white minds

傷跡はそのままに-6

 目覚めてすぐに聞いたのは、地を叩くようなひどい雨音だった。数日間曇り空が続いていたかと思えば、今日はさらに条件が悪く土砂降り。先日上からの任務を終わらせたばかりのシークレットは、すぐに暇をもてあますこととなった。
 こんな天気では客は来ない。だからといって本業もない。蓄えの問題で、今のうちにと買い物に行くこともできなかった。
「暇だよ暇ー」
 特別車の中で、ようが何度目かのぼやきを口にする。狭い車内に残っているのは、青葉とよう、梅花だけだ。サイゾウとアサキは暇つぶしに外へと出かけていた。
 一応違法者探しという名目はあるが、ここらにはいないことは既にわかっている。技使いの気を探ることに関しては、梅花がずば抜けて得意だった。彼女がいないというなら、まずこの辺では見つからない。
 青葉は肩をすくめると、椅子に腰掛け足をブラブラさせるようを指差した。その手元には薄い本がある。
「暇って、お前にはそれがあるだろう」
「これならもう見飽きたよー。それに食べられない食事の写真は、僕には辛いだけだよ。お腹空いてくるし」
 いつだったか安くなっていたのを買った、小さな料理本。ようはそれを掲げて頬を膨らませた。お前は何歳だと言いたくなるのを堪え、青葉は苦笑するだけに止める。いつものことだ。今さらどうこう言うことでもない。ついで彼は右手の梅花を一瞥した。
 彼女は先ほどからアサキの服を手直ししていた。目聡く仕事を見つけるのが得意らしい。この間違法者を捕らえた時に、ほつれたのが広がったようだった。針を手にした彼女は無言のまま、それを縫っている。
 けれども青葉の視線は、彼女の指先に向けられたわけではなかった。どうしても気になるのは、黒髪に色を添える山吹色のリボンだ。
 咄嗟の思いつきでプレゼントしてからというもの、彼女はそれを毎日身につけている。喜んでくれたらしいというのはわかるが、無愛想なのは相変わらずだった。しかしそれでも、否、その分、リボンの存在が気にかかる。
 これは、かなり、ひどく、まずい状況だろう。リボンを見やる回数を数えてみて、青葉は頭を抱えたくなった。今日だけでこれで十度目だ。最早病気。自覚しても治すことのできない、深刻な病だ。彼女に気づいたそぶりがないところが、せめてもの救いだろうか。
 考えたくはなかったけれど、可能性がよぎる度に拒否していたけれど、これは認めざるを得ない。ため息を吐きそうになるのを自覚して、彼は慌てて視線を逸らした。そんなことをすれば、どうしたのかとように聞かれる。いや、今日に限ってなら雨のせいだと思ってくれるだろうか。
 窓から見える光景はとにかく重苦しかった。昼間とは思えない暗さに、地面を叩く雨音が耳障りだ。優しい雨ならばそれなりに心地よいかもしれないが、今日のはとにかく強い。狭い空間にいなければならないのも、全ては雨のせいだった。恨みを込めて青葉が外の景色を睨みつけると、ぐいぐいと袖が引っ張られる感触がする。
「ねーねー青葉。このままじゃあさー、いつになっても美味しい物食べられないよ」
「オレに言うな、オレに。生活がやばいのはわかってるんだ。でも天気を恨んでも仕方ないだろう?」
 その気持ちはわかるけれど、と彼は心の中で付け足した。最近は朝も昼も夜も、貧相な食事が続いていた。それでも食べられるだけましなのだろうが、ようにとっては苦痛なはずだ。おそらく量も足りていないのだろう。
「そうだけどさー。でもほら、晴れた時に青葉がもっと頑張ってくれれば!」
「オレのせいなのか、オレの」
「だってカウンターにいるのは青葉と梅花だし」
 ようは料理本を閉じた。恨みがましい声だ。店員がいいだけで売り上げは伸びないぞと、青葉はそう言いかけてはっとする。そして勢いよく梅花の方を振り返った。
「そうだ、梅花」
「――何?」
 ちゃんと呼びかければ、梅花は無視しない。手を止めて顔を上げると、彼女は小首を傾げた。先ほどと同じく無表情に近いが、ほんの少しだけ眉根が寄せられている。話は聞いていたと思うが、この流れで名を呼ばれる理由が予想できないに違いない。
「前から言おうと思ってたんだけど」
「うん」
「お前、絶対笑った方がいいって」
 今までであれば、言えなかった言葉だった。冷たくあしらわれるのが目に見えていた。けれどもプレゼントを受け取ってもらえた今ならば、少なくとも口にしてみる価値はある。ようが驚く気配を感じながら、青葉はこの場から逃げ出したい衝動と戦い続けた。なかなか反応が返ってこないのが怖い。
「どうして?」
 しばらく彼を見つめてから、彼女は不思議そうに瞳を瞬かせた。嫌だと言われなかったのは、幸いといったところか。すぐさま青葉はまくし立てるように理由を連ねる。
「ほら、あちこちの店に行ったらわかるだろう? 店はサービス第一、笑顔が第一。その方が売り上げは伸びるって」
 我ながらうまい理屈だと、彼は笑顔を浮かべながら胸中で自画自賛した。そう、全ては売り上げのため、つまりは生活のため。決して笑顔が見たいとか、そういった個人的な理由からではないのだ。心の中で自らに言い訳をして、彼は満足する。
 するとどうやら彼女も納得してくれたようで、なるほどといった様子で首を縦に振った。山吹色のリボンが揺れて、一瞬だけ視線が吸い寄せられる。
「確かに、みんな微笑んでたわね」
 梅花の返答に、横でようが万歳をした。これで美味しい物が食べられるとでも考えたのだろう。そうすぐに効果が出るとも思えないが、後押しをしてくれる存在は心強かった。青葉はようへと視線を向ける。
「ようだってそう思うだろ?」
「うん、思う思う! それに梅花は笑った方が絶対可愛いよー」
 楽しげな声が車内に響いた。言いたかった言葉を口にされて、青葉は思わず息を詰まらせる。子どものような無邪気さだった。こんなようが相手なら、彼女はどう返すのだろうか? そう思って見やると、彼女は困ったように微笑んでいた。笑うことが全くできないわけでもないのだ。
「そう……」
「うん、そうそう! ね、青葉もそう思うでしょう?」
「……え? あ、まーそりゃあそうだな」
 今度は訪ねられる番が来て、青葉はうわずった声を上げそうになった。言うまでもないことだが、口にするのは緊張する。横目で梅花を見ると、やはり曖昧な微笑みを浮かべたままだった。これでも十分すぎる程可愛いのだから、満面の笑みなど即死ものだ。
 そう考える自分に気がついて、再び彼は頭を抱えたくなった。疑う余地などなかった。もう、決定的だ。どう考えても勝ち目のない戦いに臨んでいることを自覚して、彼は外を一瞥した。好きになっても苦しいだけの相手だったのに、どうやら引き返せそうにはない。
「でも――」
 視界の端で、梅花が頬へと手を当てた。
「私、意識して笑うとかよくわからないわ」
 ほんの少し淋しさをにじませる声音に、青葉は胸をかきむしりたくなった。宮殿での出来事が頭をよぎり、知らぬ間に握っていた拳に力が入る。声を立てて笑ったことなど一度もないのではないかと、つい考えてしまうのも嫌だった。
「笑うなんて簡単だよー! ほら、こうやって」
「こうやって?」
「好きな物のこととか考えればいいんだよ!」
 しかし梅花の変化には気がつかないのか、先ほどと変わらない調子でようは続けた。おそらく食べ物のことを思い描いているのだろう。笑顔というよりもにやけた顔に、青葉は思わず吹き出した。こんな時、ようの力は偉大だ。空気が変わる。
「好きな物、ねえ」
「そうそう! 他にも、嬉しかった時のこととか」
 ようは勢いよく首を縦に振った。頭を傾けた梅花はしばし考え込みながら、頬へと当てた手を後ろへともっていく。そして一本に結ばれた髪の根本――リボンに触れて、また困ったように微笑んだ。その姿を直視できなくて、青葉は視線を床へと落とす。
 意図的にやっているようではない。ということは無意識か。このタイミングでそんなことをするなんて、反則だった。必死に雨音へと意識を向けて、彼は落ち着くようにと深く呼吸する。気のせいか、先ほどよりもぐっと暑くなったように思えた。
「それでもできない?」
「……難しいわ」
「そのうちできるよー! 期待してるからね。僕、美味しいご飯食べたいし!」
 自分の欲求のためならば、ようは積極的だ。青葉が顔を上げると、ようは身を乗り出しながら瞳を輝かせていた。彼女は手を下ろすと、縫いかけの服をまた持ち上げる。そして小さくため息をついた。
「わかったわ、まあ頑張ってみる。生活もかかってるしね」
「お願いね、梅花!」
 無邪気とはなんて怖いのだろう。言い出したのは青葉なのだが、今さら後悔が湧き起こってきた。彼女の笑顔が見られるのは嬉しいが、無理をさせるのは心苦しい。嬉しそうなようの顔を横目に、青葉は何とか梅花を真正面から見た。伏せられた睫毛の影がどこか儚げに映る。表情は変わらないはずなのに、不思議と切なげに見えた。
 だがすぐに視線に気がついたのか、彼女は彼へと双眸を向けた。訝しげな色をたたえた瞳が、彼を真っ直ぐ見上げる。
「何? 青葉」
「あ、いや、まあ無理するなよ」
「仕事のためなら、ある程度は仕方ないわ」
 何度も聞いてきた仕事という単語。それを耳にする度に、気持ちが重くなった。無理矢理作った笑顔なんて、痛々しいだけだ。だがそれも口にすることはできなくて、彼は瞼を伏せて嘆息した。

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