white minds

第十八章 追い求めるもの‐10

 聞き慣れた足音に、アルティードは足を止めた。長い前髪をかきやり、彼は振り向く。
「どうかしたのか? ケイル」
 彼が問いかけると、ケイルは歩みを止めて苦笑いを浮かべた。ずり落ちそうになる鼻眼鏡に指をかけて、ケイルは首を横に振る。
「いや、大したことじゃない。気張ってるな、アルティード」
 今度はアルティードが苦笑する番だった。そのかすかな笑い声が、長い廊下に響く。
「気張っている? そうかもな。何か起こりやしないかと、気をもみすぎてるな」
「……仕方あるまい。シリウスは、いつ戻るのだ?」
「明日の早朝だ」
 ケイルは眉をひそめた。その理由を察して、アルティードはまた苦笑する。
「あいつの希望だ。神技隊には何も言わずに出ていく気らしい。気負わせたくないんだろうな、たぶん」
 アルティードがそう説明すると、ますますケイルは顔をしかめた。一時、その白い廊下に静寂が訪れる。誰かが近づく気配も、音もしない。
「あいつが気を遣うのか? 人間に?」
「人間だから余計にな」
 アルティードは目を細めた。
 この目の前の男には、シリウスの苦悩は伝わっていないのだろうか? 人間を見つめるときの、あの、悲痛な瞳を知らないのだろうか?
 そう思うと、アルティードはひどく苛立たしかった。気持ちを察することができないケイルにも、そしてそれを伝えきれない自分にも。
「ケイル」
 アルティードは静かにその名を呼ぶ。
「これは、我々の戦いだ。だが――――」
 彼は鋭い視線をケイルに向けた。見慣れた顔であるはずなのに、そのあまりのすごみに、ケイルは言葉を失う。
「我々の敗北は、我々だけの敗北を意味しない。我々が負ければ、ここの人間は死に絶える。巻き込んでいるのだ、人間たちを。だから全力をかけなければならない。そしてだからこそ力を借りるのだ、彼ら――神技隊に」
 アルティードの声は重かった。
 そう、だからどんなに胸が痛もうとも、彼らの力を借りなければならない。そうすることで少しでも望みが繋げるなら、少しでも可能性が開けるなら、我々はその手段を放棄してはならない。
 彼は自らに言い聞かせる。
「ケイル。シリウスはその重みを一番よく理解している神だ」
 紡がれる言葉が、自分自身すら突き刺しているのを、アルティードは感じていた。わかっていたが止めることはできなかった。
「そのことをよく心しておいてくれ。でなければあいつは、潰れてしまう」
 そう言ってからアルティードはふっと表情をゆるめた。その急な変化に、ケイルは首を傾げる。
「アルティード?」
「いや、ちょっとな。今は、大丈夫か。彼女がいるから」
 アルティードはつぶやくように言うと、どこへともなく目を向けた。思いをはせるかのように。
 戦いはこれからだ。だが、ほんの一時でも……。
 彼はゆっくり目を閉じた。大切な者たちに、安らぎが訪れるよう祈りながら。
 時の流れに祈りながら。




 開いた窓からは、肌寒い風が流れ込んできていた。ようやく日が昇ったところ。鳥のさえずりもかすかにだが聞こえる。
 そんな中、レーナは窓から外を眺めていた。風にあおられてその黒く長い髪が空を踊っている。
「もう行く時間か?」
 振り向きもせず、彼女は尋ねた。
「よくわかったな」
 彼女の後ろで、そう声がする。声と同時に、青い髪を緩く束ねた長身の男が姿を現した。彼――シリウスは、苦笑しながら手近な椅子に手をかける。
「それはこっちのセリフ。われがここにいるって、よくわかったな」
 そこでようやく、彼女は振り向いた。いつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべて、彼女は小首を傾げる。
「会議室。しかもこんなちっぽけな。気は隠してたのになー?」
「本気でじゃないだろ?」
「そりゃ疲れるからな。ってお前も同類だろ? 中途半端に隠すのはさ」
 レーナはそう言ってくすくす笑った。
 意味のない会話だった。お互い、何故相手がここにいるのか、そんなことはわかっているから。わかっていてふざけ合うのは、それは一種の戯れだろうか?
 シリウスも笑いながら、椅子の背に寄りかかる。
「さすがに、もう行かなければならない」
 彼は微笑みながらそう告げた。彼女は静かにうなずく。
「宇宙での動きが活発になってきているからな。危険なのは、ここだけじゃあない」
「そりゃそうだ。お前には、宇宙で頑張ってもらわなきゃな」
 風になびく髪に手をやって、彼女は微笑した。逆光で透けた髪は、かすかにわかる程度に紫色に輝いている。
 しばし、言葉が途切れた。
 お互い微笑み合ったまま、だが口を開かない。不思議な静けさがその部屋を包み込んだ。目で話しているような、否、何かを探り合うようにただ向き合う二人は、まるで絵の一部だった。時が止まったようにすら感じられる。
 その静寂を先に破ったのはレーナだった。
「われは、あれから変わっていないか?」
 シリウスは一瞬言葉に詰まった。その問いが何を求めているのかを考え、しかしわからず、彼は正直に述べることにする。
「少なくとも、私からはそうは見えないが」
 彼の答えを聞き、彼女は安堵したように息をつくと窓枠に手を載せた。そして、やはり微笑する。
「なら大丈夫だな。お前が気づかないのなら、他の奴らは気がつかないだろう。後は、オリジナルとアースに勘づかれないようにするだけ」
「……」
 彼は何も言うことができなかった。穏やかで、けれど悲しい彼女の横顔を見つめながら、彼は唇をかみしめる。無力さが一気に彼を襲った。
「大丈夫だよ。われはここを守る。守り抜く。だから、お前は心配せずに、宇宙へ行け」
「本当にか? お前は……」
「おいおい、われを誰だと思ってるんだ?」
 彼女はくすくすと笑った。人差し指を唇に当てて、そしてその指を軽く突き出す。
「われはレーナだ。それ以外の誰でもなく」
 な、と付け足して彼女は小首を傾げた。揺れる前髪がふわりとその頬にかかる。彼は目を細める。
「……何かあったのか?」
「何もないわけはない。色々ある。それはお前だってわかるだろう? これだけ生きてて、何もないわけはない」
「……」
 シリウスは再び黙り込んだ。思わず眉根を寄せていたことに気づき、彼は内心舌打ちをする。自分が困らせてはいけないはずなのにと思うと、彼は自分の不甲斐なさを責めずにはいられなかった。
「大丈夫だよ」
 そんな彼の心中に気がついているのだろうか?
 ふわりと音がしそうな微笑みを、彼女は浮かべた。それからゆっくり歩を進め、彼の前で立ち止まる。そして不意に彼の額に手を当て、その目をのぞき込んだ。
「ありがとう。でもそんなに心配しなくとも、われは平気だ」
 間近で見る彼女の瞳はあまりに澄んでいて、そして悲しげで、彼は言葉を失った。しかし彼女は何事もなかったかのようにそこを離れ、ドアまで行くと、肩越しに振り返る。
「じゃあな。また、次に会う時まで」
 彼女はいつものように微笑んだ。シリウスは、その背中がドアの向こうに消えるのを黙って見送る。
「愛情の……ばら売りか……」
 彼はそうつぶやき、苦笑した。
 鳥のさえずりと風の音だけが、その部屋を満たしていた。

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