white minds

傷跡はそのままに-8

 梅花が取得した営業スマイルは、瞬く間に売り上げへと反映されていった。しばらく雨ばかりで――どうやらこちらの世界ではそういう時期だったらしいが――苦しい日々が続いていたのだが、そのマイナス分を埋めつつある。
 彼女の微笑みは、他の人の笑顔に比べれば明らかに控えめだ。しかしそれでも無表情よりはずっと好感が持てるし、何より見目が見目なだけに効果は絶大だった。少なくとも青葉にはそう思える。
「あれは、間違いだったかもしれない」
 夜を迎えて後片づけをしながら、青葉は一人小さく呻いた。彼女の微笑を横目に仕事をするのは、予想以上に骨が折れることだった。
 とにかく気になって仕方がない。真正面から見てみたくなるし、若い男性客の顔が緩めばそれだけで不快になる。これはまずすぎる。かなり、重症だ。自覚はあるのだがどうにもならずに、彼は悶々とした日々を過ごしていた。
「営業スマイルなんて、教えなきゃよかった」
 かすれ気味の声で漏らしたつぶやきは、夜の静寂に溶け込んでいく。いつもと違わず今日も、人気のない公園には独特の空気が漂っていた。昼間のにぎやかさとは対照的に、わずかに物悲しさを含みながらもどことなく神秘的だ。その内に秘め事が隠されているような、そんな不思議な匂いが潜んでいる。
 虫の鳴き声が響いた。特別車の中で片づけをしているはずの仲間たち、その声がいつの間にか聞こえなくなっていた。まさか勝手に寝たのではと眉根を寄せて、彼は慌てて耳を澄ます。すると扉が開く音がして、誰かが出てくる気配があった。この気は梅花だ。彼はゆっくりと振り返る。
 薄暗さになれた彼の目に、袋を持った梅花の姿が映った。小脇に抱えられる程の大きさだが、重さはなかなかありそうだ。彼は一歩を踏み出しかけて、それでも何故かそうすることができなくて息を吐いた。その間に、淡々とした足取りで彼女が近づいてくる。
「アサキたちはそろそろ疲れたって言ってるけど。青葉はどうする? テーブルなんてもう十分綺麗でしょう?」
「いや、ちょっとこびりついてたの落としてただけだって」
 昼間とは違い無表情を突き通す彼女に、彼は手にした布巾をヒラヒラとしてみせた。気遣わしげに言われたのならば心が弾むところだが、彼女の口調からそれは読みとれない。抑揚のない言葉にはせいぜい疑問しかなく、期待するのも馬鹿らしい程だった。
 昼間のは偽りの顔だと、はっきり突きつけられたようだ。幻想を抱くなと言われているようで複雑になり、彼はかすかに渋い顔をする。
「そう」
 予想通り、一言そう答えただけで彼女はあっさりと踵を返そうとした。思わず彼はため息をつきそうになるが、その前に彼女の足が止まり、足下の何かを拾い上げる。
 不思議に思って覗き込んでみると、それは一枚のチラシだった。一部が土で汚れたそれは、どうやらケーキ屋のものらしい。祝い事の際に、という趣旨のようだった。彼女はそれを怪訝そうに見つめて、小首を傾げている。
「あー、誕生日ケーキか」
「誕生日ケーキ?」
「昼間、そんなこと言ってた客がいたじゃん。ほら、小さい女の子で」
「ああ、あの着飾ってた子。若いお父さんが一緒だったわね」
「いや、そこまでは覚えてないけど」
 軽くうなずく彼女に、彼は首の後ろを掻きながらそう答えた。客の数が増えれば増えるほど、印象的な人以外は頭から消えている。彼はたまたま嬉しそうな少女の顔を思い出しただけだ。梅花もこんな風に笑ったことがあるのだろうかと思ったから、記憶に残っていた。
「きっと落としちゃったのね」
 彼女はそのチラシを小さく折り畳んだ。捨てるつもりだろう。その横顔をぼんやりと眺めていた彼は、ふとあることに気がついて口を開いた。今聞かなければもう機会などないかもしれない。そんな焦燥感が突如として湧き起こる。
「そういえば、梅花って誕生日いつ?」
 彼の言葉に、チラシを捨てようと一歩を踏み出した彼女が怪訝そうに振り返った。何故そんなことを聞くのかと言いたげな眼差しに、彼の心は折れそうになる。だがここでめげてはいけないことは、このしばらくの生活で理解していた。彼女のことを知るためには、まず乗り越えなければならない壁だ。
「どうして?」
「ほら、せっかく仲間になったんだし……その祝ったりとかさ」
「誕生日って、普通の人は祝うものなの?」
 そう聞き返されて、彼はほんの少し顔をしかめた。それはつまり、彼女は一度も祝われたことがないということか。そう思うと胸の奥に重石を乗せられたようで、口にするはずだった言葉が全て引っ込んでしまう。しかし横目でちらりと見れば、彼女は純粋に疑問に思っているだけのようだった。夜に溶け込みそうな黒い瞳は、彼を真っ直ぐ見据えている。
 彼は仕方なく、正直に答えることにした。いくら繕おうとしても、今さらどうにかなるものではないだろう。自分がいた環境が特殊であることは、彼女は自覚しているようだし。
「普通、かどうかはオレにはわからないけど。でもヤマトでは祝ってた。ご馳走作ったりとかな」
「そうだったの、ごめんなさい。あなたの誕生日には何もしなかったわね。それにようのも」
 彼女はわずかに目を伏せた。表情や声音は変わらないがどことなく落ち込んでいるようにも見え、彼は慌てて彼女へと数歩近寄る。今度は躊躇うことはなかった。
「いや、別に責めてないしっ。というか何でお前はオレの誕生日知ってるんだよ」
「何でって……私は神技隊を選んだ一人よ。もちろん、必要最低限の情報は知ってるわ」
 間近から見上げてきた彼女に、彼はそれ以上言葉を重ねることができなかった。彼女はあのリューの補佐をしていたのだ。確かに基本的な情報なら知っていてもおかしくないだろう。もし彼がその立場だっとして、覚えていられるかどうかは定かではないが。
「って話が逸れた。梅花ばっかり知ってるのは不公平だし、ほら、だから、その……」
「私の誕生日? 十日前だけど」
「十日前!? な、なんでその時言わないんだよ」
 そこで言葉にし難い衝撃が、彼を襲った。できるならこの場で頭を抱えたかった。十日前。よりによって十日前。これが数ヶ月前ならば、あの時は祝うような状況ではなかったと思えるだろう。数ヶ月後ならば、その時祝えばいいと準備に入るだけだ。
 しかし十日前。つい、この間だ。もう少し早く聞いていればと思うと、どっと後悔の念が押し寄せてきた。ここしばらく、彼はずっと横顔を見ていただけだった。持て余した心のやり場を探りつつ、嘆息していただけだ。もう少しでも早く動き出していたら、彼女を知る絶好の機会を逃さずにすんだのに。
「自分で自分の誕生日を主張するのが普通なの? 青葉も言ってなかったじゃない」
 内心激しくうろたえる彼とは対照的に、彼女はやはり淡々とした口振りだった。そう言われると反論もできず、彼は苦笑いを浮かべるしかない。
 まともに会話が成り立たなかった時に比べれば、まだましだ。話すのも疲れるというため息も、彼女は吐かなくなった。しかしまだ見えない大きな壁が立ちはだかっているようで、胸の重石がさらに増える。どうすれば彼女が心底笑ってくれるのか、今知りたいのはそれだけなのに。
「……祝いたかったの?」
 わずかな沈黙の後、彼女は不思議そうに首を傾げた。彼ははっとして思い切りうなずくと、照れ隠しに首の後ろを掻く。もっとも、これだけで彼の好意が伝わるとは到底思えないが。
「青葉って、変わってるわね」
 案の定、彼女は深くは捉えなかったようだった。違法者の考えを察知するのは得意だが、こういった方面は苦手らしい。いや、そもそもそういう事態を想定していないと言うべきか。とにかく彼女は好意というものへの疑心が強い。
「変わってない、変わってない。変なのはお前だ」
「――それは、否定しないわ。だからといってあなたが変わっていない理由にはならないけど」
「否定しないのかっ」
「否定して欲しいの? 本当、最近の青葉はまたよくわからないわね。昼間だって変な気配漂わせてるし」
 彼女は肩をすくめて苦笑した。一方昼間と聞いて、彼の体は強ばった。もしかしたら嫉妬まがいの邪な念が、気となって表れているのかもしれない。だとしたら大変だった。以前のように「あなたといると疲れる」など言われたら大打撃だ。あの時の比ではないだろう。しばらく立ち直れないかもしれない。
「それは、その、悪かったな」
「別に責めてないけど」
 しかし幸いにも、その言葉が放たれることはなかった。安堵した彼が息を吐くと、彼女はもう一度手にしたチラシを一瞥する。そして袋を抱え直すと、何か考え込むように空を見上げた。
「青葉がもし」
「……ん?」
「そんなに祝いたかったのなら」
 てっきり話はもう終わりかと思っていた彼は、すぐに反応できなかった。虫の音がまた響き渡る中、訝しがるように首を傾げる。だが続く言葉の方が、さらに彼には予想外だった。
「合同でやりましょうか」
 一瞬言わんとすることがわからず、彼は彼女の横顔を凝視した。月明かりに照らされた彼女は、昼間よりもなお神秘的だ。そこに隠された感情を読みとろうと必死になっても、ぼんやりとしたものしか掬いとることができない。合同でという単語だけが、彼の脳裏をぐるぐると回っていた。
 どういう意図なのか。期待していいのか、駄目なのか。彼女が何を思ってこんな提案をしたのか、何もわからない。
「合同でって、誕生日会をか?」
「そう。私とあなたと、ようの分。最近少し余裕も出てきたしね」
 それでも何とか声を絞り出すと、彼女の双眸がゆっくり彼へ向けられた。もちろん、彼に断る理由はなかった。彼女がこんな形で折れてくれるなど初めてだ。その心境はわからない。が、少なくとも彼が彼女を嫌っていないことは、認めてくれたのだろう。そう思いたい。
「そうだな。たまにはいい物を食わないと、仕事にも精が出ないしな」
 だから今はこれでいいことにしよう。多くは望まずにいよう。胸中で自らにそう言い聞かせて彼は大きく相槌を打った。虫の音が、また一際強く響き渡った。

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