white minds

それはたった三日だった‐6

 騒ぐ声も足音もない研究室はひどく静かだった。昨日の賑やかさを覚えているだけにその差は顕著で、アスファルトが紙をめくる音が強く耳に残る。
 それでもレーナは寂しいとは言わなかったし、また今後も一切言うつもりはなかった。ただここで生きている、思う通りに動けるということが彼女にとって十分幸せなことだったから。だからそれ以上望むのは我が儘だと何となく思っていた。
「レーナ」
「ん?」
 名前を呼ばれて彼女は振り返る。すると額に皺を寄せたアスファルトは、ため息を堪えるような様子で彼女を見つめていた。何故そんな顔をされるのかも何を言われるのかもわからずに、彼女は小首を傾げる。長い髪が肩を滑り落ちた。その一房が手にした薄い紙を撫でる。
「お前はどうしてそんな物を読んでるんだ」
「そんな物……ってこれ? えっと、使ってないみたいだったから」
「そうではない。そんな物を読む程暇なのか?」
「いや、面白そうだったから」
 彼が頭を抑える様を、彼女は心底不思議に思って見つめた。彼女が手にしているのはアスファルトが部屋の隅に放置していた紙の一つ、この研究所の設計図のような物だ。もちろん年頃の少女が見て楽しむ物ではないし、目覚めたての者が理解できるはずがない。普通は、の話だが。
「レーナ、お前は変わってるな。心底そう思う」
「えっ、わ、われ変なのか? また検査しなきゃならないのか?」
「いや、そういう意味ではない。常識があるのかないのかわからないなお前は」
 近づいてきた彼は傍に座ると、彼女の頭を優しく撫でてきた。言われている意味はよくわからないが、触れられたことが嬉しくて微笑が浮かぶ。温かみを感じることは生きているのを感じることと同義だった。今確かにここにいるのだと実感できて幸せがこみ上げてくる。
「興味があるのは結構だが、その前にこっちの方を読め……って、字は読めるのか?」
 彼は言いながら首を傾げ、彼女の顔を覗き込んできた。その緑の瞳が訝しげに光る。彼女は同じ方向に小首を傾げて、手にした紙の上の一文字を指さした。
「これのことか?」
「そうだ」
「わかるよ。アスファルトが読んでるところ見てたから」
「……またそれか」
 素直に答えれば彼は嘆息し、もう一度彼女の頭を撫でた。理由は予想できないが困っているのだとわかり、彼女は瞳を細める。彼を困らせるのは嫌だった。彼だけではなくユズでも誰でも困っているのを見るのは辛い。負の感情を帯びた気が全身を刺激するのだ。それは体を貫かれるような――もっとも貫かれたことはないのだが――痛みを伴った。胸がずきずきする。
「アスファルト」
「まあ気にするな、その謎もいずれわかることだ。普通は見てるだけで学べることじゃあないんだがなあ」
「われってやっぱり変?」
「ん、私たちが変だからな、ある意味仕方ないだろう」
 そう言って彼は笑った。彼が周りから変わり者呼ばわりされてることを、彼女は『見て』『聞いて』知っていた。またユズも同じく変わり者扱いされいることも知っていた。変わり者でもなければ、魔族と神がともにいるはずなどない。二人がここに住んでいるわけがないのだ。
「仕方ないのか」
「そうだな……ん? そろそろイーストたちが来るな」
 そこで立ち上がった彼は一瞬天井を見上げた。否、彼が見ようとしたのはおそらくその先のイーストの姿だろう。無論見えるわけはないのだが気で感じ取っているのだ。気に頼る魔族や神は目で見る世界と同じように、気で見る世界を重視している。
「イースト? えーっと五腹心の?」
「そこまで知っているのか」
「うん、だってイーストやレシガは何度もこの研究所に来てただろう?」
 呆れ混じりに問われて彼女は微笑んだ。目覚めるまで彼女はずっと周囲の世界を『見て』いた。それは気で見る世界とはまた別の、しかし目で見る世界とも別の世界だった。そこにつける名前を彼女は知らない。しかし見て聞いて感じているのと同じくらい、明確な世界だった。気も感じ取ることができる。ただ決定的な違いは触れられないことだ。触れられれば感じ取ることはできるが、自ら動くことはできない。
「ああ、あいつらは何度も来てる」
 アスファルトは部屋の隅へと真っ直ぐ向かった。それが入り口を開けるためだと彼女はすぐにわかった。この研究所は厳重に守られており勝手に入ることはできない。そう彼が設計したからだ。だから誰かが来る時は中から開けなければならなかった。
「開けたぞ、入れ」
 机の上の小さな機械に向かって言うアスファルト、その後ろ姿をレーナは一瞥した。すぐにイーストたちはここへ辿り着くだろう。アースやユズに何度か言われたが、五腹心の機嫌を損ねることは避けた方が良さそうだった。しかし何をどうすれば機嫌を損ねるのか彼女はわからなかった。記憶の中からイーストたちの言動を引っ張り出し、彼女は必死にそれを探る。
「やあアスファルト」
 しかし答えを見つける前に彼らはやってきてしまった。声のする扉の方へと目を向ければ、そこには華奢な印象の青年が一人たたずんでいる。空色の髪は空気を含んで揺れ、青い瞳は優しげな光をたたえていた。イーストだ。何度も『見た』ことがあるし名前を呼ばれているのも聞いたことがある。現時点では魔族最高位に位置する五腹心、その一人。
「中で転移するな、イースト」
「一刻も早く君の可愛いお嬢さんに会いたくてね」
 張りつめた気配の中で、アスファルトとイーストの視線が交差した。レーナはその二人を見比べて何を口にすべきか迷う。アスファルトが不機嫌になったのはすぐにわかった。対してイーストが上機嫌であることも。これは予想外だった。
「君がレーナだね?」
 するとイーストは数歩彼女へと近づいてきた。アスファルトに比べればそれほど背は高くないが、それでも彼女よりも頭一個分程は高い。自然と見上げる形となった彼女は小首を傾げた。穏やかな笑みを浮かべた彼は、彼女の頭に手をのせてくる。
「私が近づいても怯えないし逃げないね。怖くはないのかい?」
 尋ねられて彼女は大きく首を横に振った。危害を加えてくる様子もないし、アスファルトも何も言わないのだ。だから彼女にとって不安になる要素は何もなかった。ただ機嫌を損ねないようにと思っているだけで。
「レーナは五人中最も精神力が高い」
 そこで近づいてきたアスファルトが一言そう付け加えた。イーストはふーんと適当な返事をし、頭にのせていた手をゆっくり肩へと下ろす。
「私たちを前に逃げなかったのは、アースくらいだったかな?」
「あいつは確か威嚇してたな、お前を」
「あーそうだった。レシガが面白がって挑発してたしね。でもこのお嬢さんはすごいよ。今私は全く何も隠してないんだよ?」
 あいた方の手をイーストはひらひらとさせた。二人の会話の意味を飲み込もうと、レーナはほんの少し眉に力を入れる。おそらくはイーストの気に怯えないことを不思議がっているのだろう。だがイーストの気が凄まじいのはよく知っていた。何度も『見て』いたし感じていたから今さら驚くことではないのだ。最近は気を隠しながら来ることが多かったが、昔はそんな気を遣ってもいなかったのだから。
「少しは隠せ」
「疲れるんだよそれも。ほら、お嬢さんが大丈夫なら気にすることはないだろう? 神だって魔族界の中までは探ってこないのだし」
 すると肩に置かれていた手がそのまま背へと回り、彼女の視界は一瞬で黒く塗りつぶされた。何が起こったのかわからずに息を呑むと、背後からアスファルトの声にならない叫びが感じられる。頭上からはイーストのくすくすという笑い声も聞こえてきた。
「触れても全然平気みたいだね。すごく澄んだ精神、気も不思議な色をしている」
「触れるというかそれは抱きしめてるだろうっ!?」
「何を怒ってるんだい? アスファルト。ほら、嫌がってないし問題ないじゃないか」
 交わされる会話でようやく抱きしめられたことに気づき、彼女は困惑した。嫌いな者にする行為でないことは知っているが、されるがままでいいのかがわからない。イーストの機嫌を損ねたくはないが、アスファルトは何故か既に怒っているようだった。だから拒否するべきなのか判断に迷う。できれば剣呑な空気になるのは避けたかった。
「それにしても小さいね、私の腕にもすっぽりだ。レシガだってこんなに小さくはないよ?」
「私がどうかしたの? イースト」
 すると別の声が部屋の中に響き渡った。レーナにも聞き覚えがある。これは五腹心の一人、レシガの声だ。よくイーストとともに行動している女魔族で、下級魔族からは崇拝されていると言っても過言ではない。
「ああ、レシガか。遅かったね」
「当たり前よ、私は歩いてきたのよ」
 レーナを抱きしめたままイーストは扉の方を向いたようだった。隙間ができてようやく外界を確認できるようになり、レーナは目だけで入り口の方を見やる。褐色の肌に長いワインレッドの髪、金色の瞳、妖艶な笑みをたたえた女性がそこには立っていた。彼女がレシガだ。
「ずいぶん珍しことしてるのね、イースト」
「ちょっとアスファルトをからかいたくてね。それにほら、こんなことしても気絶しないお嬢さんなんて珍しいだろう? つい嬉しくて」
「ずるいわイースト」
 近づいてくるレシガを、レーナは困惑の瞳で見つめた。先ほどからアスファルトの声にならないうめきが聞こえているし、気からもレシガが何を思っているかもわからない。イーストに嫌われなくともレシガに疎まれるのは問題だった。故に困り切った彼女はレシガを見つめることしかできない。
 しかし次の瞬間、全く予想だにしていない事態が生じた。不意にイーストの手が放れたかと思うと、今度はレシガの腕が彼女を絡め取った。続いて耳元から心底楽しげな声が響く。
「ずいぶん可愛らしいお嬢さんね。どんな素材を見つけてきたらこんな風になるのかしら? 不思議な気をしてるし」
 イーストの時とは違い身長差が縮んだ分、レーナの視界は塞がれなかった。抱きしめられて身動きの取れないまま、彼女は現状を確認しようと必死になる。すぐに先ほど同様穏やかに微笑んだイーストと、額を抑えて口元をひきつらせているアスファルトが目に入った。少なくとも五腹心の二人には嫌われていないようだ。アスファルトにとっては歓迎しがたい事態のようだが。
「――二人揃って私の家族に何してる」
「別に君の所有物ではないだろう? アスファルト。私たちはぬくもりを欲してるんだよ」
 アスファルトとイーストは再び対峙していた。さらりと告げたイーストはくすりと笑い、まなじりを上げるアスファルトを楽しげに見つめる。対してアスファルトは今すぐ出て行けと言わんばかりの様子だった。ある意味危機的状態だ。成り行きを見守りながら、レーナは内心はらはらした。レシガが離してくれそうな気配はないし、二人の言い合いが収まりそうな雰囲気もない。
「君はユズがいるからいいだろうけどね、アスファルト。私たちが触れられる者なんて限られているのだよ。優秀な配下とて肩を叩くだけで体を強ばらせるし」
「何故誰かに触れる必要がある」
「そんなの言わなくてもわかるだろう? 今ここにいることを実感するためだよ。存在の揺らぎやすい私たちは、時にそれを実感しなければ危うい」
 イーストの放つ言葉に、レーナは数度瞬きをした。それはずっと彼女が感じていたことだったから、彼の言わんとすることはすんなり理解できた。そして理解できると同時に嬉しくなる。自分だけではないのだとわかり自然と微笑が浮かんだ。
「じゃあレシガ、そろそろアスファルトが本気で怒りかねないから離してあげようか。お嬢さんの出来の良さは十分実感できたしね」
 そのイーストの一言でようやくレーナは解放された。渋々と腕を解いたレシガは、それでも名残惜しそうに彼女の髪を一房手に取る。だがすぐに近づいてきたアスファルトがその手を払いのけた。レシガとアスファルト、二人の鋭い視線がぶつかり合う。
「ずいぶん大事にしてるのね、この子を」
「仕方ないよ、レシガ。だってユズを受け継いでいるのはこのお嬢さんだけだろう? それにアースたちはもう戻らないんだ。どうしても手放したくはないのさ」
 レシガとイーストはそう言葉を交わしたが、アスファルトは何も言わなかった。このまま喧嘩が始まるのだろうかと、レーナは不安げにアスファルトを見上げる。すると伸びてきた手に腕を取られて軽く引き寄せられた。
「本題に入れ。まさか抱きしめるためだけに来たんじゃないだろう?」
 鋭い声をアスファルトは放った。一瞬の間が空き、部屋の中を張りつめた空気が満たしていく。腕を取られたままのレーナは彼らを何度も見比べた。戦いが始まるとは思わないが、それでも諍いが起きて欲しくない。
「いや、確かめただけだよ。最後の一人がプレインたちにどう思われるか。でもこのお嬢さんなら大丈夫そうだね。ラグナは女の子には手を出せないし、プレインもこんな一見か弱そうな少女ならそれほど気に留めないだろう。ブラストはそもそも興味なさそうだしね」
 だから手放す必要はないよ、ささやいてイーストは破顔した。そして踵を返すと颯爽と歩きだす。空色の髪がふわりと揺れた。
「それじゃあ私はそろそろ失礼するよ。ああ、そうそう。明日にはきっとラグナたちが来るよ」
 扉に手を着いたイーストは振り返るとそう付け加えた。そしてたたずんでいたレシガと目を合わせると、再び歩き出す。その後を追うようにレシガも去った。突然の来訪が唐突に終わりを迎え、レーナは瞬きを繰り返しながら二人の消えた扉を見つめる。
「相変わらず食えない奴らだ」
 アスファルトの苦笑混じりの声が、静まった部屋に染み込んだ。

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