white minds

それはたった三日だった‐10

 腕の中に閉じこめた体は、記憶にあるよりか細かった。抱き留めた途端かかった重力も、生きている者の重みでないかのように軽く感じられる。
「レーナ?」
 思わずそう呼びかけて、アースは瞬きを繰り返した。けれども脱力した彼女から返る声はない。崩れそうになる体を支えて、彼は何が起こったのか必死に考えた。
 この星へ来たのは、ほんの偶然だった。彼女の声が聞こえた気がして、何かが起こっている気がして仕方がなかったから、暇を潰す仲間たちに黙って飛び出してきたのだ。しかしかといってアスファルトの研究所に戻るわけにもいかず、その近くの星に足を踏み入れた。だが誰も住んでいないらしい星はひたすら荒野と岩ばかりで、結局近づいても何が起こってるのかはわからない。それで仕方なく帰ろうとした矢先だったのだ。彼女が現れたのは。
「何もなかった、はずだ。誰もいなかったはずだ。空間が裂けるまでは」
 彼は視線を上げて思い返す。突然現れた気配に振り返ると、黒い裂け目の前に彼女が立っていた。血に染まった服を纏った少女は、うつろな目でたたずんでいた。しかしそう思ったのも一瞬のことで、華奢な体はすぐに傾いた。だから慌てて手を伸ばして抱き留めたのだ。その結果が今なわけだが。
「何が起こったんだ?」
 振り返ってみてもやはりわからず、彼は途方に暮れた。だがこのままというわけにもいかない。彼女の体を横向きにして、彼は抱え上げた。華奢な体は気を失ってもやはり軽い。その事実に苦笑しながら彼は歩き出す。とりあえず横にならせた方がいいだろう。見たところ彼女自身からの出血はないようだが、気はやや不安定だ。
「いや待てよ、この服のままだとまずいか?」
 しかしその事実に気がついて彼は愕然とした。星を出ようにも血だらけの服ではどこにもつれていけない。かといって人のいないこの星ではシーツ一つないはず。まさか地面に転がしておくわけにもいかないだろう。
「まさか、起きるまでこのままなのか?」
 つぶやいて彼は彼女の顔を見下ろした。頬へも血の飛沫が幾つもあって、白い肌の中目立っている。それは彼の知っているレーナという少女に似つかわしいものではなかった。幸いにも彼女自身に怪我はないようだが、戦いを想起させるものはできるだけ取り除いてやりたい。
「仕方がないか」
 彼は微苦笑して再び歩き出した。向かうのは星の外ではない、洞窟だ。そこなら風よけにはなるだろう。それに日が沈めばかなり冷え込むだろうから、薪の準備もしなければならない。
 洞窟など都合よくあるものかと心配したが、手頃なのはすぐに見つかった。少し歩けば山間の中に、ぽっかりとした穴があったのだ。中に何者もいないことを気で確かめて彼はそこへ入る。逃げる動物の気配さえない。入り口傍に腰を下ろすと、彼はあいた左手を地面へ向けた。そして精神を集中させる。
 掌から生み出されたのは、水だった。
「勢いつけすぎたか?」
 しかし水流が思ったよりも激しかったらしく、地面には深い穴が開いていた。水は無事溜まっているが、下手をすれば洞窟ごと崩れかねない深さだ。苦手な系統だとこうも失敗するかと自嘲気味に思い、彼は首に巻き付けてある赤い布を取った。
「起きて……はいないか」
 そしてもう一度レーナの顔をのぞき込んだ。これだけ音が出れば目覚めるかとも思ったが、耳を澄ましてみても規則正しい息が繰り返されるだけだ。彼は仕方なく手にした布を水につけた。そして片手で軽く絞り、余分な水気を取る。
「こんなのですまないがな」
 彼は独りごちるとその布を彼女の頬に当てた。血がこびりついたままなのは嫌だろうし、見ている彼も不穏な気分になる。しかし心配には及ばず、血はすぐにふき取れた。新しいものだったのかと訝しげに思い彼は首を傾げる。そんな戦闘の気配は感じられなかったが。
「怪我もしてないしな」
 布を手にしたまま、彼は彼女の体をもう一度見下ろした。鮮血に染まった白い服をのぞいては汚れすら目立たない。薄暗い中でもその白い肌は透き通るようだった。彼は目を細める。
 問題はこの服だ。
 このままだと気持ち悪いだろう。が、着替えもない。そもそも黙って脱がせるのは気が引ける。悩みどころだった。
「だがこのままなのはなあ」
 彼はため息一つこぼすと、まず自分の上着を脱いだ。代わりに着せる物といえばこれぐらいしかないだろう。目覚めて三日の少女にするには変態じみた行為にも思えるが、そこはぐっと堪える。そして意を決すると彼女の上着の裾に手をかけた。袖のない白い服はよく伸び縮みして、脱がせるのは容易だった。彼はそれを水の中につっこむと、急いで自分の上着を手にする。あとはこれを着せればいいだけだ。
「まったく、われは何をやってるんだろうな」
 着替えさせるところまで成功して、彼は自嘲気味に笑みをこぼした。彼女が心配になり様子を見に来て、そしてわけがわからないままに再会して。今までの自分を知る者からすればまるで別人だろう。しかしどうしても気になるのだ。あの不思議な微笑みを思い返すだけで心がざわつく。
 馬鹿だな。
 心の中でつぶやいて、彼は水の中から彼女の服を引っ張り上げた。予想通りあっさりと血は落ちていて、もう元の白さだ。『未成生物物体』の服は、人間のものよりも神や魔族のものと近い。だからこれもただの服というよりは体の一部に近いものなのだ。あとは乾かすだけでいいだろう。
「早く目覚めて、そして話してくれ」
 彼女の頬にそっと指先で触れて、彼はささやいた。それでも彼女は身じろぎ一つせず、目を瞑ったままだった。




 不思議な夢を見ていた。夢なのか現実なのか、過去なのか何なのかわからない夢。それは温かくも切なくて、儚くて、寂しい夢だった。それがどんな内容だったのか一瞬後にはわからなくなっているのに、ただ引き出された感情だけが胸に残っている。
 それらに流されたくなくて、押しつぶされたくなくて、レーナは目を閉じて耳をふさいだ。夢だとわかっているのに終わってくれない。また次の夢が現れて、彼女を押し流していくのだ。
「やっ……」
「レーナ?」
 そんな呪縛を振り払おうと息を吸い込むと、頭上から呼びかけられる声が聞こえた。その声音が今まで聞いたどんな声とも異質のものだったのでら、レーナは驚いて瞼を持ち上げる。
「起きたのか?」
「ア、アース?」
 おそるおそる見上げると、すぐ目の前にはアースの顔があった。心配そうにのぞき込んでくる黒い瞳は別れる前に見たものと変わらない。額に巻かれた鉢巻きも、黒ずくめの服も同じだ。ただ首元に巻かれていたはずの赤い布だけが見あたらなかった。
「あ、あれ? 何でアースが……」
「それはわれの方が聞きたい。何故お前はこんな星に飛び出してきたんだ?」
 わけがわからなくて混乱するレーナに、アースはそう言ってから一瞬視線を逸らした。その理由がわからずに彼女は小首を傾げる。すると長い黒髪が彼の腕からこぼれ落ち、地面へと触れた。それにつられるように目線を周囲に向けて、彼女はさらに困惑する。
 二人がいるのは見慣れない場所だった。これが洞窟と呼ばれる類のものだとは知識では知っているが、実際見たことはない。アスファルトの研究所の傍にはなかったのだ。しかし不思議なのはそれだけではなかった。服に付いていたはずのラグナの返り血が消えているし、ずっと感じていた焼け付くような痛みもない。あの時のことが夢だとは思えないが、現実がそれを裏付けてくれなかった。彼女は顔をしかめる。
「あの、アース。われはえっと」
「突然空間が裂けたと思ったらお前がいたんだ」
「え? あーやっぱり空間裂けたのか。ってことはあれは、現実なんだよな」
「何があったんだ?」
 けれどもアースの言葉は、希望を軽々と打ち砕いた。あのラグナを斬ったという信じがたい現実を再確認して、彼女は一旦閉口する。あの後アスファルトはどうなったのだろうか? プレインが来ればラグナが斬られたことはすぐにわかるだろうが、その後どうなったのだろうか? 今頃彼女を捜している? それともアスファルトを詰問している? 考えれば考えるほど恐ろしくなって体が震えた。すると体に回されたアースの腕が、さらに強く抱きしめてくる。彼女は息を呑んで瞠目した。
「アース?」
「焦らなくていいからまずは落ち着け。時間はある」
「時間……あの、われがここに来てからどれくらいたったんだ?」
「そうだな、んー半日くらいか」
「半日!?」
 レーナは声を上げた。となるともうプレインは動き出していると考えていいだろう。いや、ラグナが斬られるという想定外の出来事に五腹心会議でもやっているかもしれないが、何にしてもアスファルトは既に詰問された後だ。彼女の居場所がまだばれていないだけ幸いといったところか。
「ア、アース。われ、どうしよう……」
「何だ突然?」
「帰る場所も行ける場所もなくなってしまった」
「……は?」
 彼女はゆっくりと彼の顔を見上げ、それから目線をそらした。
 内から聞こえるあの声を考えれば、アスファルトの研究所には戻れない。魔族界にも行けない。いや、たとえ声が許しても自分の所業を思い起こせば戻ることは不可能だった。だが不用意に人間のいる世界――神魔世界に行くこともできない。五腹心に見つかれば終わりなのだ。
「レーナ、お前――」
「ラグナを斬ったんだ」
 一言簡潔にそう告げると、痛い程の静寂が訪れた。信じられないのだろう、注がれる彼の視線からは驚きと警戒の色が読みとれる。当たり前だ。自分とて信じがたいと思っているのだから。
 これからどうするべきなのか。考えながら彼女は軽く瞑目した。肌を包む沈黙が、波立った心を落ち着けてくれるようだった。

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