white minds

「変わるもの、変わらないもの」

 白い壁面をぼんやりと眺めながら、ミケルダは嘆息した。傍を通り過ぎる者たちはそんな彼には目もくれず、ただ無言のままに去っていく。それでも彼が廊下のど真ん中にいることを考えればましな反応であろう。邪魔だと告げられることのない彼は、再度ため息をつくと床へと視線を落とした。
「暇だ」
 つぶやいて彼は眉根を寄せた。磨かれたばかりのような床には狐色の髪だけが妙に目立って映り込んでいる。服が白いせいだ。ここにいる者たちの大半がそうであるように、彼の服もほぼ白と呼ぶに相応しいものだった。実際はよく見ればほんの少し緑がかっているのだが、床に映り込むというほどでもない。
「楽しいことも物珍しいこともないし、誰も文句すら言ってこないし。似たような場所なのになあ」
 彼は何度目かになるぼやきを口にした。たれ目だとよく言われるその瞳には、今は憂鬱とした色しか宿っていない。
 全てこの場所のせいだった。
 つい数ヶ月ほど前までは彼はこの下――宮殿で生活していた。人間たちが住む世界だ。自分の生活を、プライドを守るため必死になる彼らを眺めるのは面白いことだったし、時折現れる変わり者と言葉を交わすのは大変楽しかった。それに何と言っても可愛い女の子と戯れるのが彼は好きだった。しかしそれも今は叶わない。ここは彼ら神のみが暮らす神界で、見かけるのは全て見知った者たちばかりだ。
「暇だ。つまらない。あれから五十年たったっていうのにやっぱりここは変わらないんだよなあ」
 顔を上げると彼は自嘲気味な笑みを浮かべた。通り過ぎる者たちが彼に対して何も言わないのが、彼が退屈を嫌う性格だと知っているためだ。そして話しかけたが最後、暇つぶしに付き合わされるということに。『下』にいる時のように邪魔だと文句も告げてこないのは、言い換えされるのを避けるため。全て彼の行動を読み切ってのことだった。それだけ知られてしまったということなのだ。
「ここは本当変わらない。オレも、変わらないなあ」
 廊下の先を見つめて彼は瞳を細めた。
 彼はつい最近まで、下の宮殿で技使いたちを訓練する役職に就いていた。だがそれも長年続けているわけにもいかない。見た目では年をくわない彼が長く人間たちと顔を合わせていると、不審がられるきっかけを与えてしまうのだ。もっとも十数年も見た目が変わらないのも十分怪しいのだが、それはそれ、強い技使いは若さを維持することが多いという噂で何とか乗り切っている。
 しかしそれにも限界があるため、五十年ほどたつと『上』へ引っ込むのが慣わしとなっていた。彼はそれでも粘ったが、そろそろまずいだろうとこの間口うるさい『老人』に釘を差されてしまった。だから彼はこうして退屈で仕方のない神界へと戻ってきている。魔族に動きがなければ仕事のない世界は、彼にとっては暇で仕方がなかった。
「あーあ、いいなあシーさんは。ずっと外にいられるし。あ、そうだ、カールだってずるい! あいつもずっと外にいるよなあ。ずるい、ずるい、なんてずるいんだー!」
「誰がずるいですって?」
 すると彼が拳を振り上げると同時に、背後から怒りの声が聞こえてきた。おそるおそる振り返ると、そこには見知った顔が一つ。肩を怒らせたカルマラが、まなじりをつり上がらせていた。数年前見かけたのと全く変わらない涼しい格好。その彼女の瞳は燃えていた。
「おーよー、カール。元気か?」
「元気か? じゃないわよっ! ミケが暇で死にかけてるって聞いたからわざわざ来てあげたのにっ」
「それはそれはお優しいことで」
「何よそれ、むかつくわねー。仕事頑張ってきた私に対してその態度はないんじゃない? 今回も大変だったんだから」
 近づいてきたカルマラはミケルダの服を掴むとぶんぶん揺さぶってきた。彼はへらへらと笑いながらそんな彼女を制止させようとする。乱暴されるのは嫌いだ。もっとも退屈が紛れたことに内心では感謝していたのだが。
「悪い悪い。それで、宇宙はどんな感じだったんだ?」
「変わらないわよ、相変わらず小物がちょろちょろ目障りなことしてるだけ。まあ五腹心いない状況じゃ、うかつなこともできないでしょう?」
「そうだなー。この間でかい件はシーさんが解決したっていうし」
「そうそう、さすがシリウス様よね!」
 すると話題が変わった途端、彼女は拘束していた手を瞬く間に放した。瞳を輝かせて顔をほころばせる彼女に、彼は複雑な笑顔を向ける。その件に関しては彼も噂には聞いていたが……皆さすがシリウスと褒め称えるばかりだった。ただアルティードだけが神妙な顔で、あいつが妙なことを言っていた、とつぶやいていたのだ。だからその件に何か裏があるのではとミケルダは勘ぐっていた。もっとも彼では聞き出せそうにもないが。
「なあカール、ここって本当変わらないよな」
 彼はさらに話を変えるべく、辺りを見回してそう言った。それにつられて彼女も周囲を確認し、満面の笑顔で相槌を打つ。その動きにあわせて、空気を含んだ茶色の髪がふわりと揺れた。
「当たり前じゃない! 変わってたら私困るわよ」
「へ? 何でだ?」
「外は目まぐるしくてねー。知ってる人も知ってる星も油断するとすぐ見知らぬものになっちゃうの。あれ寂しいわよー。だからここに帰ってくるとほっとするのよね。私の知ってる世界がちゃんと残ってるんだって」
「そういうものかねえ」
「そういうものよ。ミケは違うの?」
 問い返されて彼は閉口した。今の自分の気持ちが果たして彼女に伝わるのだろうか? 変わらない世界に退屈を覚えるこの感覚が、理解されるのだろうか? 胸中で自問してから彼はゆっくり首を横に振った。おそらく彼女にはわからないだろう。外に出ずっぱりの彼女には、この感覚は共有できない。
「いや、帰ってくる場所があるってのはいいよな」
「でしょでしょ! あ、私ラウにも挨拶してこないと。あいつ確かまだいるわよね?」
「ああ、たぶん今は休憩中だと思うけど」
「よーし、ならからかってこないとー!」
 するとその返答に満足したのか彼女は勢いよく拳を振り上げた。そして踊るような軽やかさで走り出し、あっという間に見えなくなる。彼はその後ろ姿を見送りぱたぱたと手を振った。
「カールは元気だよなあ」
 そしてそうつぶやいて口の端をつり上げた。彼女を羨ましいと思うのも暇だとつぶやくのも、全て贅沢な悩みなのだろうと自らに言い聞かせて。
「さーて、オレも行くとしますか」
 変わらない良さも、変わる楽しさもどちらも享受できたらどれだけ幸せなのだろうか。
 そんなことを思いながら彼は歩き出した。彼女にかまわれて辟易するだろう友人を、こっそりと助けるために。

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