white minds

傷跡はそのままに-7

 梅花は笑顔の方がいいと口にしてしまってから、しばらくが経った。それでも彼女が微笑む――少なくとも青葉がそう判断できる――回数は以前とほとんど変わらなかった。ただ彼女が時々組み立て式の鏡とにらめっこしている姿を、彼は何度か見かけた。
 笑顔を作ることは、彼女にとってはかなりの難題らしい。何でも淡々とこなすことができる彼女にも、苦手なものはあったのだ。それもただ微笑むだけという、彼らにとっては至極簡単な動作。
 けれどもだからこそなお、そんなところで躓くという事実が指し示すものに、彼は重たい気持ちを抱えていた。何も知らぬ赤ん坊でさえ、親に向かって笑いかけるというのに。
「あ……」
 今日もまた誰もいない特別車の中で、梅花は鏡に手をかけていた。一人の時最近彼女はよくそうしている。
 夕暮れ時を過ぎた公園は明かりもわずかで、客足は途絶えていた。だからもう店をやっても意味がないだろうと、先ほどアサキたちは買い物に出かけてしまった。目的は主に晩ご飯の買い出しだ。車の方に残されたのは青葉と梅花だけ。以前ならため息ものの時間だったが、今の彼にとってはそうではなかった。
 話しかけることはまずないし、たとえ話しかけたとしても会話はほとんど続かない。それでも周囲を気にすることなく彼女の姿を一瞥できる、彼にとっては貴重な時間だった。ただし鏡の前で唇を結ぶ彼女を見るのは、やはり胸に痛い。そう仕向けてしまったのは彼だと思えば、どうしても罪悪感に駆られた。
 だから嘆息しながら鏡から手を離した彼女に、つい青葉は声をかけてしまった。発端となった彼が今さらとやかく言うのは嫌だったのだが、もう我慢などできそうになかった。
「そんな無理しなくていいから」
 思い切ってそう告げた口調は、彼自身が予想していたより淡泊だった。しかもかなり唐突な発言だったと思う。だから振り返った梅花が顔をしかめるのも、仕方のないことだった。彼女の黒く大きな瞳が、真っ直ぐ彼を捉える。
「青葉。買い物に行ったんじゃなかったの?」
「いや、オレも残り。買い物なんて三人もいれば十分だろう」
「……そうね」
 彼女はまず話の矛先を逸らした。しかし何か考えるように視線を彷徨わせた後、諦めの表情で息を吐いた。ほとんど無表情に近いのだが、瞳からはその感情が透けて見える。それも最近ずっと、彼女を見ていて気づいたことだった。棚に置いた鏡を一瞥してから、彼女は口を開く。
「言い出したのは青葉でしょう?」
 さすがは勘のいい彼女、彼の一言だけで全てを理解したらしい。呆れ気味というわけでもなくほぼ無表情のまま言って、彼女はおもむろに頭を傾けた。揺れた髪が棚に触れる。彼は嘆息したいのを我慢して、視線を小さな鏡へと向けた。
「そりゃあ、笑顔の方がいいって言ったのはオレだけど。でもそこまで無理して作るのは変だろう。本当はそういうものじゃあないはずだし」
 客に向ける笑顔を、こちらでは営業スマイルと呼ぶようだ。もちろん無愛想に接客されれば気分は悪いだろうから、愛想良く振る舞うのはいいことではあると思う。ただそれを彼女に強制するのは間違っている気がした。彼女は仕事のためならば、自分を犠牲にする人間だ。犠牲を強いることは気が進まない。
「こんなの無理なうちには入らないわよ。……まあ、できてないんだけど」
 組立式の鏡を折り畳みながら、彼女はわずかに複雑そうな苦笑を浮かべた。彼は胸の奥を抉られたような気分になり、思わず顔をゆがめる。こういった苦笑なら、彼も何度か見たことがあった。すると彼女はちらりとだけ彼を見上げて、肩をすくめる。
「別に、青葉が気にすることはないわ。愛想がいい方がいいことくらい、私だってわかっているもの」
「梅花」
「でも微笑んでみてもね、違和感があるのよ。とても嘘っぽくてどこか虚ろで。これなら笑わない方がいいんじゃないかって思うくらい。とてもお客さんには見せられないわ」
 畳んだ鏡の背面を撫でて、彼女はふと視線を落とした。それにともなって揺れた長めの前髪が、彼女の目元に影を落とす。次ぐべき言葉を失って彼は閉口した。
 こんな時に不謹慎だとは思うのだが、目を伏せた彼女の横顔から視線をはずせなかった。思わず手を伸ばしたくなる頼りなさがあると同時に、触れてはいけないと思う儚さがそこにはある。
 無意識に伸ばしていた手に気づき、彼は困惑に瞳を瞬かせた。今から引っ込めるにしては不自然な位置にあるし、かといって意味もなく触れることもできない。彼がそう躊躇っているうちに、彼女の眼差しがその手を捉えた。彼は仕方なく、その指先で彼女の口角に触れる。
「あ、青葉?」
「ここを上げるだけだろ。難しく考えすぎなんだよ梅花は。相手が本当は何考えてるかなんて、普通の人間が簡単に読みとれるものじゃあない」
 気が読みとれる自分たちとは違うのだと暗に告げ、彼は軽く笑った。今すぐこの手を離すべきだとわかっているのに、そうすることができなかった。彼女の不思議そうな視線を受けながら、彼はもう一方の手で首の後ろを掻く。
「最初はぎこちなくたって、そのうち慣れるさ。顔の筋肉が動かないわけじゃあないんだろう? それに、その――」
 自分が何を言おうとしているのか気づいて、彼は内心で慌てた。ついこの間まで、彼女を毛嫌いしていた者が口にする言葉ではない気がした。だが喉元まで出かかったものは、途中で止まってはくれない。唇からこぼれた言葉は、妙に緊張感漂う空気を静かに震わせた。
「お前、時々、笑ってるだろ。全然笑えないわけじゃあないはずだろ。だから意識しすぎてるだけだって」
 案の定、彼女は心底驚いたように眼を見開いた。自覚がないのか、それともそれを彼に見られているとは思っていなかったのか。どちらなのか彼にはすぐには判断できない。彼女は真っ直ぐ彼を見上げて、おそるおそる囁くように問いかけてきた。
「私、笑ってた?」
「まー苦笑いに近い時の方が多いけど。でも、ほら……そのリボンやった時とか」
 心臓の鼓動が速まるのを感じながら、彼はゆっくり彼女から指先を離した。何故こんなに緊張するのかよくわかない。女性と話すのはもちろんのこと、触れた回数も数え切れない程あるというのに。それなのに相手が梅花だと考えるだけで、挙動不審になりそうだった。
 彼女の視線が戸惑うように揺れる。何故かは予想できなくとも動揺しているのは確かで、彼女は唇を噛むとぎゅっと鏡を抱きしめた。そして意を決したように、おずおずと彼を見上げてくる。
 上目遣いで見つめられた経験なら幾度となくあるが、それを彼女がすると威力は絶大だった。思わずその小さな体を抱き寄せてみたくなって、彼は上着の裾を強く握る。意識してしまったらこうも変わるのだろうか? 衝動を表情に出すのだけは何とか堪えて、彼は密かに息を呑んだ。
「変じゃなかった?」
「変じゃない、変じゃない。って変な笑顔ってどんなのだよ」
「だから不自然な感じで――」
「そんなのは気持ち次第で何とかなるんだって。嫌いな奴に微笑むのは、そりゃあ難しいだろうけど。でも相手は客だぞ。客が来たら嬉しいだろ。その気持ちのまま笑えばいいんだって」
 表面を取り繕うのは、彼もそれなりに得意としている。たぶん不自然に思われない程度には、軽く言えているはずだった。
 ただし無理矢理な理屈を重ねているという自覚はあった。とにかく何とかしたいという気持ちだけで、彼は言葉を重ねていた。本当は笑って欲しい、できるなら微笑みかけて欲しい。だが無理はさせたくない。そんな相反する願いが、彼の胸中で渦巻いている。
「そんなものかしら……」
 彼女は半信半疑な様子でそれでも信じようと努力はしているらしく、躊躇いがちに長く息を吐いた。この間プレゼントを渡したときにも思ったことだが、案外彼女は素直に彼の言葉を受け入れる。嬉しいことではあるはずなのに、何となく彼は複雑だった。
 まるで子が親を信頼するような、そういった態度に似ているからだ。おそらく自分が常識外の世界で育ったことを、彼女は自覚しているのだろう。だからといって彼の知る世界が一般的とも限らないのだが、そう思っている節があるようだった。
「ああ、そういうものだって。じゃなかったら、神様でもない限り店員になるのなんて無理だろう。嫌な客だって絶対いるんだし」
 それなのに、彼はまるで自分の知る世界が普通であるかのように話すのだ。図々しいなと胸中では自嘲気味に微笑んで、彼は窓の外へ視線を移した。
 もうじき買い物に行ったアサキたちも帰ってくるはずだ。そうすれば、この二人きりの時間も終わりだった。以前は毛嫌いしていたこの時が、今は一刻でも惜しく感じるのだから人間とは不思議だ。
「……そうね」
 しかしそんな彼の胸中など知らず、彼女はやや安堵をにじませた顔でうなずいた。そして抱きしめていた鏡を右手に持ち、静かに口を開く。
「最近売り上げも減ってるし……何とか割り切ってみるわ」
「お、おう」
「ありがとう、青葉」
 そう告げた彼女は、頭を傾けながら笑った。かすかにぎこちなさは残るものの、十分笑顔と呼べる表情だった。いや、そのぎこちなさも単に照れ隠しのように見えて、小さく鼓動が弾む。だから彼は気の利いた言葉を返すこともできず、戸惑い気味に首を縦に振ることしかできなかった。
「あ、ああ」
 彼女はすぐに彼に背を向けて、特別車から出ていった。一本に結ばれた長い髪の軌跡が、彼の瞼に焼き付く。早鐘のように打つ鼓動を落ち着かせるように、彼は左胸の辺りを手のひらで押さえた。
「まずいだろ、これ」
 想像していた以上の効果だ。信じがたい程に破壊的だ。得も言われぬ後悔を覚えながら、彼はしばらくその場に立ち尽くした。彼がそこを動くことができたのは、アサキたちの話し声が聞こえてからだった。

◆前のページ◆  目次  ◆次のページ◆