white minds

傷跡はそのままに-3

 拒絶されていると自覚することは、いつだってひどく苦々しい出来事だった。

 見知らぬ世界にやってきて、今日でようやく二十日が経った。はじめは慣れない生活に戸惑うことばかりだったが、少しずつ順応してきたと青葉は思う。一番適応力が高かったのはようで、彼はこちらの見慣れない料理にもいつも瞳を輝かせていた。どんな環境も物ともしない姿勢は、こういう時には役に立つ。その一途さは青葉には羨ましいものだった。
 アサキもすぐに新しい生活に順応した。持ち前の気さくさと明るい笑顔で、彼は異世界の人間とも気軽に話をしていた。仕事の都合上、『特別車』を使って営業することになった彼らにとって、そんなアサキの存在は頼りになる。
 そんな中、おそらくサイゾウは五人の中で最も拒否反応を示した者だった。二十日目になる今日も憂鬱そうな顔をして、薄汚れた空を見上げては顔を歪めている。元の世界が恋しいと、その顔にはあからさまに書いてあった。
 サイゾウの態度に一番顔をしかめていたのは梅花だった。しばらくは本業にしろ副業にしろまともな戦力にはならないと、昨日彼女はそう言って嘆息していた。その時歪んだサイゾウの顔は、どうにも忘れられない。
 青葉はと言えば、サイゾウ程この世界に落胆しているわけではなかった。元々人懐っこい性格の彼は、見知らぬ人や世界に怖じ気づくこともない。ただ彼の気分に重しを載せている存在が、すぐ側にいるのが問題だった。
 その名前を何度心の中で呟いたことか。梅花が手早く必要経費を計算する様を、青葉はちらりと横目で見た。
 異世界で店をやるというとんでもない提案をしてきたのは彼女だった。いや、実際は『上』の意見なのだろう。上との繋がりを持つ彼女は、この世界への扉を開くことができる希有な存在だった。だからなのか、それとも彼女がずっと神技隊に関わる仕事をしてきたからなのか、彼らシークレットには他の隊にはない任務が課せられている。
 すなわち、特殊な違法者の取り締まりだ。宮殿内から逃げ出した技使いたちを捕らえるのが、シークレットの仕事だった。そのためには自由に動けることが必要条件で、よって定住できないという問題点があった。それはこの支給された『特別車』と、そこで店を営むという馬鹿馬鹿しい稼ぎ方が解決してくれるはずだ。
 そのことについては、青葉には不満はない。慣れも出てきて最近は売り上げも伸びているから、生活への心配もない。ただ隣にいる華奢な少女だけが彼の悩みだった。
 まず愛想がない。必要なことしか喋らず、いつも無表情で淡々と仕事をこなしている。自身でも接客には向いていないとわかっているらしいが、だからといって改善してくれる様子もなかった。いつも近くにいる青葉としては息が詰まる思いがする。暇な時間も会話がないというのは、非常に辛かった。
「いらっしゃいまぁーせ!」
 するとテーブルを拭いていたアサキの声が、軽やかに響いた。また客が来たらしい。春にしては日差しの強い日で、気温はぐんぐんと上がっていた。まだ昼前だがこの調子で行けばもっと暑くなるだろう。商売日和だ。
「いらっしゃいませ」
梅花の淡泊な声が青葉の耳に届く。今日も彼と彼女はカウンター担当だった。何故接客に向いていない彼女がこの役目を担っているのか、彼には解せなかった。……いや、実際は理解している。つまり顔だ、容姿だ。理由はそれだけだ。彼が同じくそこに立っている理由も、同じなのだから。
「オレンジジュース一つください!」
 車に備え付けられたカウンターに向かって、小さな女の子が精一杯手を伸ばしてきた。その斜め後ろには笑顔の母親がいる。青葉もつられるように微笑んでうなずくと、後方へと視線をやった。まともに働いてくれるかわからないサイゾウに頼むのは心配なので、彼はようへと声をかける。
「よう、オレンジジュース一つ」
「はーい!」
 その間に梅花は子どもから代金を受け取っていた。後ろで控えている母親は、手を出したいのを堪えながら見守っているらしい。ちょっとしたお使いの練習なのだろうか。何となく微笑ましくなって青葉も頬を緩めた。昔小さな弟を連れて買い物に行った日のことが、不意に思い出される。
「ありがとう!」
 おつりを受け取った子どもが元気よく叫んだ。その小さな額にはじんわりと汗がにじんでいて、瞳には期待が溢れている。子どもは大人よりも体温が高いのだ。ジュースはまだかと振り返ろうとした青葉は、その際視界の端に移った梅花を見て一瞬息を止めた。
 彼女は微笑んでいた。いや、普通の少女が微笑むよりは微妙で、かすかで、わずかで、それは小さな変化だった。だが苦笑しか見たことがない青葉から見れば、それは間違いなく微笑だった。
 昨日サイゾウに冷たい言葉を浴びせていた少女と、同一人物だとは思えない。子どもを見守る眼差しは穏やかで、口の端がほんの少しだけつり上がっていた。
 子どもには優しいのか。そう思うと同時に、何故か胸の奥底から不快な感情が湧き起こった。はじめは何故だかわからなかった。しかし次第に、その優しさが仲間たちへと向けられないためだと理解した。誰に対しても冷たいわけではないのだと、思い知らされて愕然とする。
 これから最低でも五年間は、この仲間たちと共に過ごさなければならない。それなのに彼女は心を開くどころか、常に醒めた視線を向けてくるだけだった。そこに温かみは一切ない。親しくなる気など毛頭無いと、黒い瞳はいつも如実に語っていた。
「はい、オレンジジュース」
 黒々とした気分を抱えていて、つい青葉の反応は遅れた。ようの声にはっと気づくも遅く、彼の手が伸びるより先に梅花がオレンジジュースを受け取る。可愛い花模様の入ったコップを手にすると、彼女はそれを子どもへと渡した。
「お待たせしました」
 相変わらず抑揚のないかけ声だが、その声音がいつもよりわずかに優しい。青葉は毒づきたくなるのを堪えて、一度固く瞼を閉じた。どうして自分はこんなに腹を立てているのか。どうして苛立つのか腑に落ちない。それなのにその感情を消し去ることはできなかった。
 子どもに優しいのはいいことだ。客に親切にすることは、悪いことではない。むしろ、見直してもいいところなはずなのに、苦い重いが胸に広がっていく。
「青葉」
 子どもと母親の足音が遠ざかると、小さく梅花が名前を呼んだ。弾かれたように目を開いて、彼は彼女を視界の端に捉えた。何を考えてるのかわからない双眸が、彼を真っ直ぐ射抜いている。
「な、何だよ」
「私が嫌いなのはよくわかるけれど、せめて仕事中くらいは隠してくれると嬉しいわ」
「……は?」
 青葉は眉根を寄せると、今度は真正面から彼女を見た。表情を全く変えることなく告げられた言葉に、思わず耳を疑う。隠せということは、つまり隠し切れていないと言いたいのだろうか? だが態度に出したつもりはなかった。仕事中はなおさらだ。さらに苛立ちが募ってきて、彼は肩をすくめるとカウンターを指で叩く。
「隠す、って何をだよ。意味がわかんないんだけど」
「あなたの気が、私には痛いの」
 彼女は声を荒げることなく言い放った。その視線が逸らされることもなかった。気と言われて、青葉の背筋が一気に冷たくなる。
 気は技使いにしか感じられないものだ。普通の人間にもあるのだが、それを感じ取ることができるのは技使いのみ。気からは今どこにいるのか、どのくらいの強さなのかを知ることができる。が、もう一つわかることがあった。それは感情だ。
 負の感情は負の気配を漂わせ、正の感情は正の気配を漂わせる。ただこれは他の情報に比べて不確かで曖昧だった。気の察知が不得意な青葉は、強い感情でなければ読みとることができない。それは彼の知る大抵の技使いにも言えることだった。
 だが全員がそうではないことを、彼は知識として知っていた。だからこそ黙り込んだ。彼女がもし気に聡い者であれば、彼が抱く感情を気から読みとることは可能かもしれない。
「あなたといると疲れるの」
 心臓が鷲掴みにされたようだった。体中を巡る地が沸き立ったと同時に凍らされたようで、暑いのか寒いのかよくわからなくなる。ただ痛いと思った。火傷した時のように、凍てつく氷に触れた時のように、感じるのは痛みだけだった。この場から逃げ出したい衝動に駆られながら、彼はゆっくりと息を吐き出す。
「……悪い」
「謝る必要はないわ。あなたの反応は正常だもの」
 小さく呟けば、彼女は瞼を伏せてそっと視線をはずした。そして遠くの空を眺めて、自嘲気味な笑みを浮かべる。風に揺れた前髪が、彼女の瞳を彼の視線から覆い隠した。
「いつも私の隣だなんて、不運よね」
 感情の読みとれない声からでは、彼女の考えは予測もつかなかった。返す言葉を探しながら、彼は車の奥を一瞥する。こういう時は大概ようかアサキが助けてくれるものだが、ようの心は今昼食へと向かっているらしかった。慌ててよだれを拭く様からは、助け船は期待できそうにない。
「だから、悪かったって。それに別にオレは――」
「いらっしゃいまぁーせー!」
 仕方なく絞り出した言葉は、テーブル拭きを再開していたアサキの声に遮られた。また客が来たようだ。青葉は心の中で嘆息すると、重苦しい気持ちを抱えたまま新たな客を見やった。
 別に彼女が嫌いなわけではないのだと、そう伝えたかった。嫌いなのではなく単に苦手なだけなのだ。素っ気ない反応は不要な存在だと言われているようで、幼き日の父を思い出すようで、心許なくなるだけだった。だから嫌いなのではないと、そのはずだと思いたい。
「いらっしゃいませ」
 梅花の声が穏やかに鼓膜を震わせる。客は、また小さな子どもを連れた母親だった。三歳にも満たないだろうか? しっかりと抱かれたその男の子の瞳が、熱心にメニューの写真上を往復している。
 きっと彼女の瞳はまた、優しい色をたたえているのだろう。穏やかに子どもを見守っているのだろう。しかし今はそれを確認したくなくて、彼はただ子どもの手を見ていた。母親の腕を掴むその小さな手を、ぼんやりと眺めていた。

◆前のページ◆  目次  ◆次のページ◆