white minds

それはたった三日だった‐9

 部屋の中ぼんやりとした意識で目を開けたレーナは、突如感じた悪寒に身震いした。体の底から感じた妙な感覚には、炎に焼かれた後凍らされたような、何とも言い難い熱が込められている。
「な、んだ……?」
 無理矢理体を起こした彼女は辺りを見回した。部屋の中は眠りにつく前と何ら変わりない。ずり落ちそうになっていたシーツをたぐり寄せて、彼女は瞬きをした。異変は特に感じられない。ここは第三研究室の中だ。
「何でこんなに熱いのに震えるんだ?」
 シーツごと自らの腕を抱きしめてみても震えは止まらなかった。胸の奥が焼け付くように痛くて、心臓の鼓動も速まっている。
 ここを出るんだ。
 すると不意に頭の中に声が、響き渡った。
 時折聞こえてきていたあの声と全く同じ。自分とよく似た声が、警告を発していた。同じ声のはずなのにそこには熱のこもった鋭さがある。体中を衝撃が走り抜け、レーナは奥歯を噛んだ。
「ここ、って?」
 ここを出るんだ。
 問いかけても声は同じことを繰り返すばかり。とりあえず彼女は硬い簡易ベッドから立ち上がると、ゆっくり部屋を出た。『ここ』がどこを指すのかはわからないが、動かないよりはましだろう。
 ここを出るんだ。
「だ、だからここってどこなんだ?」
 しかし声はまだ続いていた。ここというのはどうやらあの部屋ではなかったらしい。もつれそうになる足を叱咤激励して、彼女はひたすら廊下を歩いた。感じる悪寒のせいで自分がどこへ向かっているのかもよくわからない。薄明かりの灯った灰色の廊下さえ、見慣れたはずなのに異質に思えた。
 ここを出るんだ、とにかく出るんだ。
「だから、ここって一体どこを指すんだ?」
 ここを、魔族界を出るんだ。
 けれども声の出した答えに、彼女は思わず足を止めた。『ここ』の示す場所があまりにも広すぎて目眩がしそうだった。
 魔族界、それはこのアスファルト研究所がある世界に他ならない。いや、この研究所は半分が魔族界、半分が神魔世界にまたがるよう建っているから正確な表現ではないが。
「じゃあまさかここを、研究所を出ろというのか?」
 尋ねてみても、それ以上答えは返ってこなかった。ただここを出ろと繰り返す声に涙が溢れそうになる。
 どうして急にそんなことを言い出すのだろう? 何故魔族界を出なければいけないのだろう?
 研究所から神魔世界へ出るためには特別な出入り口を通らなければならない。つまりそこを通ればアスファルトにあっさり気づかれてしまう。無論魔族界と通じる入り口もそれなりにしっかりとはしていたが、出る分にはたいした障害はなかった。おそらくアスファルト自身が面倒だったのだろう。だから研究所を出るためには、まず魔族界へ出なければならない。
 ここを、魔族界を出るんだ。
 立ち止まったためか、声の調子が強くなった。体を包み込む熱はさらに痛みを伴い、吐き気がこみ上げてくる。レーナはその場で膝を折り、口元を抑えた。
 研究所を出ることに何の意味があるのだろうか? それとも今だけ抜け出せばいいのだろうか?
 痛みと震えと吐き気に襲われる中、彼女は必死に頭を働かせた。一旦抜け出すだけならば何とかなるかもしれない。しかしもうここへ戻ってくるなという意味ならば、それや嫌だった。アスファルトやユズにもう会えなくなるなど耐えられない。いや、何より二人に心配をかけてしまうだろう。突然いなくなるなど。
「何で、こんな、急に……」
 壁にもたれかかって彼女はつぶやいた。熱のこもった体にその冷たさが染みこみ、ほんの少し呼吸が楽になる。彼女は瞑目してその冷たさを全身で味わった。
 ここを出るんだ。
 しかし、声は容赦なかった。繰り返される言葉に抑揚はなく、ただ言葉が放たれると同時に体から何かが溢れそうになる感覚がある。震えが強くなって彼女は瞼を持ち上げた。
「あ、れ?」
 その感覚に、彼女は心当たりがあった。あの時、ちゃいが死んだと認識した時に感じたものと同じだ。記憶が途切れる直前に感じた熱と、体の奥が痺れる感覚とよく似ている。
 まさか。
 今度は違う悪寒に彼女は襲われた。まさかあの時と同じことが起きるのではないか? あの時知らぬ間に星を荒野にしてしまったように、この研究所を無に帰してしまうのではないか?
 そう考えると奥歯に力がこもった。あれを繰り返すわけにはいかない。それならば何としてでも、ここを出なければならない。
「そうか」
 立ち上がって歩き出しながら、彼女は右の口角だけを上げた。この思考そのものが声の狙いなのだと気づいてしまったから、泣きたいのに笑い出したいという妙な気分になった。この研究所を守りたいならばここを出ろと、つまり脅しているのだ。この体の中にいる何者かは、そうやって脅してきたのだ。
 ここを出るんだ。
「わかってる」
 痛みと震えと吐き気を堪えて、彼女はまず魔族界への出口を目指した。とりあえずアスファルトに気づかれず研究所を出るのが先決だ。魔族界を出るのはその後でもいい。
 灰色の廊下を歩く時間は、ひどく長く感じられた。実際はそんな距離でもないはずだが、現状ではそれさえも辛いということだろう。彼女は壁に手をつけながら必死に歩き、ついに扉まで辿り着いた。ここを出てとにかく研究所から遠ざかろう。そう決心して扉に近寄れば、それは音を立てずに勝手に開いた。彼女はうっすら微笑んで外への一歩を踏み出す。
「すまないアスファルト、ユズ」
 小さく一言だけ口にして、彼女は研究所の扉を一度振り返った。音を立てずに閉まった扉は土埃を浴びて薄汚れている。外の空気は生暖かく、緩やかに吹く風には土の臭いが混じっていた。なびく髪を手で押さえて彼女はまた歩き出す。
「な……」
 だが次の瞬間、近づいてくる巨大な気に彼女は体を強ばらせた。あらゆるものを圧倒するような威圧的な気だ。それが二つ、この研究所へと真っ直ぐ向かってきている。彼女はおそるおそる空を見上げた。
「これは、まさか――」
 五腹心の気。
 そう判断して彼女は唇を震わせた。すっかり忘れていたがそのうちラグナとプレインがやってくると聞いていたのだ。眠っていた時間がどのくらいか定かではないが、ひょっとしたら約束の時刻にもうなっていたのかもしれない。
 二人に気づかれてはまずい。逃げ出すところを見つかれば怪しまれるだろう。いや、止められるかもしれない。そうなればこの声の主はまた力を暴発させるだろうか? ここら一帯を不毛の地とするのだろうか? 描き出された未来に唇を噛み、彼女は走り出した。
 そんなことになれば取り返しがつかなくなる。だから一刻も早く、魔族界を出なければいけない。
 茶色くすすけた大地を彼女は走り続けた。貫くような、引き裂くような痛みが体中を覆い、目の前が霞んでくる。しかしそれでも何とかして逃げ切れなければならない。彼女はひたすら、そう自らに言い聞かせた。
 ここから出るんだ、とにかく出るんだ。
 先ほどまで止んでいた声が、彼女をさらに追い立て始めた。そこにはわずかながら焦りが含まれている。もつれそうになる足を叱咤して、彼女は首を縦に振った。
「おいおい嬢ちゃん」
 けれども残酷にも声が、背後から聞こえてきた。呆れとも愉悦とも取れる響きでそれはすぐ近くから聞こえてくる。迫り来る気に、彼女は立ち止まりそうになるのを必死に堪えた。今背後にいるのは五腹心だと本能がそう告げている。だから振り返ってはいけないと、体中が叫んでいた。
「おい嬢ちゃん、何でそっち行くんだ」
 それなのに背後から降りかかる声は不思議と温かかった。逃げる小動物を見守るかのような、ちょっとした優しさがそこには含まれている。彼女は立ち止まりたい衝動に駆られた。痛みと吐き気に体は限界を訴えていて、本当は走ってなどいられないのだ。
 けれどもそんな迷いが、彼女の足をもつれさせた。よろけそうになった彼女はスピードを落として、何とか体勢を立て直す。すると目の前に一人の男が、悠然と立ちはだかったのがかろうじてわかった。焼けた肌に草色の髪、筋肉質の男だ。仕方なく立ち止まった彼女はゆっくりと顔を上げる。
「おいおい嬢ちゃん、何で逃げるかなあ、おい。そんなにオレらが怖いかい?」
 男の眼差しは真っ直ぐ彼女へと向けられていた。容姿や言動から考えるに、彼はラグナに違いない。プレインはもっと無口で冷たい男のはずだから、どう考えてもそちらではなさそうだった。ラグナは好戦的だが部下思いとして知られており、また女に弱いのだとユズが言っていた。
「どいてくれ」
 ならば何とかすれば逃げ切れるかもしれない。
 かろうじて希望だけは捨てずに、彼女は一言そう口にした。吐き気と戦いながら言葉を発するのは難しい。するとラグナの片眉が跳ね上がり、唇の端がつり上がった。笑っているのか怒っているのかわからない表情で彼は小さく肩をすくめる。
「誰に言ってるのかわかってるのかい、嬢ちゃん? えーっとレーナだったか? おいたもいい加減にしてくれないとオレが困るんだけどよ。女には手を出したくないんだ、だからおとなしく言うこと聞いてくれ」
 言いながら彼はゆっくりと歩み寄ってきた。できる限り怯えさせないようにと配慮した速度で、それでもじわじわと近づいてくる。
 ここを出るんだ。
 すると頭に響く声の調子が、さらに強くなった。体から何かが溢れ出しそうになる感覚に彼女は震える。このままでは手遅れになると体中が叫んでいた。この場所で『あれ』が起きたら研究所へも被害が及ぶ。ラグナは五腹心だから平気だろうが、建物の被害はどうにも避けられそうになかった。
「来ないでくれ」
 必死の思いでそう言い放つと、いつの間にか手に真っ白な刃が生み出されていた。その事実に彼女は目を見開く。何故自分がこんなものを生み出せたのかわからず動揺すると、ラグナの瞳が細くなったのが視界に入った。彼の口からため息がこぼれ、緩やかな風がかさついた砂を巻き上げる。
「嬢ちゃん、まさかオレを斬る気か? オレが何と呼ばれてるか知らないのか?」
「どいてくれ、お願いだから」
 どうしたら刃が消せるのかわからず、仕方なく彼女はそれを構えた。威嚇の意味も込めてだ。しかしそれでも彼の態度が変わらないのは余裕のためだろう。彼を斬った者は今のところ転生神ヤマトただ一人。それは有名な話で、彼女も『眠っている間』に聞いていた。だから彼が余裕なのもうなずけるのだ。
「そんな無駄なことは止めてくれよなあ、おい。なあ嬢ちゃん」
 彼の歩調が少しずつ速まってくる。彼女は刃を構えたまま唇を噛んだ。そして来ないでくれと何度も胸中で願って、近づいてくる彼をにらみつけた。アスファルトに気づかれる前に魔族界を出るのだ。手遅れになる前に、ここを出なければならないのだ。
「なあ嬢ちゃん?」
 彼の伸ばした手がすぐそこまで迫ってきた時、彼女はその刃を振るった。それはほとんど無意識の動作だった。ただそれ以上近づいて欲しくなくて振るった刃。なのにその時だけは痛みも何もかもを忘れ、それが当たり前であるかのように動くことができた。舞うように白い奇跡を描いた刃は彼の右肩へと向かう。それをすんでのところでかわし、彼は跳び上がった。
「無駄だって言ってるだろう!」
 傷つけたくないせいだろう、手刀を構えた彼は瞬時に彼女の背後へと降り立つ。そしてその手が彼女の首へと伸ばされた時、彼女は驚くべき反応速度で右膝をついた。
 それは一瞬。彼の手刀が彼女の頭上を横切る一瞬。
 彼女はその無理な体勢から白い刃を軽く旋回させた。その刃は、彼の胴を深々と切り裂いていた。
「な……に?」
 血しぶきが彼女の顔をぬらす。熱い液体が頬をしたたり落ちて、白い服に染みを作った。自分でも何が起きたかわからずに彼女は数回瞬きをする。何が起きたのか、今自分が何をしたのか。信じがたくて目を見開いた彼女は、それでもここから離れようという一心でその場を飛び退いた。土の臭いに血の臭いが混じり、鼻の奥を突く。
 早くここを出るんだ。
 すると声が早くと急き立ててきた。不意に強く込み上げてきた吐き気に視界が白く霞む。しかしそれでもかろうじて堪えた彼女は、腹を切り裂かれたラグナを視界の中に収めた。彼は目を見開いたままその場に膝をつく。
「馬鹿、なっ。そんな剣が、オレの体に傷つけられるわけがねえっ」
 かすれた声で叫んだ彼は、さまよわせた視線をゆっくり彼女へと向けてきた。彼の体は生半可な剣では傷つかないことで知れ渡り、それ故に恐れられていた。それが彼が彼である証でもあったのだ。それがまさか彼女の刃に切り裂かれるなど、信じられないのだろう。彼女だって信じられないのだから当たり前だ。
「そうだ、逃げなくては」
 そこで目的を思いだして彼女は走り出した。力無い足取りだが、もう追いかけてくる者はいない。あとはアスファルトが気づく前にここを出ればいいのだ。背後から聞こえるラグナの声を無視して彼女は大地を駆けた。
 いや、急がないと駄目だ。
 しかし近づいてくる気が二つであったことを思い出して彼女は焦った。ラグナだけではない、傍にはプレインもいたはずなのだ。ラグナが斬られたことを知られたらプレインは全力で向かってくるかもしれない。
 まずい。
 彼女は顔を歪めてがむしゃらに刃を振るった。それは意味のないはずの行動だったが、しかし手の平には確かな手応えがあった。よろめいた彼女はその場に膝をつく。
「え?」
 すると目の前には、奇妙な光景が広がっていた。何もないはずの空間に切れ目が生じ、そこから黒と赤と青と……奇妙に色が混じり合った何かが見え隠れしている。見たこともない空間だった。
「……っ!」
 しかし迷わず彼女はそこに飛び込んでいた。そこが何であるかはわからないが、魔族界ではないことだけは理解できた。ならば魔族界を出るという目標はとりあえず達成される。これで『声』も文句を言わないはずだ。
 頭が痛い。息が苦しい。重かった体が、熱を持ったまま消えていく。
 もうろうとした意識の中で、彼女はどこへともなく手を伸ばした。ただわがわからなくて、怖くて、指先は確かなものを求めた。するとそこに温かな何かが触れた感触がする。温かくて安心できる懐かしい何かに、彼女は安堵の微笑を浮かべた。
 何も見えないから、何かはわからない。だが恐ろしいものではない。その温かさに全身を包まれたところで、彼女の意識は落ちた。
 だからその名を呼ぶ声が、彼女の耳に届くことはなかった。

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