white minds

「外に続く道」

 重くなった髪の先へ目をやり、梅花はため息を吐いた。ずいぶん長いこと髪を切りに行っていない。あの息苦しくて狭い空間にいると、どうしても多種多様な視線に晒されることになる。だからあそこは彼女にとって苦手な場所の一つだった。できることなら行かずにすませたい。しかしそうやって先送りにしていたらこういう結果になる。さすがに限界だろう。
「困ったな」
 そう考えると、抱えた書類がますます重く感じられた。リューから受け取ったこの膨大な紙の束は、どう考えても十歳の少女が持つにしては多すぎた。今にも腕からこぼれんばかりで、歩くのにも気を遣う。廊下を行き交う人々の足取りは相変わらず忙しなくて、ぶつからないようにと進むのは骨が折れることだった。
 この宮殿という場所では、皆が皆生き急いでいる。体中に絡みつく見えない糸を引きちぎるにはそれしか方法がないとでも言いたげに、誰もが日々を仕事に追われて過ごしていた。白い廊下に響く靴音の硬い共鳴が、忙しなさに拍車をかける。
「梅花ちゃん」
 すると不意に、腕の重みがなくなった。何の前触れもなかった。頭上から降りかかった声の主を見上げると、そこには紙束を抱えたミケルダの姿がある。やや目尻の垂れた人なつっこい笑顔の彼は、この宮殿では有名な男の一人だ。彼女に気づかれることなく近づくことができる、数少ない者の一人でもある。
「ミケルダさん」
「梅花ちゃんにこんな物持たせるなんて、悪い大人だなー」
「リューさんですけど」
「あ、そうなの? 女同士は厳しいねぇ。オレなら絶対そんなことさせないのに」
「女も何も関係ないですよ、ここなら。ミケルダさんが特別なだけでしょう? 女の子には甘いんですから」
 空っぽになった手を見下ろしてから、梅花は肩をすくめた。ミケルダは『技使い』の子どもたちの面倒を見るという役割を担っているため、彼に世話になった者は多い。しかし彼にはもう一つの側面――女好きという問題があった。その二つの要素のために、有名人でありながらも友人が少ないというのが彼の特長だ。もっとも、彼に近づく者が少ないのにはもう一つ理由がある。
「誰でもいいってわけじゃないよ、梅花ちゃん。オレだって選んでるんだから」
「そうですか」
 紙束を返してくれる気配がないので、仕方なく梅花はまた歩き出した。廊下で立ち止まっていたため、先ほどから「邪魔だ」と言わんばかりな周囲の視線が痛い。あからさまに舌打ちをしてこないのはミケルダがいるからだろう。ミケルダは『上』の者だ。
「つれないな、梅花ちゃんは」
「子どもに愛想笑いなんて求めないでくださいね」
「笑った方が可愛いよ。それに梅花ちゃん、もう結構大きくなったじゃない。あんなに小さかったのにー」
 横に並んだミケルダが、過去を思い出すようにうっとりと目を細める。何年も何年も前からずっと変わらないその横顔を、梅花は一瞥した。
 梅花が生まれた時のことさえ、ミケルダにとってはついこの間のことなのだろう。ミケルダは上の者だ。つまり人ではない。梅花が生まれる前も、その何十年も前も、彼は今と同じ姿でこの宮殿にいたという。だからここに長くいる者であれば、彼が人間でないことを知っている。しかしそれを口にしないのが『暗黙の了解』だから、誰も何も言わずに暮らしていた。
 しかし不用意に近づきはしない。それがここに暮らす者たちの一般的な態度だった。『上』への問いかけを禁じられ続けた者たちの、体に染み着いた規則。ここで平穏に生きていくためのささやかな知恵。
「そうだ梅花ちゃん、デートしよう」
 唐突に、ミケルダは言い出した。それがあまりに予想外のことだったもので、梅花は思わず立ち止まった。聞き間違いであればいいと願うが、周囲の大人たちの奇怪な視線から判断するに、現実のことらしい。数歩前方で立ち止まり振り返ったミケルダは、不思議そうに首を傾げた。
「どうかしたの? 梅花ちゃん」
「ミケルダさん、今のはあんまりだと思います。いくらミケルダさんでも今のは……。また他の上の人たちに叱られますよ?」
「またって、ひどいなー梅花ちゃん。オレはそんなに叱られてないって」
 眉尻を下げたミケルダは、何故驚かれたのか心底理解していないようだ。仕方がない、彼は上の者なのだから。同じような姿で同じように生活していても、その根本にある考え方が違う。常識が違う。十年など、彼にとっては誤差の範囲内に違いなかった。
「怒った? 言い方が悪かったよー、ごめんごめん。実はさ、ちょっとオレ外の用事を頼まれたんだよね。それで、どうせなら梅花ちゃんも連れて行っちゃおうかなーと思って。梅花ちゃん、まだ外回りの仕事はしたことないでしょう? いい機会だと思って」
 手をひらひらとさせながらミケルダはそう続けた。それなら話はわかると、梅花は相槌を打つ。重たげな黒髪が腰の辺りで揺れ、飾り気のないスカートに触れた。
「こことは全然別の、外の世界を見てこよう? せっかく実力試験通ったんだしさ」
「……ミケルダさん、あの試験で私を落とす気なかったでしょう? やる気なさ過ぎでしたよ」
「だって梅花ちゃんの実力が十分なのは、オレが一番よく知ってるもの。あんなとこで試す意味なんてないよ。本当ならもっと早くに試験受けてもよかったんだけど、そんなちっちゃいうちから仕事増えたら大変だからさ。だから試験なんて形式、形式」
 ミケルダは歯を見せて笑った。炎を、水を、風を、思いのまま自由に操ることのできる『技』と呼ばれるものは、誰にでも使えるわけではない。使える者であれば物心がつけば自然と身につけるが、そうでなければ一生縁がないものだった。だからといって遺伝が関係しているわけでもなく。使用できる技の強さも何もかもが、法則を見いだせないでたらめなものだった。梅花はそんな技使いの一人だ。
 この宮殿では、技使いであれば多くの仕事が回ってくる。仕事をこなすことさえできれば、年齢も関係ない。実力試験に合格した者であれば、宮殿の外の仕事もできた。梅花は先日、その試験に合格したばかりだ。だがまだ外の仕事を与えられてはいない。さすがに幼すぎて、外の人間の目に触れさせるのは憚られるということなのだろう。宮殿の外では、ここの者たちも少しは体面を気にする。
「でも私を勝手に連れて行って大丈夫なんですか?」
 急ぎ足の人々を横目に、梅花は小首を傾げた。ミケルダがやりたい放題なのは以前からのことだが、それでも行きすぎるとお小言が待っている。それはミケルダの大嫌いなものだった。
「大丈夫大丈夫。梅花ちゃんがいた方が助かる仕事だし。だからさ、たまには美味しいものでも食べてこよう? 梅花ちゃんってば、最近食欲ないでしょう?」
 ミケルダは微笑みながら器用に片目を瞑る。気を遣ってくれているというのは、梅花も薄々気づいていた。この息苦しい宮殿の中で、彼女のことを考えようとしてくれる数少ない大人の一人だ。腫れ物のように扱いながらも、その力を利用してきた他の者たちとは違う。
 だが何故そこまで気にかけてくれるのかと、彼女は問いかけたことがなかった。尋ねない方がいい気がしていた。もっとも、率直に聞いたところで彼は適当にはぐらかすのだろう。そういう性格だ。
「わかりました、その仕事を引き受けます。リューさんに伝えなきゃいけないので、日付を教えてください」
「日付? 明日明日」
「明日っ!? 急ですね。……ミケルダさんったらいつもそうなんですから」
「今日じゃなくてまだよかったでしょう? 明日の朝迎えにいくよ。部屋の前で待ってて。あ、おめかししてくれると嬉しいなぁ。ほら、デートだから」
「私によそ行きの服がないことはわかってますよね? ミケルダさんなら」
 梅花は半眼になるとため息を吐いた。彼女と血の繋がった者はここにはいない。保護者と呼べるような人も、少なくともこの宮殿には存在していない。大人の加護が限りなく薄い彼女は、ろくに服を持っていなかった。おめかしなどできるはずもない。
「残念。じゃあ今回のお給料で買おうか」
「え、お給料出るんですか? だったら私は外で髪を切りたいです」
 咄嗟に本音を言ってしまって赤面し、梅花は俯いた。腰まで伸びた髪の先を指先で摘むと、わずかに息苦しさを覚える。敵意と悪意と一種の畏怖が混じり合った視線に晒されない世界で、少しでも身軽になりたかった。子どもらしからぬ醒めた神童などと呼ばれずにすむ場所に、少しでも長くいたかった。この感情は、きっとミケルダにも伝わってしまっただろう。また心配をかけてしまう。
「そっか。じゃあついでに切ってこようか。長いのも似合うけど、短くしてもきっと可愛いよ」
 ミケルダの瞳が細くなるのを気づかない振りして、梅花は小さく頷いた。重たげに揺れる黒髪が、いっそう煩わしく感じられた。

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