white minds

傷跡はそのままに-4

 他人とそれなりの関係を築くことには、慣れているつもりだった。その人懐っこさは呆れられると同時に、一つの取り柄でもあると。密かにそう自負していた。ただその認識を今、青葉は改めつつある。
「オレには無理だ」
 つぶやいた言葉は、むなしくも冷たい空に消えていく。もうそろそろ眠りにつく時間。春も半ばだというのに、今日はひどく寒い日だった。そのせいなのか、はたまた別の原因があるのか、店の売り上げもかんばしくない。客が来ないということは、自然仲間と話す機会が増えるということだ。だが彼の隣にいるのは、いつも無口な梅花だけ。
 じわじわと蓄積されるストレスに、苛々ばかりが募る。そうなれば彼女が嫌な顔をするだろうということは予想できても、感情を抑えるのは難しかった。もっとも、あれ以来彼女が面と向かって苦情を言ってくることはないが。
 それでもそう思われているだろうと考えると、苦い感覚が湧き起こる。彼は思いきりため息をつき、夕食に使ったテーブルをゆっくり拭いていった。嫌なことがある時は仕事にのめり込むに限る。
 すると次のテーブルに移ろうかと思ったところ、のんびりした歩調で誰かが近づいて来た。顔を上げれば、ようが眉尻を下げて頭を傾けているのが見える。
「どうかしたの? 青葉。元気ないよー」
 心配してくれているらしい。だがお気楽な塊であるように、この話をするのは躊躇われた。おそらくこういった感覚を共有してくれるのは、仲間内ではサイゾウくらいだろう。アサキもようも、梅花とやりとりをすることには違和感を抱いていないようだった。信じられないことだが、どれだけ冷たい反応をされても笑顔を絶やさないでいる。
「いや、今日は客が少なかったなあと思って」
「そうだね。あーあ、このままだとご飯また少なくなるかなあ。せっかくこっちでしか食べられない物、食べるつもりだったのに!」
 案の定、ようは話題を食べ物の方へと進めた。彼の頭の中は、その大部分が食事に関することで占められているらしい。全ての出来事がそれへと結びつけられる。そこまで執着できるのは、ある意味すごいことだと青葉は思っていた。
「梅花がまた制限するってか?」
「うん。だって今日くらいのお客さんが続くと、そのうちお金なくなるでしょう? 梅花はそこのところ全部計算してるから」
 ようは肩を落とすと、深くため息をついた。梅花はどこまでも冷静だから、お金に関することもそれなりに厳しい。そういう人物が必要なことは、青葉にも理解できた。彼女がいなければ生活が成り立たないことも、わかってはいる。しかしそれでも日々つれなくされるのは堪らなかった。
 アサキやようは、そう思わないのだろうか? 平気なのだろうか? 一度聞いてみたい気がするが、なかなかその機会を得られないでいる。梅花がいなくなる時というのは、滅多になかった。宮殿へと指令を受けに行く時くらいだろうか。
「そう言えば、いつの間にか梅花いないよね」
 そこで突然、ようがそんなことを言い出した。青葉は目を瞬かせて、自身もすぐさま彼女の気を探る。確かにいない。彼女の気は少し変わっていて、気の探索は得意でない彼でもすぐに見つけだすことができた。しかし今、彼女の気はどこにもなかった。少なくともこの近くにはない。
「夕飯まではいたよな?」
「うん。さっきまで、確かアサキと何か話してたはずだよ。あれーどこ行ったんだろう?」
 首を傾げて訝しがるように、青葉は苦笑を向けた。いつの間にかいなくなることは、梅花の悪い癖だった。おそらく宮殿から呼び出しを受けたのだろうが、彼女は何も言わずに行ってしまうのだ。せめて言付けくらいしろと、何度思ったことか。青葉は肩をすくめて、目の前のテーブルを折り畳んだ。
「いつもの通りなら、宮殿だろうな」
「また? あそこ僕は嫌いだよー。よく何度も行けるよねぇ」
「あそこで育ったんだから、そりゃそうだろ」
 目を丸くして口を開くように、青葉は投げやり気味に答える。宮殿内のことは青葉も思い出したくなかった。あの寒々とした空間は苦手だ。あんなところで生活してたせいで梅花はああなのかと、思いたくなるくらいだった。ただ、同じくあの場所で育ったはずのリューは優しかったから、それが原因ではないのだろう。
「でも宮殿なら帰りは遅いね」
「そうだな」
「一応アサキに確かめておこうっと」
 ようはふらふらとした足取りで、特別車の方へと向かった。青葉はその後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐く。奥底で渦巻くどろどろとした感情の行き場が、どこにも見あたらなかった。自分のことなのにと思うと、少し惨めな気持ちになる。せめて普段から接触が少なければ、もう少しましだっただろうに。
「オレって駄目な奴だなあ」
 星の輝く空を、彼は見上げた。薄雲の向こうでは、月が柔らかい光を放っていた。



 嫌な夢を見て、その夜青葉は目を覚ました。夢の内容は覚えていないが、小さい頃のことだったように思う。気難しい父親が、厳つい顔で出てきて記憶があった。彼はシャツの襟元を掴んで、顔を歪める。
「うわ、すごい汗」
 寝ながら嫌な汗をかくというのも、久しぶりの経験だ。彼は毛布を剥ぎ取るように捲ると、辺りを見回した。特別車の中は、実は異空間に繋がる扉がある。その先は二つの部屋に分かれていて、それが彼らの寝床になっていた。
 それほどの大きさがないのは、この異空間が妙な悪さを働かないようにするためらしい。そのため押し固まるようにして眠る必要があり、かなり不快だった。だがそれもしばらく続ければ慣れる。
 見ればすぐ近くでサイゾウが穏やかな寝息を立て、アサキやようも、毛布を被ってぐっすり寝ているようだった。もう真夜中だろう。ここで時計を探すのは骨が折れると諦め、青葉は前髪を手で掻き上げた。ついでシャツの襟元でばたばたと扇ぐと、ゆっくり立ち上がる。
「着替えるか」
 このままでは気持ちが悪いし、風邪をひきかねない。彼は服の入った袋を手繰り寄せようと、狭い空間で奮闘した。だがそれは今ようの足の下にあり、簡単には動かせそうにない。
 青葉は舌打ちすると、仕方なく外に出ることにした。昨日洗濯し終えた物が、確か一枚別にあったはず。記憶によれば、その袋は特別車の中に置きっぱなしだった。仕舞うのが面倒で後回しにしていただけだが、こんな時に役立つとは。彼は特別車へと続く扉を開けた。
 目的の袋は、確かに車の中にあった。汗で濡れたシャツを脱ぎ捨てて、彼は早速新しい物に着替える。本当ならシャワーでも浴びたいくらいだが、もうこの時間では無理だろう。その代わり気分転換にと、彼は音を立てずに外へ出た。少し寒いくらいの清々しい空気は、嫌な気分を吹き飛ばすには丁度いい。
 しかし車を出て少し歩いたところで、彼は足を止めた。月明かりだけが頼りの今、周りはよく見えないが何か違和感を覚える。彼はゆっくりと視線を巡らせた。そして息を呑んだ。
「ちょっ、何だよそれ……」
 特別車のすぐ傍、車体に寄りかかるようにして椅子に腰掛けていたのは梅花だった。ただし、眠っている。彼のつぶやきにも全く反応を見せなかったということは、振りでもないのだろう。月がなければ全く気づかないところだった。
「こんなところで寝るか、普通。いくらなんでも危ないだろ。なんつーか、一応年頃なのに」
 驚いてるのか呆れてるのか何なのか、自分でもわからずに彼はため息をついた。どうしたものかと思いながらも近づけば、彼女の膝には一枚の布がある。膝掛けにもならなさそうな、薄いハンカチだ。それを彼女の手が強く握っている。
 起こすべきだろう。そう思いながらも、彼は声をかけるのを躊躇った。こうして眠っている姿からは、あの冷たい反応は想像できない。今の彼女は、ただの可愛らしい少女だった。
 彼はその頬に触れようとしていた手に気づき、慌ててそれを引っ込めた。そんなことをして起きられたら、言い訳のしようがない。
 肩を揺する。起こすだけなら、ただそれだけの行為で済むはずだ。それなのに彼の手は動かず、寝息を立てる彼女を見下ろすことしかできなかった。今までのことが頭をよぎると同時に、彼女の顔色の悪さがやけに気になる。
 どれくらい時間が経っただろうか。彼がその場に立ちつくしているうちに、彼女の方に動きがあった。軽く身じろぎをした後、その瞼がゆっくりと持ち上がる。彼は固唾を呑みながらも、やはりその場を動くことができなかった。
「ん……あお、ば?」
 たどたどしく名前を呼ばれると、体の奥が妙に熱くなる。数度瞬きをしてから、彼女はぼんやりとした双眸を向けてきた。彼は言葉を詰まらせる。
「寝てた……んじゃないの?」
「いや、寝てたけど起きた。っていうかお前こそ、何でこんなところで眠ってたんだよ。びっくりしただろ」
 何とか声を絞り出せば、予想していたよりも流暢に言葉が飛び出してきた。そのことに安堵して、彼は肩の力を抜く。その間も、彼女は椅子に腰掛けたまま、ぼんやりとした眼差しで彼を見上げていた。月明かりに照らされたその瞳は、不思議な色に見える。
「今、何時?」
「今? さあ。オレも時計は見てないから」
「そう」
 彼女は気のない声を返すと、ゆっくりとした動きで立ち上がった。思わず手をさしのべたくなるような、頼りない動作だ。だがそうするのを何とか堪えて、彼は数歩後退する。彼女が歩き出すと、一本に結ばれた髪が風に吹かれて揺れた。彼は思わず口を開く。
「た、体調でも悪いのか?」
「大丈夫よ、このくらい。ちょっと変な仕事来ただけだから」
「変な仕事?」
「それも終わったから、平気。日が昇ったらまた行かないといけないけれど」
 大丈夫でないのは、見た限りでも明らかだった。普通なら手を差し伸べるところだが、拒絶されることを思うとそれもできない。すると彼女はふらつきそうな歩みを止めて、不意に空を見上げた。彼もそれにつられて視線を移す。
「月の色は、変わらないのね」
「……え?」
 囁くような声に、彼は首を捻った。慌てて彼女の方を見れば、何を考えているのかわからない横顔がそこにはある。彼女の感情は、やはり彼には読みとれなかった。その気も、いつも通りに澄み切っている。
「人間も、変わらないわ。結局は同じ」
 よく見れば、彼女は苦笑しているらしかった。声音は普段と変わりないが、そこからわずかな変化を感じ取り、彼は息を呑む。何も変わらないと思っていただけに、それに気づけた自分自身に彼は驚いていた。
「梅花――」
「何でもない、ごめんなさい。あなたは寝た方がいいわ。明日にはまた仕事が来るだろうから、移動になるわよ」
「あなたは、ってお前は寝ないのかよ。そんな顔して」
「平気だって言ったでしょう? もう眠ったから大丈夫。明日の準備をしておかないと、また上がうるさいし」
 彼女の眼差しがまた一瞬だけ、彼へと向けられた。そこに不思議そうな色があるのを、彼は見逃さなかった。何に疑問を持っているのかわからないが、確かに彼女は不思議がっていた。彼は自分の言葉を胸中で繰り返し、そこに変な発言が混じっていないかを確かめる。
 だがあるはずもなかった。彼女の言葉は意味がわからないが、彼が口にしたのはごく当たり前のことだ。首を傾げられるようなものではない。彼は心配する言葉を告げただけだ。
 そこまで考えて、彼は息を呑んだ。まさかという思いに、自分の発想でありながら罵りたくなる。そんなことがある世界など、考えたくもなかった。
「梅花、ひょっとしてお前……」
「じゃあ朝は早めに準備しておいてね」
「って今から行くのか!? ちょっと待てよ」
 車を離れようとする彼女へと、彼は思いきり手を伸ばした。その指先が彼女の肩に触れれば、それだけのことで動きが止まってしまう。肩を掴むという単純なことが、今の彼にはできなかった。振り返った彼女が、怪訝な顔で小首を傾げる。
「何?」
「いや、その、なんていうか……」
「用がないなら行くわ。どうやら日が昇るまで、そんなに時間はないみたいだし」
 彼女の言葉に驚き、彼は空を見上げた。まだ薄雲の隙間から、月が顔を出している時間だ。他には星々の瞬きがあるくらいで、太陽が昇りそうな気配は全くない。そんな時間だとは、到底思えなかった。するとそんな疑問が顔に出ていたのか、すぐ近くで呆れ混じりのため息が漏れる。
「夜明けの匂いがするの」
 説明は、端的だった。彼が彼女へと視線を戻した時には、既に彼女は歩き出していた。その足取りには、先ほどの不安定さはもう見受けられない。そうなだけに、彼はそれ以上かける言葉を見つけられなかった。小さくなる背中を見送りながら、首の後ろを掻く。
「匂い、夜明けの匂いか」
 自分でも嗅いでみたが、それらしきものは感じなかった。いつもと変わらない、公園の匂いだ。やや肌寒い風には、辺りに咲く花や草木の香りが混じっているだけ。彼は瞳をすがめながら独りごちた。
「まさか、いつもこんな時間に起きてるのか?」
 彼女が誰よりも早く起きていることは、アサキの言葉からもうかがえることだった。青葉が珍しく早起きした時も、やっぱり彼女は先に目覚めていた。その事実を思い出して、彼はもう一度夜空を眺める。
 彼女の常識と、自分の常識との違い。それを朧気に感じ取って、彼は唇を強く噛んだ。何度空気を吸い込んでもやはり、夜明けの匂いはわからなかった。

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