white minds

「触れる理由」

 普段は誰も通りかからないような細い廊下を、ミケルダは颯爽と駆けた。壁も床も天井も白く覆われた世界で、彼の狐色の髪が軽やかに揺れる。白い衣服もなびく。時間が止まったような静寂を、彼の靴音は切り裂いていた。
 目指すべきものは廊下の先にあった。彼とは違い音一つ立てずに進むその背中からは、振り返る気配すらない。しかしミケルダが近づいていることはわかっているはずだった。周囲へと視線を走らせ再度誰もいないことを確認し、ミケルダはその名を呼ぶ。
「シーさん!」
 嬉しさを隠しきれない声が廊下内に響き渡った。自分でも不思議になる程、そこには切羽詰まった色もあって。ミケルダはようやく振り向いたシリウスの腕に、勢いよく飛びついた。
 よく小さい頃そうしていたようになんの躊躇いもなく抱え込むと、シリウスはあからさまに眉をひそめた。だがこれくらいの視線で動じるようなミケルダではない。たれ目だとよく言われる目尻をさらに下げて、彼は口角を上げた。
「帰ってきたなら言ってくださいよ! 水くさいなー」
「たった今、の話だ。しかもこれからアルティードに会いに行くところなんだが」
「ちょっとそれよりシーさん、シーさん、聞いてくださいよー」
「……私の話は聞かないってことか」
 ミケルダが精一杯目を大きくしてシリウスを見上げると、うろんげな言葉の後にため息が続いた。なんだかんだ言いつつシリウスが優しいのはよく知っている。こんな風にじゃれついたらラウジングには蹴り出されるだろうし、カルマラたちの場合はまずその目前で拳を食らうことになる。
 その点、嫌そうな顔はするもののシリウスは振り払うこともしなかった。ずいぶんと優しい。おそらく今でも子どものように思っているのだろうが。
「ひどいんですよ、最近!」
「何がだ?」
「オレの扱いっ。自由にすると『下』に出入りするからって、ほとんど誰もいないようなところに閉じ込められてるんですよっ。お喋りもできないしつまんないし寂しいしで、ひからびそうで……」
 掴んだ腕をぶらぶらと横に振りながら、ミケルダは必死に近況を訴えた。するとシリウスは曖昧な声を漏らして目を細める。その深い青の瞳に何か理解の光が宿り、やおら頭が傾けられた。
 彼の様から何となく悪戯を見つけられた時のような心境になり、ミケルダはごまかしの照れ笑いを浮かべる。シリウスは何かと見透かすのが得意だ。今まで何度こういったことがあったか。
「だから妙に接触してくるわけか」
「あ、ばれました?」
 ミケルダは頭の後ろを掻きつつ、あははとわざとらしい笑い声を上げた。他の神であれば単に鬱陶しいと突っぱねるだけで終わりだが、シリウスはそうではない。その背後にあるものをすぐさま読み取り対応してくる。それは嬉しいことである一方、怖いことのようにも思えた。隠し事ができない。
「まあ、よくあることだ」
「そうなんすか? オレ、あまり他の人からそんな話聞いたことないんですけど」
「言いたくないから言わないだけだろう。神はもとよりその存在が不安定。他者との接触によりそれを確たるものにしたいという欲求は、揺らぎが強くなれば自然と生じることだ」
 聞き覚えのあるシリウスの説明に、ミケルダは何度か相槌を打った。小さい頃は何を言ってるのかさっぱりわからなかったが、今は身に染みる程に理解できる。
 幼い日そう思わなかったのは、いつも仲間たちの傍にいたからだ。けれども今は違う。皆それぞれの役割を果たすべく各所でその力を発揮している。だから以前のように頻繁には会えず、気安く言葉を交わすことも戯れに触れることもできなかった。
 そんな日々が続くと、疲労が溜まった時ふと何か切迫したものを感じるのだ。それは衝動にも似ていて、しかしもっと根幹的な何かのようで。そのどうしようもない切迫感は内からあらゆるものを浸食していき、仕舞いには力の衰えまで感じるようになる。これが存在が揺らがされるということだと自覚したのは、実は最近のことだった。
「シーさんは――」
「ん?」
「そういうことってないんですか?」
 そう意識するようになった時、湧いて出た疑問があった。シリウス自身のことだ。過去の様子を考えても今の様子を見ても、そういった衝動に駆られそうだとはどうしても思えない。説明してくれるくらいなのだから経験はあるはずなのだが、そのように思えてならなかった。
「そういうシーさんってオレ想像できないんですけど」
「私は人間たちと普段から接触があるからな。最近はまずそういうことはないが」
「ああ、人間って割と気張らずに近づいてきてくれますもんね」
 苦笑混じりに説明するシリウスを見て、納得したミケルダは首を縦に振った。確かに、人間たちと交流があれば話が別だ。
 神々が妙に怯えたがりだったり慎重だったりするのに対して、人間たちは気安いのが特徴だった。だからミケルダも『下』にいる時は特に不安を覚えない。彼の正体を知らない者たちとたわいのない言葉を交わし、活力とすることができた。それは彼にとっては重要な時間だった。そのせいで仕事をしていないと勘違いされることは多々あるが、止められはしない。
 だがそれではシリウスは一度もそういう切迫感を覚えたことがないのか? 触れたいと思ったことはないのか? シリウスの理解した風な説明を思い返して、ミケルダは首を傾げた。シリウスは知ったかぶりをするような者ではないはずなのだが。
「じゃあ、もしかしてそういう経験は一回もないとか?」
「いや、まさか」
「え、ってことはそう感じたことあるんですか!? いつ!? どこで!?」
「ずいぶんと興味を持つな」
 やはりあったのだ。ミケルダが知らないだけなのだ。呆れ顔のシリウスにもめげず、ミケルダは瞳を輝かせた。こんな珍しい話に食いつかないわけがない。
 おそらく誰も聞いていないだろう話だということにも心動かされた。シリウスは聞かれなければ自分からは言わないだろうし、尋ねるだろう者もミケルダの他には思い当たらない。いまだ離していなかった腕をぶんぶん再び振ると、シリウスはため息を吐きつつ明後日の方を向いた。
「別に、そんな大したものじゃない」
「いつですか? 最近?」
「最近……まあ、どちらかと言えば最近だな。妙にこちらの足下を覚束なくさせる奴だった」
 苦笑混じりに言って肩をすくめるシリウスを、ミケルダはまじまじと見上げた。頭を傾けたためか頬にかかった青い髪で、その目元は少しだけ陰って見える。他の何よりも内心を語るその瞳が、ミケルダからはよく見えなかった。
 しかし『気』から複雑な思いを抱えていることはわかった。ミケルダは腕を離すと眉をひそめ、それからポンと手を打つ。
「それって、女性ですか?」
 率直に尋ねながらも、胸の内から妙な感情が吹き出すのをミケルダは自覚した。それが単なる好奇心なのか喜びなのか、はたまた嫉妬の類なのか定かではない。自分がどんな顔しているのかと気にしながらも、ミケルダはシリウスを見つめた。すると一際大きく嘆息してシリウスはうなずく。
「そうだな」
 絞り出すような声が細い廊下に染み入った。照れているようにも戸惑っているようにも見える横顔に、ミケルダはむずがゆさを覚える。この感覚は何だろう? カルマラたちのやりとりを見ている時のようだ。
 こういう時は戯けるに限ると、無理矢理笑顔を作ったミケルダはシリウスの腕を叩いた。こんな光景を他の神に見られたら何を言われるかわからないが、幸い傍にそれらしい気はない。もともと、ここを通る神は少ないのだ。
「シーさんにも、ついに春がっ!」
「ちょっと待て、何故そうなる。そういうのじゃあない」
「いや、きっとそういうのですよ! わーオレ嬉しいなあ。何だか楽しくなってきたなあ。あ、大丈夫です、カールたちには内緒にしておきますから。心配しないでください」
「そういう心配はしてないんだが」
 へらへら笑うミケルダを見て、シリウスは右の口角だけを上げていた。仕方ないと言わんばかりのその言いぐさに満足して、ミケルダは意味のないうなずきを返す。
 誰も見たことがないだろう一面を見られる喜びと、やはりまだまだ知らぬ面があるという寂しさをない交ぜにした何かが、いまだ胸の奥に巣くっていた。だがそこから目を逸らしてミケルダは眼前で拳を握る。妙な決意が彼の内に宿り始めていた。
「オレ、応援してます」
「……もういい。話がそれだけなら私は行くぞ」
 諦念の声音でそう告げると、シリウスは踵を返して歩き始めた。だがその気から嫌悪は感じ取れない。幸いにも、嫌気が差したわけではなさそうだった。
 そのことに安堵しつつ、ミケルダは遠ざかる背中に手を振った。これからアルティードの部屋へと行くのだろう。そして宇宙での事件について話すのだろう。だがそこに、今の件は含まれていないはずだった。
「オレもいつか、その人に会えるといいなあ」
 叶わないだろう願いを呟いてミケルダは笑った。そして帰ったら待っているだろうお小言を思って、少しだけ憂鬱になった。

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