white minds

「溶けゆく氷」

 神技隊らが無世界へと戻ってきてから、一週間以上が過ぎた。魔光弾たちのことなど忘れ平穏を得たかに見える仲間たちを後目に、青葉はあくびをかみ殺す。
 朝の公園は生き物たちの世界だ。名も知らぬ鳥のさえずりに満ちたその場には、彼らの他は誰もいない。時折ランニングをする白髪交じりの男性が通り過ぎていくくらいだった。その小気味よい足音を聞いても虫の音を聞いても、ついつい二度寝をしたくなる。疲れが溜まっているのだろうか。特別車に寄りかかり、青葉は重い瞼を指で持ち上げた。油断するとすぐ目を閉じてしまいたくなる。
 だがもうすぐ通勤通学の人々がやってくる。そろそろのどかな時間は終わりだ。そう彼が思った途端、左手から陽気なようの声が聞こえてきた。それは瞬く間に朝の空気へと溶け込み霧散する。続くサイゾウとアサキの笑い声も、晴天へと吸い込まれていった。
 彼らの機嫌がよいのは、ここ数日売り上げが伸びているからだろう。また『上』からの特別な指令もないため、厄介な仕事もなかった。つまり以前に比べればずっと気楽なのだ。短期間での移動を繰り返す必要もない。それ故、彼らも他の神技隊同様に一般的な違法者の取り締まりを行っている。といっても妙なくらいに違法者たちも静かで、その尻尾を掴まえるのは困難なことだったが。
「いや、違うな」
 青葉は誰にも聞こえないよう口の中でつぶやいた。そもそも、そういった害のない違法者を掴まえるつもりがないのだ。少なくとも違法者の気を探っている梅花に、その気はない。だからなかなか見つからないだけだった。
 彼は重たくなった前髪を掻き上げると、おもむろに右手を見た。そこでは洗濯をし終えたエプロンを広げて、梅花が顔をしかめている。汚れでもついていたのか、それとも皺でもついているのか。深く嘆息しそうな表情だった。こんなにわかりやすく態度に出すのは珍しい。
 しばらく声を掛けずにその様子を見ていると、彼女はしばし動きを止めた。固まったという程ではない。あからさまに不自然ではない。しかし見ていれば気になる程度の間をおいてから、ようやく彼女の手は動き出す。エプロンを軽く畳むとすぐさま踵を返し、特別車へと向かってきた。洗い直しのようだ。
 こういった彼女を見るのは何度目だろうか? やはりレーナのことを気にしているのか? ここ最近の梅花の様子を思い起こし、彼はそう結論づけた。帰ってきたばかりの頃のような落ち着きのなさこそ消えたものの、ふとした瞬間に彼女の動きが止まる。表情を変えずに手だけを止めるということが幾度もあった。何か考えているのか、それとも『気』を探しているのか。それは彼にはわからない。
 だからといって気にしているのかと尋ねることもできず、励ますこともできなかった。もどかしさに奥歯を噛みしめ、彼は眉根を寄せる。近づいてくる彼女の様子はいつもと変わらず、そう努めているのだろうと容易に想像できた。彼女はいつだってそうだ。なかなか表には出さない。
「何か用?」
 不意に目があった。すぐ側まで来た彼女は、軽く首を傾げるとそう問いかけてきた。見ていたことがばれた、ということでもなさそうだが、一瞬どきりとする。何と答えようか。特別車から体を離して、彼はとにかく笑顔を作った。
「いや、どうかしたのかなぁと思って」
「どうか? ああ、これ? 汚れが染みついちゃったみたいなのよね。もう落ちなさそう」
 彼女は手にしていたエプロンへと双眸を向けた。安物で揃えたので仕方ないと言えばそれまでだが、客相手の商売となると気になるところだろう。そろそろ新調すべき時かもしれない。そう考えた瞬間によい案が浮かび、彼は軽く手を叩いた。顔を上げた彼女が不思議そうに瞳を瞬かせる。
「よし、じゃあ買おう」
「え?」
「新しい奴。そろそろ替え時じゃないか? 売り上げの調子もいいことだし問題ないだろう? 大体それは可愛くない」
 彼がそう断言すると、彼女は渋い顔を作った。それでも文句を言ってこないのは今までの成果だ。可愛い恰好をしていた方が売り上げが伸びると、口が酸っぱくなるほど言い続けてきた甲斐があった。彼女は小さく唸りながらエプロンの表面を撫でる。
「確かにそろそろ替えた方がいいかもしれないけど……」
「自分のだけ買うのが気が引けるとか? それならみんな新調すればいいだろ。これからどんどん暑くなるんだし、もっと薄手の方がいいんじゃないか?」
 こういう理屈をひねり出すのは昔から得意だった。よくシンに呆れられたものだ。よどみなく出てくる言葉に内心青葉が複雑に思っていると、そうまで言われたら断れないと判断したのか彼女は苦笑混じりにうなずく。
「わかったわ、じゃあ新調しましょう。……それ、私も行かないと駄目よね?」
 ほんの少し躊躇って、彼女はそう続けた。人混みは苦手だからできれば行きたくないのだろう。しかし買い物の目的が目的なので、そう言い出せないようだ。そこが彼女らしい。彼は大きく首を縦に振り、悪戯っぽく笑った。彼女を連れ出すためなのだから、ここで引くつもりはない。
「そりゃそうだろ。オレに可愛いエプロンとか買わせるつもりか? 一人で行けって言ってるんじゃないんだからいいだろう?」
「別に、そういうつもりじゃないわよ」
 答えてかすかに俯いた彼女を見てから、しまったと彼は胸中で舌打ちした。どうしてそういう理屈しかこねられないのか。一緒に行きたいのだと、単純で純粋な理由を口にできないのか。しかし謝る言葉も思い浮かばず、彼は首の後ろを掻いた。するとゆっくりと彼女は顔を上げる。
「それじゃあアサキたちにそう伝えておくわね。今日はお休みって」
「あ、ああ」
「ついでに布巾とかも買っておきましょう。あれも汚れてきたから」
「お、おう」
 ぎこちない返答をすると、彼女はわずかに微笑んだ。それは本当にかすかな変化で、それでもいつも彼女を見ている彼には笑顔だとはわかる程度で、思わず喉が鳴る。乾いた唇から言葉が放たれることはなく、音にもならない歪な何かが空気を震わせるだけだった。彼がそれ以上何も言えずにいると、彼女はそのまま彼の横を通り過ぎた。軽い靴音が草地に吸い込まれる。
「気のせい、ってことはないよなあ」
 そのまま振り返ることなく彼はつぶやいた。こちらの気持ちに気づかれたとは思わないが、それでも案じていることは理解してくれたのかもしれない。もしこんなことが頻繁に起こるなら、心臓を案ずる必要がありそうだ。彼はそんな妙な不安を抱きながら、細く息を吐き出した。
 当初の目的を忘れかけていることに気づいたのは、それからしばらくしてからだった。



 二人でカフェに入るなんてデートみたいじゃあないか。そんな甘い幻想など振り払うことを、青葉は密かに決意した。注文したアイスコーヒーが運ばれてからというもの、梅花は黙ったままだ。いつも通りの無表情でガラスのコップを見つめる双眸からは、疲労が色濃く滲み出ている。
 この暑さの中で人通りの多い道を歩くことは、彼女にはさぞ苦痛だっただろう。昼間なのに制服を着た若者も多く、予想していたよりも人出があった。しかもこの気温だ。まだまだ夏本番までは日があるというのに、照りつける日差しの強いこと。彼女はジナル出身だというからこういった暑さには弱そうだった。そういう意味では適当なベンチではなくカフェに入ったのは正解だったのだが。
 ――しかし会話が続かない。ストローをくわえてアイスコーヒーを一口飲むと、彼はそっと右手を見た。窓際の席だが、ビルの影に入っているおかげで直接日の光は入り込んでこない。それがせめてもの救いか。時折どこかから聞こえてくる若い女性の談笑が、今日ばかりは耳障りだった。
 氷がグラスにぶつかる音だけが二人の間を満たす。カフェに入ってからまともな会話が成り立ったかどうか。ぎこちないやりとりを思い出したくもなくて、彼はぐっとため息を飲み込んだ。やはり無理矢理連れ出すべきではなかったのか。そっとしておくべきだったか。
 彼が一人後悔していると、コップに伸ばされた彼女の手が止まった。指先だけガラスに触れた状態で、数秒ほど完全に固まる。はっとして彼が彼女を見ると、その眼差しは窓の外へと向けられていた。結ばれた唇には必要以上に力が入っている。
「また考え事か?」
 耐えきれずに彼はそう尋ねた。その言葉は思った以上に無愛想に響いた。少し驚いたように振り返った彼女は、不思議そうに頭を傾ける。だがすぐに問いの意味を理解したのか、自嘲気味な苦笑を浮かべた。そう、こういう点では彼女は察しが早い。だから軽々しく踏み込むつもりはなかったのだ。続ける言葉に悩んだ彼は、そのまま口をつぐむ。
「また、って。青葉はいつも気づいてるのね」
 どこか呆れたようなそれでいて何かを諦めたような声で、彼女はそう言った。どうして気づくのかという点は疑問に思わないのが彼女らしい。彼がなお言葉を紡げずにいると、彼女はやおら首を縦に振った。
「考えてるっていうか、探してるのよ。彼女の気を」
「……レーナの?」
「そう。技使いの気を探してると、つい一緒にね」
 力なく苦笑いすると、梅花はストローに口をつけた。彼はその様子を見つめながら、あの時の彼女とのやりとりを思い出す。レーナは戻ってくるのか? 死んではいないのか? 何もかもがわからないまま、またあやふやな『現実』へと投げ出されてしまった。気に掛けるなという方が無理だろう。
「こんなところでそんなことしても無意味だって、わかってるんだけど」
「でも気になるんだろう?」
「……そうね。これで終わったとは、どうしても思えないのよね」
「だったらいいじゃないか」
 彼はグラスを手に取ると口の端を上げた。何が一番嫌なのかと考えたら、彼女に無理を押しつけることの方だ。心配かけまいと取り繕われたら、ますます彼も不安になってしまう。それならいっそ堂々と悩んで欲しい。
「魔光弾のこともあるんだし、どうせこれで全てが終わりじゃないだろう? また何か起きるんだ。怪しい変化には、気を配ってるくらいの方がいいだろ」
 喉の奥へと流し込んだアイスコーヒーに、今度は少し味を感じることができた。一方、目の前の彼女は呆気にとられたように、大きく眼を見開いている。まさかそう言われるとは思ってなかったのか。彼女にじっと見られていると動悸がしてきて、彼はさりげなく視線を逸らした。後ろの席からさらに甲高い笑い声が聞こえてくる。
「そういうものかしら」
「そういうもんだろ」
 もう少し優しく答えたかったが、投げ遣りな口調にしかならなかった。向かい合った席にしなければよかったと、今さらながらそんなことを思う。彼は再びグラスをテーブルに置くと、彼女の様子を盗み見た。その拍子に溶けた氷がガラスに触れて、小さな音を立てる。
「そうだったらいいわね」
 語りかけるとも独り言とも取れぬつぶやきに、彼は顔を背けたまま何も応えなかった。それでもうなずいた彼女がかすかに浮かべた微笑みを、見逃すことはなかった。

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