white minds

「赤い薔薇の涙」

「ただいま帰りましたー!」
 そんな陽気な声を聞いたのは、そろそろ夜中になろうかという頃だった。アパートの一室でぼんやりとニュースを見ていたシンは、違和感に眉をひそめながら顔を上げる。
 今の声はローラインだ。だが彼がこんな風に嬉しげに仕事から帰ってきたことは一度もない。酒でも飲んだのだろうかと、短い髪を掻き上げてシンは立ち上がった。何となく冷えるからと着ていた古着のパーカーが、座卓にぶつかり音を立てる。
「ローライン?」
 しかし彼が歩き出すより早く、向かいに座っていたリンが立ち上がった。疑問に思ったのは彼女も同じだったらしい。手近に置いてあった大きめの上着を羽織り、彼女はすぐさま玄関へと駆けていった。いつもそうだ。彼よりも彼女の方が行動が早い。慌てる彼女の背中を、彼もすぐさま追った。
「どうかしたの――」
「何それ!?」
 首を傾げつつ急いだ彼がまず聞いたのは、彼女の喫驚する声だった。しかし疑問に思う暇もなくその理由は一目瞭然となる。花だ。玄関にたたずんだローラインは、両手に溢れんばかりの花を抱えていた。艶のある濃厚な赤い花弁は、薄暗い明かりの下でもその存在を主張している。そしてこの匂い。むせ返るような濃厚な香りが玄関を満たしていた。
「薔薇ですよ」
 花束の横から無理矢理顔を出したローラインは、そう告げてうっとりと双眸を細めた。彼の豊かな金の髪は赤い花と相まっていっそう目映く見える。その姿は子ども向けの本で時折見かける王子とやらを連想するものだが、場所が狭苦しい玄関なだけに台無しだった。
 いや、問題はそこではない。もっと目を向けるべき点がある。シンが我に返って首を横に振ると、それまで目の前で硬直していた彼女の肩がかすかに震えた。乾ききっていない黒髪もその背中で揺れる。
「そうね、薔薇ね」
「ええ、まさかこちらの世界にもあると思ってなかったので。見つけた瞬間買ってきてしまいましたよ」
「ありったけを?」
「そうですね、ありったけです。一輪でももちろん美しいですが、薔薇の花束は格別ですから!」
 これだけローラインが幸せそうに微笑む姿を見たことがあっただろうか? 違法者を取り締まるべく異世界へ派遣されてからというもの、いつもどことなく沈みがちな様子だった。それをシンたちは密かに心配していたものだ。しかし今はどうだ。まるで水を得た魚のようだった。
「そうね、綺麗ね」
「でしょう?」
「でもね、ローライン。ここはアパートなの。わかる? 狭いアパートなの」
「そうですねー。庭付きの家ならば花を植えるところなんですが。ああ、美しくない」
 リンの声に怒りが滲んでいることにさえ、ローラインは気がついていないかのようだった。今までの弱々しい姿はどうしたのかと言いたいくらいに強い、強すぎる。だいたい、その語尾についているものは何なのか。
 彼らは普通なら五人も暮らせないだろう小さなアパートに住んでいた。全ては生活費を浮かせるためだ。『技』を使って無断で異世界へと進入した違法者たちを取り締まるのが、彼ら五人の本来の仕事だった。が、それは日々の生活までまかなってくれるようなものではなく。結果、生活費を稼ぎながらという悲しい状況に陥っている。
 だから広い住居を確保することなど無理で、そのため我慢していることも多いのだが……。
「あのねぇ、ローライン」
「はい?」
「今の状況、わかってる?」
 男だらけの仲間たちで一番苦痛を強いられているのは、おそらく彼女だろう。もちろんそれは彼女の強さあってのことだとは思うが、それにしてもよく我慢しているとシンは感心していた。そうなだけに、今のローラインの一言はまずかった。彼女の纏う気配には明らかに棘がある。
「私たちはこの世界に来て、それで違法者たちを取り締まるのが仕事なの。そのために狭くても我慢してるの」
「ええ、そうですね。美しくない」
「ローラインたちが稼いでくれてる間に、私とシンが任務を遂行する。ここは寝床にだけする。文句は言わない。そう決めたわよね?」
「はい、決めましたね」
 怒りを押し殺した彼女の低い声にも動じず、ローラインは素直にうなずいている。しかしどれもわずかに苛立ちを引き起こすようなものばかりで、はらはらしながらシンは成り行きを見守っていた。一触即発だ。
「じゃあ何でそんな大きな花束を買ってくるの!?」
「何でと言われましても、それは美しかったからですよ」
「それで、どこに飾るつもりなの!?」
「もちろん、わたくしの枕元に。座卓の上では食事が取れません」
「あのねーそれってシンたちの枕元でもあるでしょ!? それにそんな場所なんてないしっ」
「わたくしが小さくなればいいだけの話ですよ」
 悪びれた様子もなく微笑むローラインは、無邪気な子どものようでさえあった。全く何も感じていないらしい。荒い息を吐く彼女とローラインとを交互に見て、シンは何をどう言うべきかと躊躇った。言いたいことは大抵彼女が口にしてくれている。彼が特に付け足すべき言葉は、すぐには見つからなかった。
「小さくなるのはローラインだけじゃあないでしょう? まさか皆に迷惑かける気?」
「この薔薇を見れば皆さん心が癒されるはずです。それくらいは我慢してくださりますよ。何事も代償なしには得られませんよ? リンさん」
 ローラインはそう言い切った。それを耳にした彼女は拳を握ったままがくりと肩の力を落とし、よろめくように壁にもたれかかる。そしてうなだれながらもシンの方を振り返った。今にも泣きそうで、かつ諦念の色を浮かべた双眸だ。こんな彼女の様子は見たことがない。
「シン、駄目。私には無理」
「お前に無理だったらオレには無理だぞ」
「じゃあこれどうするの?」
「……ま、オレたちもしばらく小さくなるしかないだろうな。サツバとか怒りそうだけど」
 大きく肩をすくめたシンは、ローラインの花束へと一瞥をくれた。持って帰ってくる途中恥ずかしくなかったのかとか、それを買うのにいくらかかったのかとか、聞きたいことは山程ある。しかし今は何を言っても無駄なように思えた。今日は給料日でもあるから、ローラインも気持ちが大きくなっているのだろう。そのせいだと思いたい。
「これでしばらく幸せな時間が過ごせます。ああ、美しい!」
「ああ、そう。よかったわね……」
 こんな時は常識のない者の方が強いのか。節度ある生き方をしている者だけが損をするのか。花好きとは聞いていたがまさかここまでだったとはと思いつつ、シンは脱力する彼女の肩を軽く叩いた。
 この花が枯れるまでの辛抱だ。また買ってこようとしたらその時は金銭を理由に止めよう。そう決意しつつため息を吐く彼の前で、ローラインは花束を抱えて回っていた。
 その薔薇がまさか三週間も咲き誇ることになるとは、彼らは予想していなかった。しばらく彼らの部屋は、甘く濃厚な香りに満たされていた。

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