white minds

「雄弁な眼差し、物言わぬ唇」

 視線を感じる、という状況は別段珍しいことでもなかった。何かと目を惹きやすい容姿だという自覚はあったし、場にそぐわないことも度々だったので、そういった事態には慣れていた。だがそれが一日中、しかも何日も何日も続くとなれば落ち着かないのも事実ではあって。ため息を吐きそうになるのを堪え、レーナは軽く瞼を伏せるだけに留めた。
 朝から雨が降り続けている。海近い洞窟の中は案外暖かく、風向きのためか冷たい空気が入り込むこともなかった。ただ地を打つ雨音が単調なリズムを奏で、外界との出入りを遮断している。
 いや、正確には、それを阻んでいるのは仲間たちだ。『毒』の件がばれてからというもの、ますます彼らの過保護に拍車がかかっている。地球の現状を確かめるべくあちこち回りたいところなのだが、この天気で出て行くのかと止められてしまった。
 風邪でもひいたら体調不良が悪化する、ということらしい。結界を張れば雨など問題ないのだが、精神の温存という点から考えればやはり言うとおりにしておくのがいいか。仕方なく、朝から彼女はおとなしくしていた。椅子代わりにしている岩に腰掛け、壁にもたれかかり雨をただ眺めている。
 その間も、仲間たちの視線は度々注がれていた。耐えかねてその主へと目を向ければ、それぞれの反応を返すのが面白い。ネオンはたまたま見ていただけだと言わんばかりに何気なく視線を逸らすが、カイキは慌てたように目を背ける。アースは視線を合わせる前に明後日の方を向くが、イレイは目が合うとにこりと微笑んでくれる。それが常だった。
 確かに、この中で彼女は異端だ。長年一緒にいた彼らの中に、突如紛れ込んだ異質な存在だ。しかも何か重大なことを知っているような口ぶりの、曰くありげな女。気になるのも仕方ないことだとは思う。聞きたいことは山ほどある、といった心境だろう。
 冷たい岩壁に体重を預け、彼女は再び雨を眺めた。先ほどから重たげな雲は厚くなるばかりで、いっこうに止む気配がない。そのうち雷でも鳴り出すのではと思うような天候だった。そのせいというわけでもないだろうが、神界の方にも目立った動きはない。宇宙の魔族にも、これといった動きは感じられなかった。そういう意味ではのどかな日だ。
 だが彼女自身はそう呑気な状況でもない。今日はあまり体調がよくないらしく、とにかく体が重い。それに何より先ほどから注がれっぱなしの視線が気になって仕方なかった。今度はアースだ。彼に見られていると思うと、どうにもむずがゆい気分になるから困る。何かしている時ならともかく、そうでない時はなおさらだった。素知らぬ顔で外を眺めていても内心は穏やかではない。
 彼女は静かに彼へと目をやった。しかし今度は視線を外されなかった。やや不機嫌そうな顔をしていた彼は、おもむろに立ち上がると無言のまま近づいてくる。彼女は瞬きをしながら彼を見上げた。
「アース?」
「寒いのか? 顔色悪いぞ」
 目の前で片膝をついた彼の手が、彼女の額へと伸びた。鉢巻の隙間から強引に肌に触れられて、思わず彼女は息を呑む。神や魔族に近い存在の彼女は通常の意味での風邪はひかないのだが、それを説明するには色々と話さなければならない。なので黙ってされるがままにしていると、彼の手がそっと離れた。彼女は首を横に振る。
「いや、寒くない。大丈夫だよ」
「だが青白いぞ」
 そう言われて彼女は眉をひそめた。できるだけ顔にも態度にも出さないようにしていたつもりだったが、何故だかばれているらしい。しかし体調不良の理由には、見られすぎて居たたまれないからというのも含まれているだろう。感情が精神状態に直結し、それが体調にも表れる。そんな厄介な生き物だ。だからどんな場合にもある程度の水準を保つ工夫をしてきたのだが、毒のせいかそれも最近は崩れ気味だった。
「そうかな?」
 頭を傾けると、彼女は薄く微笑んだ。すると顔を覗き込もうとしていた彼の動きが止まり、わずかに視線が泳いだ。一瞬のことだったがこの距離で見逃すはずもなく、彼女はひっそりと固唾を呑む。
 この反応を見たのは何度目だろう? 一度目は気のせいだと思ったし、二度目は偶然だと考えた。でも三度目からは数えるのを止めた。まさかと思う度に胸の奥が痛むから、できる限り意識しないようにしていた。そう、たまたまだ。もしくは彼が女慣れしていないとかそういった理由だろう。きっとそうだ。
「無理はするなよ。また倒れられたら困る」
 それだけを口にしてから、彼はそのまま彼女の左側に座り込んだ。その横顔へと一瞥をくれて、彼女は困ったように微笑む。嬉しい時も泣きたい時も動揺した時も苦しい時もいつだって笑顔。それが彼女の癖なので、ただそうしただけだった。鉢巻の位置を直して、彼女は小さく頷く。
「わかってる」
 言葉少なになるのは、感情を声に出さないためだ。嬉しさと困惑と痛みが混ざり合ったこの何とも言えない思いを、吐き出してしまわないためだった。唇を結ぶと彼女はもう一度外を見る。するとやはり纏わり付くような視線を感じて、胸の奥底にある棘がうずいた。
 気のせいだと思うには回数が多すぎる。偶然で片付けられる範囲ではないし、何より視線の温度が他の三人とは違う。勘違い、思い過ごし、希望的観測。自らへと言い聞かせる言葉もそろそろ尽きてきた。まさかそんなはずがない。そんなわけがない。きっと違う。内心で呟いた数もそろそろ大台に乗るだろう。
 彼女はできるだけ雨音へと意識を向ける。それでも息苦しさに耐えきれず、さりげなく胸元へと右手をやった。もしそうだったらどうしよう。その一言が彼女の内で渦巻いていた。
 あの場所で『再会』した時に巻き込むことを決意した。ずっと避けていたことを決断して、その責任も痛みも全てを抱え込むことを決めた。その結果自責の念で潰されそうになっても、それでもどうにか生き抜くことを誓ったのだ。
 だが、こういう事態は想定していなかった。仲間として認められ、優しくされ心配されるだけでも自嘲の笑みが浮かびそうになるのに、好意まで向けられたらどうなってしまうのか? 何も知らぬ様子で微笑み、はぐらかすことができるのか?
 彼女は襟のあわせをぎゅっと掴み、それから慌てて手を離した。こういう些細な仕草まで見られているのだから、気をつけなければいけない。具合が悪いのかとまた心配をかけてしまう。何を思っても、考えても、いつも通りの『レーナ』でいなければ。
「レーナ」
 静かな洞窟内に彼の声が染み渡る。ゆっくりと振り返った彼女は、やおら小首を傾げた。やはり今の行動がまずかったのか。それでも顔には出さずに不思議そうに微笑むと、伸ばされかけていた彼の手が一瞬止まった。だが沈黙が続くと、意を決したようにそれが頬へと触れてくる。
「無理をするなというのは、我慢しろというのとは違うんだが」
 遠くからカイキのため息が聞こえた。またか、とでも言いたいのか。それも仕方ないだろう。このやりとりは地球へやってきてから何度となく繰り返されたものだ。アースがこれだけ心配するのは異常なことらしいが、その異常が日常へと変わりつつある。確かにこんな謎の星で彼女に倒れられたら困るだろう。そう考えて、彼女はゆっくりと首を縦に振った。
「それもわかってる。……別に我慢してはいないぞ? ほら、動き回ったりしていないし」
「だがまた気を探ってはいるんだろう? そんな青い顔して起きてないで、寝た方がいいと思うんだが」
 彼の言葉に、彼女は素直に頷くことができなかった。寝るというのは彼女にとっては最終手段だ。その間は神の動きも魔族の動きも追えない。いざという時の対処法が限られる今では、非常に危険な行為だった。
 今度はネオンの何か言いたげな吐息が聞こえる。彼が口にしたいことは何となく察せられた。男四人がいる中で女が眠るというのは、どう考えても特殊な状況だ。力のある技使いでも同様だ。人間とは違い転移という手段があるので、神や魔族がそれを気にしていたのを見たことはないが。しかしそんな事情はネオンたちは知らないだろう。
 それに決定的な何かが起きかけた時に、どう反応すべきかという重大な問題がある。別に彼らが何かしてくるとは思わないのだが、万が一の話だ。彼女の具合が悪い時、アースは必要以上に接触してくる。今も頬へと触れた指先がまだ離れていなかった。
「うん、本当に大丈夫だから。心配かけてすまない」
 いつも通り彼女が微笑むと、強くなった雨脚が土を穿つ音が聞こえた。ついでゴロゴロと遠くで重く響くような音がする。顔を上げた彼女は洞窟の外を見た。降り止むどころかますます強くなる雨に、自然と眉根が寄る。このままでは今日一日この空間から出られそうにない。どうしたらこの顔色はよくなるだろうか?
「謝られても困る」
 アースの声に続いて、稲光が灰色の雲を裂いた。ついで聞こえた低く唸るような音に、イレイがうわぁと嫌そうな声を漏らす。しかし彼女は雷の行方に意識を向けることもできず、ゆっくりとアースを見上げた。頬から離れて中途半端な位置で停止した彼の手を横目に、彼女は鼓動が速まっているのを自覚する。
 知らぬ者が聞けば怒っているように聞こえるその声音は、心底案じている時のものだ。彼の気も、それを証明している。どうしてそこまで気に掛けるのかと、問いかけたくても問いかけられずに彼女は閉口した。決定的な言葉が返ってきたら、普通に応えられる自信がない。
 あの日気づいてしまってから今日に至るまで、『彼』への好意はずっと隠してきたというのに。誰を責められるわけでもない現実を受け入れて、この道を選んできたのに。それなのにどうしてこんなことになっているのか。彼の指先を視界の端に入れながら、彼女はまた棘がうずくのを感じる。うまく呼吸ができている気がしなかった。
「心配したくて心配しているだけだ」
「え?」
 息が詰まった。思わず彼の名を囁きそうになって、彼女はそれを飲み込んだ。駄目だ、今は駄目だ。確実にそれは彼女の思いを乗せてしまう。言葉には力がある。思いを込めた言葉は、その思いを強めてしまう。どうにか音になる前に堪えた彼女は、ただ静かに瞳を瞬かせた。どういう意味だと尋ねても墓穴を掘るようで、それも口にできない。
 四人平等に接してきたつもりだったのにと、彼女は今までを振り返った。そういった何かを匂わせるようなことも言ってないし、素振りも見せなかった。できる限りの努力はしてきたはずだ。
 やはり思い過ごしだったに違いないと希望的観測に縋りたくなった時、ゆっくりと下降した彼の手が彼女の左手に触れた。膝の上に置かれていた手の先を掴まえられて、つい体に力が入る。
「そんなに我々は信用できないか? そんなに頼れないか? 限界まで粘られるよりは、その、われは、少しは甘えて欲しいのだが」
 はじめはやんわりと包むように、だが徐々に強くなる手の力に、体ごと捕らえられた気分になった。全身が痛い。信頼していないわけではないのだと、そう声を張り上げたい。彼女は彼の双眸をまじまじと見た。今この瞬間も傷つけているのかもしれないと思うと、ますます息苦しくなる。そういうつもりではないのに。
「それも、無理か?」
「いや――」
 彼女は口を開いた。喉の奥から空気が漏れ、張り裂けそうな吐息となった。続けてほぼ無意識にその名を呼びそうになった時、再び外で雷鳴が轟いた。うひゃーというカイキの間の抜けた声が洞窟内に響く。
「レーナ?」
 アースが首を傾げる。はっと我に返った彼女は、咄嗟に唇を結んだ。今のはまずかった。かなりまずかった。ほとんど告白しているに近い名前の呼び方をするところだった。速まった鼓動が落ち着くのを願いながら、彼女は顔を背けることもできずに押し黙る。強まるばかりの雨音が、今だけはありがたかった。
「ねえ、アース」
 不意に、入り口の方から声が上がった。振り向かなくとも、それがイレイのものであることは明らかだった。アースの眼差しがそちらへ向けられたことにほっとしながら、彼女は握られた手へと一瞥をくれる。
「ひょっとしてアース、口説いてるの?」
 途端、ピシリと空気がひび割れた音を聞いた気がした。ネオンとカイキがほぼ同時に咳き込み、アースの手にますます力が入った。どこを見ていいのかわからなくなった彼女は、仕方なくのろのろとイレイの方を見やる。予想通り子どものように純真な顔で、イレイは不思議そうに首を傾げていた。好奇心に満ちあふれた瞳が妙に眩しく映る。
 他の誰もが聞きたくても聞けないことを尋ねるのがイレイだ。それはわかっていた。わかっていたがここで発揮されるのはさすがに予想外で、彼女は頭を抱えたかった。アースがどんな顔をしているのか、今は確認する勇気がない。
「アースが女の子にそう言うところって、僕見たことないんだけど」
 イレイの隣にいたネオンが、顔を青ざめさせて口を何度も開閉させる。そこからやや離れたところでは、カイキが肩で息をしていた。どうやら変な咳き込み方をしたらしい。彼女はアースがどう返答するのか内心ひやひやしながら、とりあえず困ったような微笑を浮かべておいた。ここで道を過ってはいけない。
「……我々は、仲間なのだろう?」
 アースはそれだけを口にした。それは彼女に問いかけているようにも、またイレイに言い聞かせているようにも聞こえた。だから彼女は何も応えなかった。さらに大きくなる雷鳴に感謝しつつ、離れていく彼の手を横目に安堵の息を吐く。決定的な事態は今日も避けられた。胸を穿つような痛みは増すばかりだったが。
「ありがとう」
 不機嫌な顔で座り直した彼の横顔に向かって、彼女は囁くように言った。それが今の彼女にできる、精一杯のことだった。

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