white minds

第二十四章 切れない鎖‐8

 まだ雪の残る谷に四人は対峙していた。
 灰色の半球を背にしたアスファルトは、風に髪を揺らしながらただユズを見据えている。静かなその黒い瞳には、唇を噛みしめる彼女の姿が映っていた。今にも泣きそうな、それでいて何かを決意した彼女の顔を、彼はよく見知っている。だから何も言えなかったし、言わなかった。ただその場に黙していた。谷間を吹き抜ける強い風が彼の白衣をはためかせ、その深緑の髪を何度もなでつけていく。
 そんな彼の後ろには輝慎弾が控えていた。いつもの柔和さはなく嫌悪をたたえた表情で、彼はユズをにらみつけている。その彼の左隣にはフェウスが立っていた。額にしわを寄せて沈黙するフェウスは、ユズに注意を払いつつ時折アスファルトを一瞥している。うかがうようなその横顔には明らかな不満が見て取れた。不本意な参戦なのだろう。
 何とも言い得ぬ静寂が辺りを支配していた。気配だけが異様な程に張りつめて、全ての感覚を追いつめている。湿った雪が崩れる音、風の声のみが耳には届いていた。
 ユズが、ゆっくりと息を吐く。
「それを、こんな場所に残しておくわけにはいかないわ」
 そう告げる彼女の声が戦闘開始の合図となった。白い地面を蹴り上げて跳躍した彼女は、手のひらに光を生み出す。それは球形を型どり、灰色の簡素な基地へと向かっていった。それには輝慎弾が反応し、瞬時に結界を張る。
「アスファルト、まさかこいつも殺すななどとは言わないだろうな? 私は手加減しない」
 そう言い捨ててフェウスがその巨体を駆った。右手に握った短剣を振りかざし、彼はユズを狙う。俊敏に繰り出される剣を、彼女は紙一重でかわし続けた。最小限の動きでもってかわすその様は、一見優雅ですらある。
「私がいるのを忘れないでください!」
 輝慎弾が彼女の背後を取った。その手から青白い光の矢が生まれ、放たれる。その気配を感じて、ユズはとっさにそれを左腕で防いだ。鈍い痛みが走り、彼女の表情に曇りが生じる。
 精神系……なかなかやっかいね。
 彼女は一旦大きく飛び上がった。アスファルトに大した動きはないものの、二対一でも十分に不利だ。どうしたものかと彼女は思案する。
 その時、別の『気』が突然輝慎弾の前に現れた。慌てて飛び退く彼の髪を数本、白い刃が切り落としていく。
「レーナっ!」
 ユズの声が上空から降りかかった。名を呼ばれたレーナはもう一度輝慎弾に斬りかかると、そのまま音もなく跳躍する。空中で視線をかわしたユズとレーナは、かすかにうなずきあった。互いの意図を読みとるのには、それだけで十分だ。
「輝慎、二人を何とか足止めしておいてくれ。私は準備を急ぐ」
 戦況を見据えたアスファルトは、真顔でとんでもないことをさらりと言いつけ、妙な灰色の半球へと入っていった。輝慎弾はその後ろ姿を一瞥して嘆息すると、構えるフェウスにも一瞬視線をやる。
「あーあの馬鹿……本当どうしようもないんだから」
 ユズは小さく舌打ちし、輝慎弾めがけて降下した。もうじき魔族の大軍がまた押し寄せてくる。その気配を感じているからこそ彼女は焦っていた。たとえ下級魔族であっても、数があれば時間稼ぎにはなる。
 神技隊と魔族、どちらが先に到着するか――。
 右手に白い光球を生み出し、ユズは祈るよう目を細めた。そして、構える輝慎弾の目の間に降り立つと迷わずそれを近距離で放つ。
 かろうじてそれをかわす輝慎弾。だがそれだけでユズの攻撃は終わらない。一歩後ろへ飛びながら、彼女は次々と透明な矢を放つ。とにかく今は隙をうかがって、あの妙な基地に飛び込むのが先決だ。壊すのならばたやすいのだから。
 刹那、彼女の願いも虚しく大空に幾つもの気が突如出現した。
 少なくとも五十近くはいるだろう。数は以前と比べれば少ない方だが、しかし目的が時間稼ぎとなれば十分である。
「ユズ、気にするなっ!」
 芯の通ったレーナの声が響き渡った。フェウスの短剣をひらりとかわしながら、彼女は上空の様子に気を配っている。疾風のごとく降りてくる魔族たちの姿は、青い空に黒い染みを幾つも付けていた。その染みはどんどん大きくなり、ついには各々の姿が確認できるようになる。
 だが彼女に焦燥の色はなかった。すぐそこまで迫っている気を感じ取っていたから。
「レーナ!」
 その気の持ち主の、張りつめた声が彼女の耳に届いた。不敵な笑いの中にうっすらと安堵の笑みを混ぜて、彼女は目だけで彼を見る。
「アース」
 彼女が発したのは彼の名前だけだった。アースはフェウスを牽制しつつ彼女の傍らによると、静かに剣を構える。
「ユズ、ほらな、大丈夫だから」
 言い聞かせるような声が放たれた。輝慎弾の光球を右にそれてかわし、ユズは微笑みながらうなずく。互いに視界には入っていないが、気配だけでそれは伝わってきた。
 大きな安堵感が。
「神技隊もほら、そこまで来ている」
 だから行けと告げるレーナに、答えるようにユズは走り出した。上空から一斉に放たれた攻撃が、レーナのものらしい結界に弾かれ音を立てる。だがユズは振り返らず輝慎弾をめがけて右手をつきだした。白い光の柱が、そこから放たれた。

 戦場は時間とともに物々しくなっていった。
 何とか輝慎弾の脇を通り抜けたユズの前に、名も知らぬ魔族が数人立ちはだかる。そして彼らに手こずっているうちにまた輝慎弾の攻撃が襲いかかる。
 故にユズはなかなか基地への侵入を果たせないでいた。その間にも灰色の半球は少しずつだが形を変えている。着々と準備は進んでいると、そう考えていいだろう。
 彼女の後方ではレーナとアースが下級魔族を潰していた。だがやはり数の多さを考えれば有利とは言えないし、加えてフェウスの力は五腹心に次ぐものである。どう考えても二人は劣勢だった。
 だが――――
「アース、レーナ!」
 叫び声とともにようやく増援は現れる。神技隊のうち十人の姿が、彼らの視界に入った。小柄な魔族に一撃、蹴りをお見舞いしたアースが、口の端を上げる。
「遅いっ」
 駆け込んできた滝たちに、アースはそう声を張り上げた。だがその理由はおそらく、レーナが疲れるだろう、とかそんなものに違いない。そう頭の隅で思って微苦笑しながら、滝は剣を引き抜き構える。
「こいつらをユズに近寄らせるなよ。そしてもし隙があったらあの基地に飛び込め」
 アースの背後に降り立って、レーナが凛とした声音で言った。やはり山間の気温はまだ低く、彼女の吐く息もやや白んでいる。滝たちはうなずき、迫り来る魔族に向かって一斉に走り出した。その背中を見据えながら、彼女は小さく口の中で言葉を転がす。
「なるほど、この十人なわけだな」
 滝とレンカ、ジュリとよつきは予想済み。ホシワとミツバ、シンとリンは予想範囲内。そしてアサキとようはバランスを考えてのことだろうと彼女は踏んだ。
 少し……やっかいだな。
 背後から迫る魔族の腕を白い刃で切り落とし、彼女は内心独りごちる。何だか胸騒ぎがした。嫌な、予感がした。その理由を求めて彼女は視線をさまよわせたが、答えはすぐに見つかった。シンが来たからだと、彼女はすぐに理解した。魔族を斬り捨てながら進む彼の姿は頼もしくあるが、今回ばかりは嫌な予感の方が先に立つ。だがこの状況で帰れというのもまた、怪しまれる一因となる。彼女は眉根を寄せながら戦況の行く末に心をはせた。
 任せるしかないか、時の流れに。
 ぶつかり合った光球があちこちで、爆音を発していた。



 輝慎弾の脇をすり抜けて、ユズは地を蹴った。強すぎる風が彼女の髪を、衣服を激しく揺らす。半球の物体であった灰色の基地は、今はなだらかな屋根のついた四角い建物となっていた。完成間近なのだろうと判断し、彼女は中へ飛び込もうとする。
 ――――!
 刹那、とっさの判断で彼女は体を右にひねった。彼女の頬を、炎の龍がかすめていく。
「アスファルト――!」
 黒く開いた入り口から姿を現したのは、アスファルトだった。手のひらを前に掲げて悠然と歩く姿は威厳すら感じられる。彼女は唇を噛みしめた。
「一歩遅かったな」
 何の感情もこもらない声で、彼は告げた。その真意が見えてこない。心の神であるユズにも、彼の思いは見えなかった。つま先から頭の天辺へ抜けていく言い得ぬ情動が、彼女の体を凍り付かせる。
 寒いと。ひどく寒いと彼女は感じた。体中を駆けめぐる血が、その冷たさに淀みを生じている。
「ユズっ」
 彼のはっとした声に反応して、彼女は身を翻した。背後から突き出された短剣をかろうじて避ける形となり、彼女は目を見開く。一撃をはずし小さく舌打ちしたフェウスは、ユズから大きく距離を取った。彼の重みで潰された雪が、ぐちゃりと悲鳴を上げる。
「まさかアスファルト、殺すななどとは言わないだろうな?」
 同じ言葉を、フェウスは繰り返した。ぎらりとした視線がアスファルトを射抜き、その体から放たれる気が燃え始める。脅しとも取れるその言葉を噛みしめて、アスファルトは動き出した。再び真っ赤な炎竜が首をもたげ、ユズへと襲いかかる。
「ユズさん!」
 声が、した。ユズは反射的に、来てはだめと、そう叫びそうになった。しかしそれは音にならず、願いも虚しく、声の主はアスファルトに斬りかかる。
「シン――――!」
 抑えきれない感情のまま、彼女は彼の名前を叫んだ。そして襲い来る炎竜を飛んで避けて、相見えた二人を凝視する。彼女の目に飛び込んできたのは、見たくもない光景だった。
 アスファルトはシンの剣をわずかな動きでかわし、右手に炎の刃を生み出す。白に包まれた世界に浮かんだ紅色の、優雅に揺らめく刃を、アスファルトはシンに突きつけた。シンはそれを自らの剣で受け止める。
 こんなことって……。
 彼女は今すぐそこへ飛び込みたかったが、しかしそれは叶わなかった。巨体を駆ったフェウスの短剣が迫り、彼女はそれを舞うように飛んでやり過ごす。
 でも止めなくては。何としてでも、止めなくては。
 いくらなんでも、これは、ひどすぎる。
 視界の端に映ったのは、雪の上に膝をつくシンの背中。そして揺らめく刃を振りかざそうとするアスファルトの姿。
 体の内側から突き動かす何かに、彼女は従った。精神の無駄遣いだとわかりながら、瞬時に移動する。
 二人の間へと。
「アスファルトっ!」
 炎の刃を右手に捉えて、ユズはかすれた声を上げた。ただ呆然とするシンの視線を背中に受け、彼女は震える腕に力を込める。
 遠くの爆音すら、静寂の一部だった。ぽっかりと抜き出された空間に放り込まれたような、そんな錯覚がした。アスファルトは目を見開き、彼女を凝視している。
 彼女の手のひらから鮮血がしたたり、雪面に染みを作った。辺りに広がるのは焦げ付いた、血の臭い。
「お願いだから、それ以上は何も望まないから、息子を手にかけないで」
 息とともに吐き出された言葉は切なく、甘く、だがどこか辛辣に彼の胸に響いた。時が止まる。浮き上がった空間の中で、動きという動きが消える。
「……え?」
 その中で最初に声を発したのはシンだった。呆けた顔で、ただただ目を皿のようにして必死に事態を理解しようとする彼は、小さく首を傾げている。それを契機にアスファルトの顔にも変化が訪れた。何かを理解したように目を細めながら、彼は困ったように微苦笑する。
「そのままでいろアスファルトっ!」
 そこへ異変の中にもチャンスをかぎつけ、フェウスが大地を疾走してきた。だが彼の剣は目的を果たすことなく結界に阻まれる。
「シン、ユズさん! 大丈夫ですか!」
 結界を張ったのはリンだった。黒い髪を空に舞わせながら、彼女はひらりとフェウスの前に立ちふさがる。ともすれば圧倒されそうになる気に耐えて、彼女は両手を前につきだしていた。その目に宿るのは強さの証。意思と力に溢れた静かな輝き。ユズは彼女の勇気に感謝しながら、痺れかけた手のひらにさらに力を込める。
 不意にアスファルトが刀を空に返し、飛びすさった。彼は白衣をはためかせ、灰色の基地の中へと身を滑り込ませる。
「アスファルト!」
「どこへ行くアスファルト!?」
 顔をゆがめるユズと、怒りにまなじりを上げるフェウスの声が重なった。アスファルトはフェウスにのみ視線をやって、小馬鹿にした顔で口を開く。
「今は拠点を守る方が重要だろう? ロックをかければこれは安全だ。さっさとあの下っ端を下がらせろ」
 フェウスに反論の隙を与えず、黒く開いた入り口は瞬く間に消え、灰色の扉が全てを拒絶した。基地がロックされた気配を感じると、ユズは気怠げに息を吐きながら血の滴る右手を左手で包み込む。
「この、腐れ魔族がっ」
 吐き捨てるようにしてフェウスは雪を蹴り上げ、空へと飛んだ。その様子に気づき、アースに足止めされていた輝慎弾が驚いた顔でフェウスを見上げている。
「撤退だ」
 フェウスが告げた一言は、それだけだった。
 彼の姿が空に溶け込んでいくのを、ぼんやりとした心地でユズは見送った。

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