white minds

それはたった三日だった‐11

 薄暗い洞窟の中、レーナの話をひたすら黙って聞いていたアースは頭を抱えたい気分になった。それは途方もない話だった。アスファルトの研究所を飛び出してラグナを斬ったというだけでも十分驚くには値するのに。それなのにさらに彼女の中に別の何者かが存在しているなど、聞いてすぐ納得できるものではない。
 けれども否定する気にもなれなかった。彼女が彼らとはどこか違うというのは前から感じていたから、それが内にいる何者かのせいなのだとしたら一応説明はつく。理解できるのとはまた別だが筋は通っていた。
「目覚めてから時折われだけに聞こえる声がするんだ。それが何者なのかは知らないけれど、それが内にいる者だってことはようやくわかってきた」
 隣に座るレーナは小さくなって膝を抱えていた。その華奢な体は揺れる炎に照らされて揺らめいているようにも見える。彼は瞳を細めてそんな彼女の横顔を眺めた。励ましてやりたいと、もう一度笑って欲しいと思うのに、浮かんでくるのは温かくない言葉ばかりだ。そんな自分に嫌気が差してくる。
「誰かがどこかからお前の頭の中に干渉してきている、ではなくてか?」
 結局適当な慰めが見つからずに、彼はそう問いかけた。同時に内心で苦笑する。他人の頭の中に直接話しかけるなど高位の魔族や神がすることだ。それを目覚めたばかりの彼女に行うなど何ら利点がない。少なくとも彼には思いつかない。彼女の話が途方もないのと同じくらい、考えにくい可能性だった。
「その可能性も考えたが……ならばアスファルトやユズが気づかないわけないだろう? 外からの干渉なら二人は感づく」
「確かにそうだな、あいつらならば察知できる」
 すると彼女はちらりとだけ顔を上げてそう答えてきた。もっともな返答に彼は相槌を打つ。アスファルトは五腹心の次に力を持つと言われていた魔族であるし、ユズは転生神リシヤの妹なのだ。その二人に気づかれないよう外から力を及ぼすなど、それこそ今はいないさらに高位の神や魔族でなければできないことだろう。彼女も同じことを思ったのか複雑そうに苦笑してみせた。
「ああ、二人に気づかれず力を行使するとなると相当の実力者ってことになるものな」
「そうだな」
「でもわれの内にいる『彼女』も同じくらいやっかいな者かもしれない」
「は?」
 しかし彼女はそう言って、さらに困ったように微笑んだ。先ほどまでの弱々しい様子とはまた違う深い何かを含んだ黒い瞳。彼はそれを凝視して息を呑んだ。
「われの精神が暴発した時の威力といいラグナを斬ったあの刃といい、『彼女』の力は相当のものだ」
「それは……その『彼女』の力なのか?」
「われの力と考えるよりは可能性が高いだろう? 『彼女』の声が関わってる時にばかり起きるのだし。それに『彼女』はどうやら、魔族や神と関わりがあるみたいなんだ」
 言葉を紡いだレーナは一瞬遠い目をした。気を失って気がついた時の動揺ぶりからは考えられない、不思議と悟った眼差しだ。
 彼女は目覚めてまだ三日。しかし今こうして見た目相応、いや、それ以上に話し合うことができるのは何故なのだろう?
 ふとそんな疑問が彼の胸をかすめた。子どものように純真だと思うこともあるが、知識や考え方はアスファルトやユズとよく似ているのだ。いくらずっと『見ていた』とはいえいくらなんでも聡明すぎる。感情や感受性以外の部分だけが妙に成長しきっていた。だがそれが内にいる『彼女』のせいなのだとしたら……。
「魔族や神に関わりのある者、か」
「驚かないんだな? アース」
「お前を見ていたら納得もできる」
「われを?」
「お前は魔族や神を知りすぎてる。いくらアスファルトやユズをずっと『見ていた』んだとしてもだ、それだけだと魔族や神の常識なんてのは知り得るはずがないだろう? あの二人は異端なのだから」
 そう言い切ってやると彼女は呆気にとられた顔で固まった。いや、固まったと思ったのも一瞬ですぐに言わんとすることに気づき笑い声をもらす。その反応こそが彼女の異常性を示唆していた。普通の魔族や神を知らなければ、二人が異端であることなどわかるはずがないのだ。ある時までイレイたちにとって二人が絶対であったように。
「確かに、あの二人は異端だな」
「レーナ、どうしてそれを知ってるか聞いてもいいか?」
「二人が共にいる、それだけで理由など十分だろう?」
 笑い声を押し殺して彼女はきっぱりそう答えてきた。そう言われればそれ以上はつっこめずに、彼は肩をすくめる。すると彼が何を言いたいのか気づいたのか、彼女は急に真顔になった。そして長い髪を一房つかみ小首を傾げる。
「うん、確かにわれは見てきた以上のことを知ってる気がするよ」
「レーナ……」
「まあわれはアースが目覚める前から二人のことを見てきたし話を聞いてきたから、そりゃあ知識はかなりあるんだけど。でもそれ以上にわれは神や魔族のことを身に染みる程に知ってる気がする。それに彼女は魔族界を出るようにってわれに命じてきたんだ。ってことは魔族界にいては駄目な理由があるんだろう? 関わりがあるってことだ」
 本当に彼女は聡明だった。ネオンたちに説明する時のようにかみ砕いて話をする必要がなかった。しかし同時に気づかなくてもいいだろうことに気づいてしまっているようにも、自ら辛い道を歩んでいるようにも思えて彼は眉根を寄せる。胸の奥が妙にうずいた。
「じゃあもう、研究所には戻らないのか?」
 だから彼はもう一度問いかけた。返される答えはわかっているが、それでも尋ねずにはいられなかった。彼女は手にしていた髪をそっと解放すると、曖昧に微笑んでうなずく。
「ああ、『彼女』にまた暴走されるとまずいし、ラグナも斬ってしまったからなあ。これ以上アスファルトたちに負担をかけたくない」
「負担……」
「われが帰ればきっとアスファルトもユズもわれを助けようとしてくれるだろう。『彼女』のことを調べ始め、五腹心から守ろうとしてくれるだろう。でもそれは相当の負担だ。今でもイーストがいるからこそ保たれてる均衡なのに、それを完全に崩してしまう」
 彼女が口にしたことに間違いはなかった。アスファルトたちは彼女を心底愛しているから、研究所に戻ればその通りのことが起きるはずだ。だが二人が彼女を守りたいのと同じくらい彼女も二人を守りたいのだろう。それがよくわかるがために彼には止められる気がしなかった。彼だってあの二人には無理をさせたくないと常々思っている。
 けれども、だからといって彼女の言葉に素直にはうなずけなかった。知らぬ間に握っていた拳を一瞥し、彼は一番問いかけたかった疑問を放つ決心をする。
「ならば、これからどうするんだ?」
 そう問いかければ、彼女は一旦洞窟の外へと視線を移した。悩んでいるという風ではない、胸の内は決まっているがそれをどう表現すべきか悩んでいるようだ。彼女は小さくうなって頬に指先を当てた。華奢な指が白い肌を軽く上下する。
「とりあえず『彼女』について調べてみようと思ってる。『彼女』のことが、狙いが、願いがわからないといつ暴走されるかわからないだろう? 生きるためにはまず『彼女』について知らなければならない」
「どこでどうやって調べる気だ?」
 素直に答えてきた彼女へと、さらに彼は追及した。何故こうも心がざわめくのか何となく気づいてはいる。しかし彼女にはわからないのか目を丸くして見返してきた。突然声音がきつくなったのを不思議に思っているのだろう。知識もあり考え方も大人同様だが、感情に関わる部分だけはまだ子どもなのだ。彼がどんな思いを抱いているのかなど気づけるわけがない。
「うーんそうだな、魔族界には行けないとなると、神側から探るしかないよな」
「神側か? だが神界に潜り込むのは容易ではないぞ?」
「ああ、そうだな」
 次第に苛立ちと焦燥が募ってきて、彼は再び強く拳を握った。それは肝心な思いを口にできない自分に対する怒りにも似ていた。視線を逸らせば困惑気味に彼女がこちらをうかがっているのか感じられる。本当はそんな顔などさせたくないのに。なのにどうしてこうも不器用なのだろうかと嘆息したくなった。
 本当は彼女を一人で行かせたくないだけなのに。
「アース……われはその、神界は無理でも地球に行こうかと思う」
 すると控えめな声で彼女はそう告げてきた。はっとした彼が彼女の方へ向き直ると、悲しそうな瞳が目に飛び込んでくる。彼は慌てたが口にすべき言葉は見つからなかった。何を言うべきかわからずに、ただくぐもった声だけが喉を通り抜ける。
「大丈夫、誰にも見つからないようにするから。そうすればアスファルトたちにも迷惑かけずにすむだろう? アースたちにも」
「レーナ」
「きっとこれからとんでもないことが起きる。あらゆる均衡は崩れる。でもわれは、少なくともこの命を投げ出すつもりはないんだ。あの二人があれだけ望んでくれていた命だから。だから『彼女』の力が制御できるようになるまでは、われは全てから逃げ切るつもりだ」
 何から逃げるのかは、彼女は言わなかった。けれども言わずとも彼には理解できた。五腹心はもちろんのことアスファルトやユズ、そして今ここにいる彼からも。彼女を殺そうとする者、守ろうとする者両者から逃げると告げているのだ。
 馬鹿だな。
 彼は胸中で独りごちた。それはあまりに純真で痛々しい彼女に対する言葉でもあり、何も言えずにいる自分自身への言葉でもあった。
 彼女に先に宣言されてしまった今となっては、行くなとは言えない。またついていくとも言い出せなかった。それは彼女を追いつめることにしかならない。
「どうしてそれを、われに言うんだ?」
「だってアースならわかってくれるだろう? われがどうしたいかも、どうして欲しいかも」
 冷たい岩肌に背を預けて、彼は尋ねた。が、返ってきたのは予想もしない答えだった。彼は一度瞑目して苦笑いを浮かべる。彼女が何故そんな確信を抱いたのかはわからないが、事実ではあった。そして彼女を傷つけたくないと、追い込みたくないと思っていることも否定しようがない。
 行かせてはいけない。こんな危うい少女を一人放り出してはいけない。
 そう警告する声が聞こえるのに、それを実行しようとすればまた咎める声も聞こえるのだ。そんなことをしても彼女を困らせるだけだ、と。これだけ重いものを背負っている彼女に、さらに追い打ちをかけるのかと。
「お前には敵わないな。ああ、われは止めない。もしアスファルトやユズに聞かれたとしても答えない。それで満足だろう?」
 彼は肩をすくめてそう言い切った。すると彼女は心底嬉しそうに、花が咲いたようにというたとえが理解できる穏やかさで、ふわりと微笑んだ。ほんの少し身を乗り出してきたその左肩から黒髪がこぼれる。彼は静かに、彼女の唇が何かを紡ぐのを待った。
「ありがとう、アース。われ、アースに話せてよかった」
「ん?」
「ずっと怖くて、迷って、踏ん切りがつかなくて。自分がどこに立ってるのかどこへ向かってるのかわからなくて不安だったんだ。でも言葉にしたらすんなり納得できた。われはもう一度みんなに会えるように努力するよ。諦めずに進んでみる」
 そう告げる彼女の頭を、そっと彼は撫でた。口にしたい思いが込められた手に、彼女はもう一度柔らかく微笑みかけてきた。



 少女が目覚めて三日。それは維持されてきた均衡が崩される前触れだった。時代が動く前兆だった。
 後に彼女は地球にて重大な事実を知ることになる。五腹心が皆封印されたことを、転生神と自らに関わりがあることを。

 そして新たに生まれた均衡の中で、少女は一つの鍵を握る。

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