white minds

「絡みつく鎖を」

 近頃レーナの様子がおかしいことには気がついていた。部屋にいても落ち着きがなく、時折視線を彷徨わせてはため息を吐いている。二人きりの時でもたわいのない言葉さえ交わすことさえまれだった。
 アースはずっと、その理由を問いただす機会をうかがっていた。しかしそれは待てど暮らせどいっこうに訪れない。彼女と視線が交わることさえ少ないとなれば、彼の苛立ちも募っていた。青葉への八つ当たり回数も増えていく一方だ。
 今日もまた彼女は部屋の中、ベッドの上で膝を抱えながら物思いにふけっていた。彼が自分から話しかけることは滅多にないため、やはり沈黙が部屋を支配している。だがしばらく剣の手入れをしていた彼は、ついに耐えきれなくなり彼女に声をかけた。手を止めて顔を上げると、低い声でその名前を呼ぶ。
「レーナ」
 しかしいつもならすぐ返る声が今日はない。不思議に思ってよくよく見れば、軽く目を伏せた彼女の視線は頼りなくシーツの上を往復していた。彼は長剣を壁に立てかけるとベッドの横に膝をつく。
「レーナ」
 再度強く名前を呼ぶと、小さく体を震わせて彼女ははっと顔を上げた。一本に結ばれた髪が揺れシーツの上を滑る。ようやく目があったことに満足して、彼はベッドの上で頬杖をついた。
「あ、アース……」
「眠いのか?」
 何度も瞬きを繰り返す彼女に、彼は笑いながら聞いた。顔を見れば明らかだ。彼女が眠そうにしているところを見るのは珍しいが、全くないというわけでもない。特にずっと精神が張り詰めている時はよく反動で眠くなるらしい。彼女が困ったように頭を傾けるのを見つめて、彼はさらに口角を上げた。
「なら眠ればいい」
「いや、そういうわけにも――」
「では何時までもそうしているのか? われがいるのだから問題ないだろう」
 彼はあいている方の手を彼女へと伸ばした。彼女が眠ることができるのは彼の傍だけだった。ずっと魔族の気配に神経を尖らせていたせいか、始めの頃眠った条件を満たさなければ意識が落ちないらしい。それが満たされるのは、今は彼の横だけなのだ。彼としては彼女が目の前で寝るのは大問題なのだが、それがわかっているから文句も言えない。
「それは、そうなんだが……」
 彼女は渋った。彼の手を一瞥しながらも膝を抱えたまま口ごもり、誘惑に耐えるように眉根を寄せている。
 仕方がないと嘆息して、彼は立ち上がると無理矢理彼女の手を引いた。寝たくないと彼女が思っている時は――理性がそう判断している時は、強引な手に出るしかない。抵抗する彼女の体を、彼はそのままベッドに横たえた。組み敷いたとも言うが、あえてそのことは考えないでおく。
「アースっ」
「何時間もとは言わない。少しでいいから眠れ、いいな?」
 見下ろした彼女はその顔に困惑の色を浮かべていた。それでも起き上がろうとする気配がないのを確認して、彼はそっと彼女の前髪を手で梳く。こうやって触れるのはどれくらいぶりだろうか? 指通りのいい髪を撫でながら、彼は自然と頬が緩むのを感じた。彼女が諦めるのも時間の問題だろう。
「……どこにも行かないか?」
 確認する言葉に彼はうなずいた。この瞬間が堪らない。かすかに揺れる瞳を見下ろしながら、彼は彼女の長い髪を解き始める。彼がいなくなれば彼女はすぐに目を覚ますだろう。それがわかっているのに出て行くはずがないし、そうしたいとも思わなかった。だが彼女は何度も確認するのだ。その不安そうな顔を見る度に、必要とされているのだと感じる。
「手でも握っててやるか? 添い寝でもいいが」
「いや、それはいい」
 彼女は勢いよく首を横に振った。そこまで拒否されるのは心外だが、本音を言えば安堵もした。必要もないのに触れたくなるのは神や魔族にはよくあることらしいが、それ以上の衝動が内には渦巻いていた。彼女の横顔、背中を見る度に強くなるこの感覚は、ある種独占欲のなれの果てなのかもしれない。
 しばらく視線を彷徨わせてから、彼女はおそるおそるといった様子で瞼を閉じた。彼は傍にあった毛布を彼女に掛けると、その横に腰を下ろす。ベッドが軋んでも彼女は目を開けなかった。
 結局彼女が落ち着かない理由を聞いていないと、今になって彼は思い出した。眠くなるくらいだから相当の大事だろう。また五腹心が動き出したのだろうか? 何か企んでいるのだろうか? あれやこれやと考えながら、彼はそっと彼女の右手に触れた。華奢で折れそうなそれは今は少し冷たくなっている。彼は眉をひそめると、包み込むように手を握った。
 小さく彼女は身じろぎをしたが、やはり目を瞑ったままだった。彼は長く息を吐くと天井を見上げる。それでも耳は彼女の呼吸を拾い続けていた。
 長い間何を悩んでいるのだろうか? 知りたいと思うのに聞けないのは、尋ねなくとも言って欲しいからなのか。信頼されているとは思うし特別扱いされているとは思う。だがそれでも最後の壁が取り払われていない気がして、見えない壁がある気がしてもどかしかった。
 このもどかしさが気づけば苛立ちに変わり、時折抗いがたい衝動とともに頭をもたげてくる。胸の奥底に堪った汚い泥土もいつか燃え上がるのではないかと、日々彼は危惧していた。
 こんなに近くにいるのに遠い。傍にいればいる程彼女の視線の先が気になり、そこに多くの人たちがいることに気づかされる。そして同時に、誰に対しても彼女はある程度の距離を置いていることにも気がついた。その胸中にあるだろう重い部分を隠して、彼女はいつも微笑んでいる。
 もちろんそれは彼に対しても同じだ。『過去のアース』のことがあるせいで、彼女はどうも彼からも一歩離れたところにいる。思い出しようのない、それでも消すことができない、同じであって同じでない存在のことが気になるのは彼も同様だった。しかしそのせいで距離を取られるのは歯がゆくて仕方がない。
 こんなことばかり考えているからいつも険しい顔になるのだ。青葉によく言われている言葉を思いだし、アースは瞳をすがめた。苛立ちはいつも奥底に沈んでいるが、消えてしまうことはない。
 天井を睨みつけ、それでももやもやとした気分を振り払いきれず、彼は部屋の中を見回した。物が少ない殺風景な室内を眺めながら、とりとめのないことを考えてはまた怒り、嘆き、そして自らを嫌悪する。
 そんなことを繰り返しているうちにどれくらい経っただろうか。いつしか彼女の呼吸が不規則になっていることに気づき、彼は慌ててその顔を見下ろした。
「レーナ?」
 名前を呼びかけてみても返事はない。その代わりにまた身じろぎをして、彼女は小さく呻いた。起こすべきか否かと迷った彼が手を離そうとすると、今度は逆に握りかえされる。
 彼は息を止めた。そのまま黙り込んでいると、ゆっくりと彼女が目を開けた。その瞳が彼を捉えた瞬間、今にも泣き出しそうに顔が歪み、ついで握られていた手が急に離れる。
「あ、れ? アー……ス?」
 唇から漏れた声は震えていた。その眼差しにはわずかに期待と怯えが含まれていて、彼は咄嗟に何か嫌なものを感じ取る。今彼女が見ているのは本当に自分なのかと、いつかのアースなのではないかという疑問が膨れあがった。
 彼女はまだ寝ぼけているのか混乱しているのか、何度も瞬きを繰り返した。離れた彼女の右手に指を絡めると、彼はそのままそれをベッドへと押しつける。華奢な手がシーツに埋もれると彼女は軽く眉をひそめた。
「ア、アース――」
 あいている右手を彼女の左側につくと、彼は言葉を遮るように額に口づけた。髪を解いた時に鉢巻きも髪飾りも外してあるから邪魔な物はない。戸惑い気味の吐息を肌で感じながら、彼は瞼にも口づけを落とした。
 これだけ傍にいるというのに遠い。彼女の見ている世界と彼が見ている世界が違う。彼は嘆息すると揺れる瞳を真正面から見つめ、静かに右の口の端だけを上げた。困惑しながらも逃げだそうとしないのは、わけがわからないからか。それとも別の理由があるのか。
 思考も同じだというならやはり昔のアースも同じことをしたのだろうかと、そう考えると苛立ちを越えた感情が湧き起こった。シーツへと押しつける手に力がこもる。握りつぶせそうな程に細いそれは、気づけば病的に白くなっていた。
「嫌な夢でも見たのか?」
 抑揚のない声で問いかけながら、今度は絡めた指先へと軽く口づける。彼女の体が強張るのはわかったが、だからといって止めようとは思わなかった。小さく名前を呼ばれても彼は返事もしない。
「また昔の夢か?」
 彼女がどんな表情をしているのか見たくなくて、彼はその首元に顔を埋めた。いつもそこを覆っている邪魔な布は、彼女が顔を逸らしたのをいいことに剥ぎ取ってしまう。冷気に触れて震えた首筋に、彼はそっと右手を添えた。
 少し力を入れるだけで食い込みそうな肌の上で、何度も指の腹を往復させる。彼女が息を呑むのをすぐ傍で感じながら、彼は耳元で囁いた。大丈夫だと。何がどう大丈夫なのか彼にもよくわからないが、そうするだけで絡めた指から力が抜けていくから不思議だ。彼女はまだ寝ぼけているのだろうか? 顔を見ていないから判断できない。
 彼が耳の付け根に唇を押し当てると、彼女の喉が鳴った。ついで耳朶を甘噛みすれば、静寂に突き刺さるような小さな悲鳴が鼓膜を震わせる。
 彼は低く笑った。一つ一つの動きに反応する様が嬉しい。彼女が過去の世界にいるならば引き戻すまでだと、悪魔の囁きにも似た思いが膨れあがってきた。また硬くなってしまった彼女の体をほぐすように、彼は右手でその頭を優しく撫でる。こうされるのが好きなのはよく知っていた。
「嫌な夢だったのか?」
 何がしたいのか、これから何をするつもりなのか、彼自身にもよくわからなかった。痛みに支配された思考には理屈など通じなくて、とにかく今は彼女の全てを奪いたくて仕方がない。どんな理由でもかまわないから、今目の前にいる彼だけを見て欲しい。そう思うと同時に拒絶されることを恐れていることも自覚していた。ひどく滑稽だ。
「アース、なん――」
 だから彼女が何か言おうとする度にそれを遮りたくなる。すぐ近くで彼女の声を感じた瞬間、彼は強引にその襟元を広げ、鎖骨に沿って舌を這わせた。声にならない悲鳴が漏れて、白い肌が瞬く間に染まっていく。
 毛布の中で足が動くも、蹴り出す気配はなかった。あいている左手もシーツを掴むだけ。突き放そうとする力がかからないことに、彼は密かに安堵した。転移の技があるのだから本当に嫌なら逃げ出すはずだ。そんな甘い期待が胸の中を満たしていく。
 もう顔を見ても大丈夫だろうか? 嫌悪されることはないだろうか? そう自問しながら意を決すると、彼はやおら頭をもたげた。いくら触れていても彼女の顔が見られないのは辛い。できるなら五感全てで彼女を感じたい。
 二人きりの時だけ見られる表情の変化はもちろんのこと、偽りも繕いもない、切なさも混じらない、心からの笑顔が彼は好きだった。心底嬉しそうに微笑むのを見ていると、いつもの苛立ちも収まっていく。だから名を呼ばれて振り返った瞬間の笑顔が、何度見ても堪らなかった。
「レーナ」
 ほとんど無意識にその名前を口にする。前髪が触れてくすぐったかったのか、頬を染めた彼女は片目を瞑っていた。だが答える代わりに手を握りかえされて、彼は一瞬動きを止めた。鼓動が跳ねるだけに留まらない痛みに息が止まる。この突き刺さる棘の正体がわからずに、彼はわずかに顔を歪めた。
 彼女はゆっくり目を開けるとそっと左手を伸ばしてきた。困惑気味の顔で、それでも怯えることなく頬に触れて、彼女はまじまじと彼を見上げている。その黒い瞳に見つめられると全てを見透かされているようで、彼はばつが悪くなり目を逸らした。この視線は反則だと思う。
「なんで」
 彼女の声が静かな部屋を揺らす。そこから嫌悪感は感じ取れず、ただ不思議そうな響きだけが含まれていた。頬に感じられた冷たい指が、躊躇いがちに額へと移動する。
「なんでアースが怒ってるのかは、わからないんだが」
 彼は視線を辺りに彷徨わせた。彼女に伝わるわけがないだろう。気に敏感な彼女はどういった感情なのかは察知できるが、その理由となると想像するしかない。寝起きでこれでは推測することも不可能なはずだ。
 しかしそれでも見破られているような気がしてならなかった。彼女の瞳の前では全てが露わになっているかのようで、やましいことがある時はその視線を受け止めるのもひどく難しかった。これだけ近くにいるとなおのことだ。
「そんな顔ばかりしてると、また青葉に言われるぞ? 皺になるって」
 どうしてそこで青葉の名前が出てくるのか。再び顔を出した黒々とした苛立ちを抑え込むのに、アースは必死になった。だが左手に力がこもるのだけは避けられなかったらしい。かすれた声と同時に嫌な音が聞こえて、慌てて彼はシーツに埋もれた手を見下ろした。折れてるとは思わないがそれでも心配になる。
「アース……痛いんだが」
「ああ、すまない」
「それでアース、いつまでこうしてるつもりなんだ? このままじゃあ眠れないし、かといって起きられもしない。寝て欲しいのか起きて欲しいのかどっちなんだ」
 おそるおそる彼女を視界に入れると、微苦笑する顔が見えた。彼はそっと絡めていた指を解く。すると彼女は確認するように指先を動かし、ついで胸元に手を当てた。
 寝ていても起きていてもかまわないが、彼の望みはただ一つ。しかしそれはおそらく、一生口にできないものだった。望めば彼女は寂しそうに微笑んで無理だと言うだろう。そしてきっと永久に彼の傍へとは戻ってこない。
 彼女がどれだけ彼を必要としていても、その理性が許さないはずだった。それでは今まで彼女が犠牲にしてきた全てが無意味になってしまう。彼女は世界を捨てられない。
「甘えすぎたか?」
 彼が黙りこくっていると、耳を疑うような言葉が飛び込んできた。呆気にとられた彼は片眉を跳ね上げ、再び彼女を真正面から見下ろす。額に触れていた手を離し、彼女はわずかに寂しさを滲ませた瞳を見せた。
「――アースには頼ってばかりな気がする」
「どこがだ!?」
 思わず声を張り上げると彼女は目を丸くした。オリジナルである梅花同様、彼女は他人を頼らなさすぎだ。信用されてないのではと訝しむ程に自分で何もかもやろうとする。
 彼が大きなため息を吐くと、彼女はゆっくりと上体を起こし始めた。仕方なく彼も彼女の上からのけて、またベッドに浅く腰掛ける。横目でちらりとだけ見ると、彼女はおずおずと口を開いた。
「違うのか?」
「どこをどう解釈したらそうなるんだ。お前はもっと甘えていい。だから寝ろ」
 久しぶりの会話だからだろうか? どうも噛み合わない。疲れを覚えて彼がそう言うと、彼女は一種の躊躇の後に彼の袖を引っ張った。外では全く見られないこういう仕草には、いつもどきりとさせられる。内心の動揺を隠して彼が首を傾げると、彼女は軽く目を伏せた。
「また嫌な夢を見そうで、眠りたくない」
 やはり悪い夢を見ていたらしい。彼は顔をしかめると、自由な右手でそっと頭を撫でた。こうしていないとまた何かをしでかしそうで、彼自身も落ち着かない。どんな夢なのか尋ねられない自分にも腹が立った。自らを制御できないというのは情けない。
「なあアース、一つお願いしていいか?」
 するとさらに強く袖を引かれて、彼は即うなずいた。お願いという響きはいい。滅多に聞けないだけにその価値は絶大だ。彼女は一度視線を落とすと、不安を覗かせながら彼を見上げた。
「できたら、でいいんだが。その、抱きしめて欲しいな、とか」
「……は?」
「アースと離れる夢を見たんだ。これが嫌な予感じゃなきゃいいなあとは思うんだが」
 聞き返したくなったのは、今日何度目のことだろうか? 肩の力が抜けるのを感じながら、彼は胸中でその言葉を繰り返した。離れた夢ではなく離れる夢。嫌な予感。彼女が気にかけているのは未来のことだ。過去ではなく。
 答えがすぐ返らなかったためか、それとも夢のことを思い出したのか、乱れた髪を手櫛で整えると彼女は彼に背を向けた。はっとした彼は背後から彼女を抱き寄せる。華奢な体はわずかに強張っただけで、抵抗もなくすっぽりと腕の中に収まった。
「われがお前の傍を離れるわけがないだろう」
「うん」
「まさか、また魔族が動き出してるのか? 何かあるのか?」
 彼女の顔を覗き込もうとしても、伏せられた横顔からわかることはわずかだった。おそらくそれは最近の落ち着きのなさに繋がるだろうに、その端を手繰り寄せることができない。一人で勝手に苛立ち勝手に落ち込んでいた自分が嫌になりながらも、彼は言葉を重ねずに返答を待った。
「五腹心だけじゃない、あいつらも動き出してるんだ」
 淡々と告げられた内容から、読み取れることは少なかった。あいつらとは誰なのか、聞き返すこともできない。予測はつくがそれを確認したくはなかった。説明を求めれば彼女は話してくれるだろうが、それはその傷を広げる結果となってしまう。
 彼女の過去にはいくつもの鎖が巻き付いている。それはいまだに彼女を縛り続け、足枷となっている。振り払ってくれればと思うが、彼女は決してそうはしないだろう。いや、彼自身もその鎖の一部なのだから切られては困るのかもしれない。
「離れるわけがないだろう」
 だから彼はそう繰り返すことしかできなかった。全ての鎖を引きちぎる誘惑に駆られながらも、彼はそれを堪えて目を伏せる。胸中に広がる甘い痛みに、何かが麻痺してしまいそうだった。

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