
「毒牙?」
「カイキたちが不用意に触ってきたら逃げなさいってこと」
「アースは?」
「アースは不用意に触ってこないから大丈夫」
 レーナとユズの交わす言葉が、体の奥深くに重い石を乗せていった。今さらながらに後悔がわき起こり、手の平には嫌な汗がにじんでくる。
 彼は気づかれないよう深呼吸を繰り返した。それでも不思議そうに見上げてくるレーナの瞳は、直視できなかった。彼女に不用意という言葉が理解できるのかは知らないが、怪訝に思っていることは目でわかる。
「あれは不用意じゃないのか?」
 けれども事態は望む方向へとは進まず、彼女は小首を傾げてそう問いかけてきた。追い込まれた彼は一歩後退することだけは踏みとどまり、漏らしかけた声を必死に飲みほす。
「え? あれ?」
 案の定、レーナの言葉を聞き漏らさなかったユズはそう問い返してきた。その後ろではようやく硬直から立ち直ったアスファルトが、同じく訝しげに顔をしかめている。
「うん、あれ」
「アース、あなた何かしたの?」
 近づいてくるユズの視線を避けて、アースは必死に繕う言葉を探した。背後からはカイキたちの好奇の視線も突き刺さっている。逃れられない状況だった。
 何もしていないとは言えない。レーナがいる以上ごまかすというのも難しいだろう。彼女がその行為を表す単語を知らない、という希望にすがりつくしかなかった。彼は無意識に伸ばした手の置き所に困り、言うなという意味を込めて彼女の頭をそっと撫でる。
「アースが喋らないなんて、相当なことなのね」
「はっ? 何言って――」
「ほーら、レーナちゃんと言いなさい。あなたはアースに何されたの? お姉さんに正直に言いなさい」
 今度こそ耐えきれずに、アースは数歩後退した。その隙にレーナを奪い取ったユズは、華奢な肩を掴みながら笑顔で脅迫している。時折ユズが見せる恐るべき笑顔という奴だ。レーナにはあまり効果がなさそうだが。
「レーナ、今すぐほら早く」
 それでも急かされたレーナは、一度うかがうようにアースの方を振り向いた。困り切った表情は子どもが浮かべるそれとよく似ている。だが奥底に憂いを含んだ瞳は見た目相応の、否、それ以上の深さを見せていた。だから駄目だとも言い切れずにアースは口ごもった。すると小さな唇が、ゆっくり動き出す。
「えーっと、アスファルトがユズにしてたようなこと」
 一瞬、空気の震えが全て消えたような気がした。
 時が止まったとは、このことを言うのだろう。アースはそんなことを胸中で思った。
 レーナの肩を掴んだまま再びユズは硬直し、無論その背後にいるアスファルトも固まっていた。完全に無表情のままでだ。カイキたちが押し殺す苦笑だけが部屋の中を満たし、かろうじて時の流れを感じさせてくれている。そんな中、原因となったレーナは状況の変化についていけずにおろおろし始めた。ユズとアスファルトの様を一瞥して、泣きそうなくらいに瞳を揺らしている。
「アース、ユズたちがおかしいんだが」
「気にするな、いつものことだ。それよりレーナ、アスファルトたちは大事な話し合いがあるようだから、研究所の見学でもしないか? 案内するから」
 そんな彼女へと近づき手を引いて、彼はうっすら笑みを浮かべた。ユズの手は簡単に離れたのか、レーナは大きく頷くとぴたりと腕に張り付いてくる。
「うん、われ見たいし行きたい」
 腕にまとわりつくぬくもりは予想以上に温かく、そして柔らかかった。カイキたちの眼差しは相変わらず痛いが、彼らならごまかせないこともないだろう。アースはさらに口角を上げた。一番危険なアスファルトやユズは、レーナの言葉がそれ以上の追及を封じてくれた。二人がさらに追及することは、墓穴を掘ることと同義となったのだ。
「では二人の大事なレーナはあずかるからな」
 彼はか細い手を引いたまま、そう言い残して部屋を出た。強く握っても嫌がられないのはやはり目覚めたてだからだろうか? 隣に立つ彼女を、彼はそっと見下ろす。だが不意に思い出したくもない言葉が脳裏をよぎって、彼は息を呑んだ。
 レーナが目覚めたら、ラグナたちが来る。
「忘れていた、な」
 ラグナたちが来る前にこの研究所を出なければならないとなると、もうあまり時間はなかった。彼女といられる時間も残りわずかだし、アスファルトたちと会える回数も数える程しかないかもしれない。
「どうかしたのか? アース」
「いや、何でもない。お前は我々みたいに馬鹿なことをするなよ」
「うん?」
 彼は言葉を濁すと苦笑を押し殺し、彼女の手をさらに強く握った。それでも彼女はただ不思議そうに、小首を傾げるだけだった。

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