white minds

それはたった三日だった‐7

 研究所へユズが戻ってきたのは、イーストたちが帰ってから数時間たった時だった。気が感じられたと思った瞬間に、研究室の扉が音を立てて開く。
「ユズ!」
 満面の笑みで扉を開け放った彼女を、レーナは立ち上がって見上げた。静かだった研究所が賑わうのは嬉しい。だがユズの腕には見慣れない生き物が抱えられていた。明るい茶色の毛並みに愛くるしい瞳のもこもことした子犬。それが犬と呼ばれているものだとレーナにもすぐわかった。昔この研究所にもいたことがあるのだ。毛の色や大きさは若干違ったが、同じ種なのだということは理解できる。
「帰ってくるなり騒々しいな」
「それが私の取り柄よ、アスファルト。ほーらレーナ、新しい友だちつれてきたわよ! 神魔世界で凍えそうになってたから思わず助けちゃったの。仲良くしてね」
「お前はまたそれか」
 ユズがそっと子犬を手渡してきたので、レーナは読んでいた本を横に置いて慌てて受け取った。心配したが子犬が逃げ出すこともなく、むしろ嬉しそうに腕の中に収まる。温かくて小さくて柔らかいその存在は、彼女にとって初めての生き物だった。ユズとアスファルトの言い合いはいつものことなので気にせず、彼女はその小さな瞳をのぞき込むようにする。
「こんなに小さいのにちゃんと生きてる」
「そうよレーナ。神魔世界にはもっと小さい生き物もいっぱいいるのよ」
「本当? われもっと見てみたいな」
 子犬からユズへと視線を移し、レーナは微笑んだ。ずっと眠っている間は魔族のこと、神のこと、世界の理についてはいろいろ知ることができた。だが実際見て触れることは叶わなかったから、こうして実感できるのはすごく幸せだ。手の平から感じる体温に自然と笑みがこぼれる。
「だってよ、アスファルト。そろそろレーナも外に出してあげたら?」
「まだ目覚めて丸二日もたってないんだぞ」
「だけど十分適応してるでしょう? 言葉もわかるし気も安定してるし」
 子犬をそっと抱きしめたレーナは、言い合うアスファルトとユズの様子を盗み見た。外に出られるかもしれないと考えるのは嬉しいが、自分のことで二人が争うのは好きではない。だから複雑な心境になり彼女は眉根を寄せた。自分がもっとしっかりしていれば、変なことを言わなければこんな風にはならないのではないか? そう思うとほんの少し気分が重くなって、思わず抱きしめる力を強くする。
「ひゃっ!?」
 すると突然冷たい感触を腕に覚えて、彼女は声を上げた。見下ろしてみれば子犬も何かを察したのか、彼女の腕を小さな舌で舐め出している。そのくすぐったさに子犬を落としそうになり、彼女はそのままその場に座り込んだ。慌てたユズがすぐ同じように隣に膝をつく。
「どうかしたの? レーナ」
「あ、いや、えーと子犬が……」
「あーあなたのこと気に入ったのね。本当この子は人懐っこいんだから。今朝も女の子ばっかり追いかけてたのよー、ってそれは女好きって言うのかしら」
「うーん
 くすりと笑い声をもらすユズをレーナは困ったように見上げた。くすぐったくて仕方ないのだがユズが助けてくれる様子もない。どうしようもなくて困惑気味にアスファルトを仰ぐと、嘆息した彼は近づいてきた。
「今日私はこれから調査に行く予定だったんだが」
「ん?」
「一緒に行くか?」
「えっ?」
 だが降りかかってきたのは思いも寄らない言葉で、レーナは小首を傾げた。外へ行きたいから彼を見たわけでもないのだが、そう取られてしまったようだ。
「よかったじゃないレーナ! ほら、ちゃい君も喜んでるし」
「ちゃい?」
「この子の名前よ。名前がないとかわいそうでしょう? あ、私はこの後またアースたちの様子また確認してくるから、二人で行って来てね」
 そうやって次々と話を進めていくユズは嬉しそうで、レーナは何も反論できなかった。アスファルトは呆れ顔だがそれ以上口喧嘩を続ける気もないらしい。勝手に色々決められるのは困るが、しかしこれで二人の喧嘩が終わると思えばそれも悪くはなかった。すり寄ってくるちゃいの頭を撫でて、彼女は破願する。
 外は、アースたちのいる場所に繋がっているんだよな。
 さらにそんなことを思うと、ほんの少しだけ胸の奥が温かくなる気がした。




 初めて見る外の世界は予想外なものだった。
 ひたすら広がる大地にはまばらに草が生えるだけで、生き物どころか命の気配がまるで感じられない。空も厚い雲に覆われていてその先がどうなっているかはわからなかった。ユズがよく話していた地球の様子とはまるで違う。彼女は辺りを見回しながら、腕の中にいるちゃいを抱え直した。
「えーと、アスファルト……」
「お前には悪いが今日回る場所は全て空間の歪みが激しい星だ。だから生き物はほとんどいない」
「そっか」
「だからしばらくはその子犬とでも遊んでいてくれ」
 困惑のためにもらしたつぶやきに、アスファルトはそう答えてくる。彼女はこくこくとうなずくとちゃいを地面に下ろした。草の感触が嬉しいのか、ちゃいは飛び跳ねながら辺りを走り始める。その茶色い姿は大地の中に綺麗に溶け込んでいった。
「迷子になるなよ」
「あ、うん。気は感じられるから大丈夫」
「ああ、そうだったな」
 心配そうな彼に彼女は軽く手をひらひらとさせて笑った。彼はうなずいてからその場に座り込み、地面へと手を触れさせる。それが『調査』なのだろう。彼の横顔を一瞥してから彼女は再びちゃいへと視線を移した。あちこち走り回る小さな姿はもう目では捉えられない。だがその気は感じられた。彼女は口元をゆるませてから軽く地を蹴る。
「風がある」
 走るという行為は思っていたより体に馴染むもので、心地よかった。風を切る感触が、揺れる髪が時折背中を撫でる感触が楽しい。すぐにちゃいの姿が目に映り彼女は速度を落とした。ちゃいの足はそれほど速くないらしい。振り返ればとうにアスファルトの姿は見えなくなっていて、彼女は瞳を細めた。
「外って広いな、すぐに見えなくなる。こんなにはっきりと気を感じるのに」
 見えなくなるのは研究所の中にいるためだと思っていた。ユズが、アースたちが外へと出て見えなくなるのもそうだと。だが違うのだ。こうもあっさりと『当たり前』は視界からは消えるのだ。そんなとき存在を実感するのは気だけ。眠っていたときと同様に、気だけで判断する世界になる。
「ちゃい……」
 彼女はその名を呼んだ。急に不安になって顔が曇った。何かに触れていないと眠っていた時と同じだと気づいてしまったから、自分が本当に生きているのか自信が無くなってしまう。
「ちゃい」
 もう一度呼ぶとちゃいは彼女へと向かって走ってきた。ぽんぽんと飛び上がるように駆けてくる姿は可愛らしい。彼女はその場に膝をついて、飛びついてきたちゃいを抱き留めた。
「イーストたちが言ってたことは本当だ」
 こうして抱きしめていれば自分の存在を実感することができると、彼女は息を吐き出した。生きていることがこんなに頼りないものだとは考えてもみなかった。動くことができれば別の世界が待っているのだとずっと思っていたのに、それは真実ではなかった。
「ねえ、ちゃい」
 温もりを手放さぬよう彼女は腕に力を込めた。もごもごと動いたちゃいは体勢を整えたのか、研究所の時と同じように腕をぺろぺろと舐め出す。けれどももう嫌だとは思わなかった。くすぐったいのはどうしようもないけれど、存在していることを実感できる方がずっといい。
「えっ?」
 だが突如、得体の知れない感覚が彼女の体を突き抜けた。空から何かが近づいてくる気配がする。その何者かの纏う気は悪意に満ちていて、全身を突き刺すような痛みが生じた。彼女は思わずちゃいを手放す。
「あ!」
 地面に下ろされたちゃいは、気配に気づいていないのか走り出した。遊びの続きだろうか? 飛び跳ねるその姿はどんどん小さくなる。しかしその間にもさらに悪意の気は近づいてきていた。見えない雲の向こうを見透かそうと彼女は立ち上がる。
 刹那、地面が揺れた。
 雲の割れ目から幾つもの光の束が地上へと降り注いだ。よろめいて膝をついた彼女は立ち上がろうとする。が地が揺れる度にまた座り込んでしまった。体ごと揺さぶられるような感覚に足下がおぼつかない。
「ちゃいが危ない――」
 土煙の上がる中、彼女は必死に小さな姿を探そうと躍起になった。すぐ目の前の地面がえぐれているのは光の束が直撃したせいだろう。これは技によるものだ。かなりの熱量だったのか周りの草まで焦げて黒くなっている。
「ちゃいは結界を張れない」
 彼女はよろよろと歩き始めた。よく見れば自分の周りの地面もえぐれていたが、彼女自身が全くの無傷だった。おそらく咄嗟に結界を張ったのだろうが、自分でも不思議だ。だが、ちゃいにはそれができない。犬という種族は技を使えないはずだ。使えるのは魔族と神、それに一部の人間だけだと聞いている。
「あれ?」
 その時、体をぞくりとした感覚が通り抜けていった。彼女は足を止めて口を何度も閉口させる。空から降り注ぐ攻撃はいつの間にか止んでおり、地面の揺れは収まっていた。だが先ほどまでとは決定的に違う事実に気がついて彼女は身震いした。自らの腕を抱きしめて止めようとしても、それは無駄な努力にしかならない。うつむいた先の焦げ付いた草が妙に悲しく見えた。
「ちゃいの気がない」
 見えないときに頼りにしていた気が、感じられなくなっていた。その意味するところを言葉にできなくて、したくなくて、彼女は唇を震わせる。
「ちゃいがいなくなった」
 彼女は地面を見つめながら一歩ずつ進んだ。ちゃいの姿を見逃さないよう目を凝らして、時折つまずきなりそうになりながらもゆっくり進む。遠くから聞こえる爆裂音が、攻撃が止んでいないことを伝えてきた。場所が変わっただけなのだろう。アスファルトは大丈夫かとふと心配になるが、彼は魔族だから大丈夫だ。
「あ……」
 しばらく歩くと、探し求めていた小さな存在が目に入った。深くえぐれた地面の中に埋もれるように、ちゃいは横たわっていた。元の毛並みなどわからないほど黒く焦げ付き、血の滴る足からはほんの少し骨まで見えている。ただ後ろ足だけが痙攣していた。彼女はおそるおそる近づいた。
「ねえ、ちゃい」
 呼びかけてもその子犬が飛び跳ねることはない。側に寄れば時折動いていた後ろ足まで動かなくなった。気が感じられない、息も感じられない。命が、感じられない。
「ねえ、ちゃい」
 彼女はそっとちゃいへと手を伸ばした。剥き出しになった肉へと触れると、べとりとした赤い液体が手を染める。それは温かくて、ちゃいがそれまで生きていた証拠のように感じられた。だが先ほど感じていた温もりとは違う。そこには決定的な何かが欠けていた。
「ちゃい、死んじゃったの、か?」
 死の様子を全く聞いていなかったわけではない。また血というものがどれだけ重要なのかも、ユズたちの話から理解してはいた。けれどもそれでも否定したくて呼びかける。小さな命に動いて欲しくて、また走り回って欲しくて、彼女は唇を震わせた。
「われのせいで……」
 あの時手を離さなければよかった。
 咄嗟に頭をよぎったのはそんな言葉。
 腕の中に抱いたままだったなら無意識に張った結界が守ってくれた。いや、そもそもつれてこなければこんなことにはならなかった。彼女が行きたいなどと言ったから、ちゃいは死んだのだ。
「われが、ちゃいを殺したんだ」
『そう、われがいたから死んだ』
 自分が存在しなければ、ちゃいは死ななかった。
 胸の奥底からわき上がったのは、得体の知れない感情だった。同時に頭の中を何度も、いつか聞いた声がそう繰り返す。自分という存在が罪なのだと。自分さえいなければ、皆幸せになれるのだと。
 体の奥が熱くなった。
「や……」
 眠っていた何かが溢れ出すのを、途切れかけた意識の中で彼女は感じた。周囲が一瞬で白む光景が、かろうじて視界に入った。



「どうしたんだよアース」
 ネオンにそう呼びかけられて、アースは我に返った。気づけば雑踏の中立ち止まっており、数人の町人がその横を迷惑そうに通り抜けていく。夕方の商店街はある意味戦場なのだから、それも仕方ないだろう。
「いや」
 彼はゆっくり首を横に振った。何故かと聞かれれば答えられることは答えられたが、今口にするのは憚られた。レーナの気を感じたなどネオンたちに言えるはずがない。ことあるごとに研究所へと戻りたがる彼らに、アスファルトたちの名を口にするのは危険だった。先ほどこっそりユズが様子を見に来ていたが、出てくるなと目で合図した程だ。
「そんなことより僕お腹空いたよー」
「またか!?」
「こいつに食事時って概念はないっての。そもそも必要ねーのに」
「おいカイキっ。それはこれから言うなってアースに注意されただろ!」
「あ……」
 わいわいと騒ぐネオンたちの視線が、アースへと注がれた。だが今それどころではないアースは、軽くねめつけるだけで終わりにしておく。ほっとしたカイキが胸をなで下ろすのが、視界の端に映った。
「今のは、何だったんだ?」
 歩き出した彼は空を一瞥して、口の中だけでつぶやいた。今感じたのは確かにレーナの気だが、ここから研究所まではかなりの距離がある。いや、そもそもあそこは半分別空間にあるのだ、普通感じられるはずがない。ユズのように気の察知が得意ならばともかく、アースはどちらかといえば苦手な方なのだ。
 何もなければいい。
 なお騒ぐ仲間たちを振り返って、彼はそう願った。

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