white minds

傷跡はそのままに-2

 神技隊に選ばれた者が、まずやらなければならないのはひたすら勉強することだった。これから彼らが赴く世界は、常識が通じない未知の場所。そんな異世界で働くためには、それなりの知識が必要だった。もちろん、それなりと言ってもそれは十分膨大で、ちょっと頑張れば覚えられるというものでもなかった。
 だが勉強することについては、青葉たちは何一つ文句はなかった。そうしなければ困るのは彼らなのだ。だから今後のためにと、皆は努力し続けた。愚痴も滅多にこぼさなかった。自分一人ではないということもあり、音を上げることもほとんどなかった。
 とはいえそれも毎日続けば、次第に我慢の限界に達するというもの。一ヶ月も宮殿へと通い続けた青葉たちは、既にかなり疲弊していた。
「あーお腹空いた!」
 それまで机に向かっていたようが、ため息をついてそこに突っ伏した。がたりと揺れた質素な机を、青葉は気怠そうに一瞥する。
 倒れ込みたい気持ちはわかるが、しかしこれは問題ある行動だった。ここは宮殿で、しかもこの小さな会議室にはリューもいるのだ。手元にある本の背を撫でながら、彼はこっそりと壁際にいるリューの様子をうかがった。
「そうね、そろそろお昼の時間ね」
 幸いにも、リューが機嫌を損ねた様子はなかった。時計を見上げた彼女は、腰を上げるとよれた上着の裾を正す。紅のドレスにも見える長いそれは、宮殿でも珍しい艶やかな布でできていた。きっと生活にはゆとりがあるのだろう。ぎりぎりな生活を送っている青葉とは大違いなのだ。
「え、お昼!?」
「おい、よう。少しは落ち着けって」
「いいのよ、別に。じゃあ私はこれからアサキたちを呼んでくるわね。それまであなたたちは、ここで待っていて」
 目を輝かせるようをたしなめると、リューは苦笑しながらそう告げて歩き出した。今この部屋にいるのはこの三人だけだ。アサキとサイゾウは別室で、何時間もの試験を受けているはずだった。
 ある程度勉強が進むと、それを確認する試験が行われる。それは大概二人一組で受けることになっていた。協力するのは問題ないらしい。おそらく異世界での生活を想定してのことなのだろう。
 ただしその中に、梅花が入ることはなかった。彼女はどうやら既に十分な知識を持っているとかで、わざわざ学ぶ必要がないという話だった。それを聞いた時は、さすがジナル族だなと青葉も唸ったものだ。だからこの講義も、宮殿外出身である青葉たちしか受けていない。
「はい、すいません」
「お願いしまーす!」
「お昼はたぶん梅花が届けてくれるから、先に食べていて」
 返事する二人にそう言い残すと、リューは白い扉を開けて廊下へと出ていった。遠ざかる足音は、彼女の性格を反映してかやけに規則正しい。
 窮屈な時間が途切れたことにほっとして、青葉は大きくため息をついた。リューは悪い人ではない。むしろこの宮殿で出会った誰よりも優しいと思う程だ。しかしそれでもやはり、一緒にいると息が詰まるのだ。
 そもそもこの宮殿という建物自体が、息苦しさの原因なのだろう。殺風景な白い部屋の中では、時間がたつのが非常に遅く感じられる。
「ようやくお昼だねー!」
 すると満面の笑顔を浮かべたようが、意気揚々と声をかけてきた。待ちかねたご飯にありつけるとわかって、元気が出てきたのだろう。普段よりもやや高い声に、青葉は笑いながら首を縦に振った。ようは素直でわかりやすい性格をしている。
「そうだな。……でも梅花が持ってくるなんて珍しいこともあるもんだな」
「あ、その梅花って人に僕会ったことないんだよねー。仲間なんでしょう?」
「そう、一応オレたちの仲間らしい」
 横座りになった青葉は、興味津々なように向かって肩をすくめてみせた。梅花に会ったのは青葉とサイゾウだけだ。それも神技隊に選ばれてすぐの時と、宮殿内を案内された時のみだった。それ以降、彼女は全く顔を見せていない。
 このままでいいのかとリューに聞いてみたところ、今は忙しいのだと説明してくれた。なんでも他世界戦局専門長官の補佐のような仕事をしているらしく、その引継のために奮闘しているらしい。
「へーそうなんだ。どんな女の子?」
 だからだろう、名前ばかりよく聞く仲間の存在に、ようは何らかの期待を抱いているらしかった。いや、天然とも思える彼のことだから、単に料理の腕を期待しているだけなのかもしれない。とにかくその輝く瞳から、滲み出ているのは好の感情のみだった。それが何だか心苦しくて、青葉は右の口の端だけをつり上げる。
「うーん……見た目はとにかく可愛い。けど、何だか反応薄いし、何て言うか素っ気ないと言うか――」
 そう青葉が説明し始めた時だった。唐突に、扉を叩く音がした。はっとしたのも束の間、二人が返事をする前にそれは音も立てずに開かれる。慌てて立ち上がったためか、倒れかけた椅子が耳障りな音を立てた。慌てていると、自分から宣言しているような状況だ。
 扉の前では、そんな彼らを怪訝そうに梅花が見ていた。一本にまとめられた髪は、黒ずくめの服に溶け込んでいるように思える。そのせいか彼女の肌の白さが妙に際だって見えた。青葉は思わず視線を逸らすと、繕うように立ち上がったようへと振り返る。
「あ、よう。彼女が梅花で……」
「お昼、持ってきたから」
 それでも梅花は用件しか言わなかった。彼女が手にしていたのは、大きなバスケットだった。中にはパンが入っているらしく、香ばしい匂いがそこから漂ってきている。案の定、ようの視線はそこに釘付けだった。彼女の言葉も耳に入っているかどうか、怪しい程の見つめようだ。
「ああ、わかった」
 青葉がうなずくと、彼女は数歩近づいてバスケットを差し出してきた。はい、という一言もないのは相変わらずで、素っ気ない。しかし直前に率直な思いを口にしていただけに、彼は彼女の態度も責める気にはなれなかった。
 聞かれてはいないはずだ。それは扉を開ける前のことだった。そう頭ではわかってはいるのに、悪い気がしてくるのは何故だろうか? 彼女に愛嬌がないことは事実であるはずなのに、自己嫌悪に陥りそうになる。
 それでもぎこちない動きでバスケットを受け取れば、それは予想以上に重かった。布が掛けられているため中は見えないが、入っているのはパンだけではなさそうだ。するとその思いが顔に出たのか、梅花は肩をすくめるとバスケットを指さした。
「中のポットにお茶が入ってるから、勝手に飲んでいて」
「え? あ、ああ」
 表情を変えることなく説明されて、青葉はコクコクとうなずいた。これで一瞬でも微笑んでくれれば気分も違うのだが、その気配は微塵もない。会えば会う程に、異世界での共同生活が不安になる少女だった。するとバスケット目掛けて近づいてきたようが、不思議そうに首を傾げる。
「ねえ、梅花は一緒に食べないの?」
 それはもっともな質問だった。彼らは今後生活を共にする仲間なのだから、気にかかるのは仕方ないだろう。けれども普通、彼女相手に気軽に聞けるものでもなかった。背筋を流れる冷たいものを感じながら、青葉は顔が強ばりそうになるのをかろうじて堪える。
「私はいいわ」
「何で?」
「まだ仕事があるのよ。それに、私と一緒だと窮屈でしょう?」
 当たり前のように、彼女はそう言った。無表情のままなんてことのないように、さらりと口にした。だから一瞬言っている意味がわからなくて、青葉は数度瞬きをする。しかしそれを理解した途端、血の気が引いていくような感覚を覚えた。何が辛いのか自分でもよくわからないが、とにかく息苦しくて仕方がなくなる。
「えー、僕まだ梅花と話してないから、そんなことわからないよ」
 青葉が奥歯を噛んだまま黙していると、ようは不満そうに唇をとがらせた。ようがいて本当に良かったと、青葉は心底感謝する。実際ようみたいな人間なら、梅花相手でも平気なのかもしれない。相手の反応がどうであれ、陽気に話しかけられるのは一種の才能だ。
 するとさすがにそう言われたことはないのか、彼女は瞠目した後かすかに苦笑を漏らした。笑顔と呼ぶにはぎこちないが、そんな表情もできるのかと喫驚するだけのものではあった。せめていつもこれくらい反応してくれればと、思わずにはいられない。
「そうね、でもそう思わない人もいるのよ。その方が普通なの。それに、仕事が残っているから」
「あーそっか。忙しいんだね、わかった。じゃあ僕は青葉と一緒に食べながら、アサキたち待ってるよー」
 抑揚のない彼女の言葉が、青葉の胸に深く突き刺さった。自分のことを批判されているような気がして、胃の奥がぎりぎりと痛む。ようが普通にやりとりをしているだけに、その痛みはなおのこと辛かった。そんな言い方しなくてもいいだろうにと、つい恨み言を呟きたくなる。
 もしかしたら先ほどの言葉を聞かれていたのかもしれない。怒っているのかもしれない。そう思いはするものの、沸き起こった不快な感情を消し去ることは不可能だった。ただそれを口に出すことだけはせず、青葉はバスケットを抱きかかえる。
「そう、わかったわ」
 梅花は軽く相槌を打つと、踵を返して扉に手を掛けた。別れの挨拶もなかった。ただ風を含んだようにふわりと揺れた髪が、何故だかそこに壁を作っているように感じられる。小さな背中が扉の向こうへと消えるのを見送り、青葉は息をついた。
「じゃあねー」
 無邪気なようの声が、静かな室内に響いた。今後への不安がさらに増して、青葉の気分は重くなる一方だった。

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