white minds

第二十五章 黒き刃‐1

 簡易基地内にもうけられた異空間へと繋がる扉。そこを通り抜ければ辿り着く場所は魔族界の辺境だった。広がるのは茶色くすすけた大地にどんよりと曇った空。いつからこんな風景になったのだろうと思い返しながら、アスファルトはゆっくりと自分の研究所を目指す。飛んでいけば早いのだが今は気が重かった。仕方なく煙の巻き上がる地を踏みしめていく。
「お帰り、アスファルト」
 しばらく進むと、背後からねとりとした声がかかった。体にまとわりつく悪意のようなものを感じ取りながら、アスファルトは振り返る。
 予想通り、そこにいたのはブラストだった。この風景に溶け込まぬ黄色い衣服はやけに目立っており、またその妖艶に光る灰色の瞳は、今はいたずらっぽく細められている。アスファルトは口の端を上げた。
「何か用か? ブラスト」
 さっさと帰れと暗に告げる口調でアスファルトは尋ねた。ブラストはそれに気分を害した様子もなく、ただ怪しく微笑みながらアスファルトの側による。無意識に後退するアスファルトの腕を捕らえ、彼は頭を傾けた。
「僕がせっかく迎えに来てあげてるっていうのに、その態度はないんじゃないの?」
「ただ親切で迎えに来てるんじゃないだろう、お前は。用件は何だ?」
 二人の視線が混じり合い、静かな戦いが繰り広げられる。心の底をじわじわと浸食される感覚に耐えながら、アスファルトは唇を結んだ。腕を振り払いたいが、その隙すらブラストにはない。
「フェウスから聞き出したよ、君の不可思議な行動。君が殺さなかった技使い、何者だか言ってくれるよね?」
 どくりと、心臓が鳴るのをアスファルトは感じた。だがそれを悟られてはならなかった。眉根を寄せて怪訝そうにし、彼は吐き捨てる。
「ああ、あの馬鹿がかばった人間のことか。何者? そんなの私が知っているわけないだろう」
 憮然と言い放つアスファルトの瞳を、ブラストはのぞき込む。下から見上げているというのに、ブラストの目には見下す色が映っていた。乾いた土を風が巻き上げ、二人を取り巻いていく。
「それで僕が騙されると思う? 君の彼女さんは君に何か言ってたみたいだって。フェウスが悪態ついてたよ」
 あのお喋りが、とアスファルトはフェウスのことを心中でなじった。だが時既に遅い。ブラストは勘づいているのだ、その者が彼にとって大切なものの一つであると。
「君が執着するのは君が側に置きたいと思う者たちだけだって、僕だってそれくらいは知っているよ? 傷つけるのを君がためらうのは、大切な者たちだけだって」
 君は彼が何者か知っているはずだよ、とブラストは付け加えた。ごまかせるはずなどなかった。間近にある灰色の瞳は妖しく光り、今にもアスファルトを貫こうとしている。腕を捕らえるその華奢な手さえ、抗いがたい力でもって押さえつけているのだ。
「……息子、だそうだ」
 つぶやくように吐き出された言葉に、一瞬ブラストは目を丸くした。それから顔をしかめ前髪をかき上げて、必死に記憶の中身をひっくり返す。
「せ、説明少なすぎるよ。君、息子何人いるのさ?」
「狭義ではそいつが本当の息子だ。他はあれだ、お前たちの言う申し子だろう?」
 考えるのを放棄したブラストは不服そうにアスファルトをねめつけた。イーストならばすぐに事態を察するだろうが、さすがに彼には無理だった。アスファルトは自嘲気味に口の端を上げる。
 ユズが口にしたのは息子という言葉だけ。それ以上の説明はなかった。だがアスファルトにはそれだけで全てがわかった。彼と彼女の、本当の意味での子どもは一人しかいなかったから。何処へと消えてしまった息子、ただ一人。
「ふーん、よくわからないけど、じゃあその技使いは魔族の気を内に持っていたりするんだよねえ?」
 理解することさえ放棄したブラストは、それだけを確かめた。無造作に放置された前髪は不自然な形で風に揺れている。アスファルトは目を細める。
「確かめてはいない、が理論的にはそのはずだ」
 ブラストは口元をゆがめ、笑みともとれるような表情を浮かべた。至近距離で感じる禍々しい気は、アスファルトの背筋に冷たいものを走らせる。腕はまだ、拘束されたままだ。
「君さー、レーナ奪還失敗したよね? 今はその償いの最中だったっけ?」
「何が言いたい?」
 間髪入れずにアスファルトは問い返した。ブラストの顔からはその真意が見えてこないが、それが受け入れがたいものであるということだけは明白だった。地を踏む足に力を込めて、アスファルトは彼をにらみつける。
「それでさ、君の息子があっちにいるなんて、さらなる失態だよね? というか罪だよね?」
「私に何をさせたい?」
 アスファルトはしびれを切らし、用件を言えと目で告げた。ブラストの哄笑が響き渡り、周囲の濁った空気がぶわりと揺れる。
「嫌だなあ、僕だってそんなに鬼じゃないよ。ただ戦力が欲しいだけ。だからさ、君の息子をこちら側に入れたいんだ」
 思考が、止まった。
 アスファルトはその意味を計りかねて視線を左右にさまよわせる。こちら側に、入れる。その言葉を彼は何度も口の中でつぶやいた。
 そして不意にこみ上げてきた言い得ぬ激情に、彼は口を開いた。
「馬鹿なことをっ!」
「嫌ならいいんだよ。その代わり、君の大事な家族がどうなるかは保証できないけどね」
 もとから保証などしていないだろうと、アスファルトは苦虫をかみつぶしたような顔をし、奥歯を噛みしめた。胸が苦しい。からかうようなブラストの眼差しを直視できず、ただ彼は深く息を吸い込む。
「君の息子さえ手に入れば、別に僕はいいんだよ? 君の申し子たちが生きていようがこちらに来ようが。別に僕は魔族の誇りとかに興味はないしね」
 アスファルトの頭の中で言葉だけが上滑りしていく。わかっている、そんな都合のよいことなどないってことは。だが心が揺れる、求める。失ってしまったはずの大事なものを、取り戻したいと訴え続ける。
「まあいいんだけどね。あっちにいる限り、半分魔族であろうがなかろうが、僕らの敵には違いないんだし」
 だから殺すよと暗に告げてブラストはくすりと笑った。
 それは始めから定められている選択。用意された道は一つしかない。
「……つれてくれば、いいのだろう?」
「ありがとう、わかってくれて嬉しいよ。ちょっと反抗するかもしれないけど、それは僕が何とかするから心配しないでね」
 貼り付いた笑みを見下ろして、アスファルトは心中で舌打ちした。ブラストはあっさりと掴んでいた腕を放し、くるりと一回転すると軽い足取りで駆けていく。背中で揺れる一本になった黒髪が、生き物のようにはねていた。
 だがその姿も、すくにかき消える。
「こうも全てが最悪なタイミングだと……笑うしかないな」
 取り残されたアスファルトのつぶやきは、くすんだ空気に溶け込んでいった。



 二人きりになる時間を与えられたシンとユズは、普段は使われない四階の会議室の中にいた。傷は先ほど癒したばかりだが、こびりついた血の臭いはまだ落ちていない。
 外を、ユズは眺めていた。窓から見える景色は白と茶、青の三色に塗り分けられている。溶け残った雪は土と混じり、美しい白をとどめている場所はほとんどなかった。空は青々と輝いており、浮かぶ雲はわずかしかない。
「ユズさん……」
 遠慮がちにシンは声をかけた。そこには怒りも疑念も何もない。ただ戸惑った声音で、彼は名前を呼んでいた。ユズが振り返り、彼にその暖かい視線を向ける。
「ごめんなさい、突然のことで、びっくりしているでしょう?」
 穏やかな顔だった。決意をしてしまえばそこに迷いは生じない。彼女は柔らかな微笑みを浮かべて、心底すまなそうに目を細めていた。茶色い髪が肩口ではね、その頭の動きに沿って揺れる。
「息子って、どういうことですか?」
 疑問の色だけのぞかせて、彼は尋ねた。彼女はたおやかに手をさしのべ、それをゆっくりと胸元に持っていく。
「このペンダントはね、息子の中にあるものとお揃いなの」
 彼女は金色のペンダントを指先で軽く持ち上げた。突然話が飛んで彼は戸惑うが、ふとこの展開には覚えがあると思い返す。
 レーナだ。
 問いかけたことから、ひどく遠いところから話し始める。それは重い話を告げる時の彼女の、いわば癖。
「私とあの馬鹿の間にね、息子がいたのよ。まだ生まれたばかりの小さな息子。何故かちっとも成長しなかった息子。彼はね、相方を待っていたの。だから相方のもとへ飛ばせてあげたの」
 愛しいと告げる眼差しで、彼女はゆっくりとそのペンダントを持ち上げる。そして彼に向かって見せるように軽くつきだした。その瞬間、淡い紫色の光がペンダントを覆う。
「共鳴の印。あなたは……相方を捜しに飛んでいった、私たちの息子なの。神が人間に入り込めば技使いになるのでしょう? その神が、私たちの息子だったのね、きっと」
 それはひどく実感のない話だった。飲み込めない言葉を無理矢理咀嚼して、彼は軽く頭を傾ける。これと似た話を、自分は、確かに聞いていた。
 あ……。
 頭の中で強い光が生まれた。思考がはっきりとしてくる。この構図は、転生神の時と全く同じだ。入り込んだ神が、それがとんでもないものだった。そう告げられた時の滝たちと同じ。
「ごめんなさいね、驚かせて」
 繰り返す彼女の表情が痛い、痛い程に切ない。その事実がどれだけの衝撃を与えるか、知っている顔だ。彼は唇を強く結び、それからおもむろに口を開く。
「それってつまり……オレの中には魔族の力があるってことですよね?」
 凍える心のまま、彼は尋ねた。握った拳に汗がにじみ、心臓が激しく鳴っている。彼女は切なく儚く微笑んだ。
「神と魔族の……違いなんてほとんどないわ。大きく隔たっているのはその気だけ」
「なら、オレの中には魔族の気が眠っているってことですか?」
「そうよ。このペンダントが、あなたの中の相反する二つの気を統合させているの。これはお姉さまの、転生神のものだから」
 彼女がかざしたペンダントは、今も薄紫に輝いていた。その不思議な光は体に安らぎを与え、心を穏やかな色に染めていく。彼の気持ちも少しずつだが和らいでいた。
「あなたは、おそらく転生神」
「……え?」
「そしてあなたの相方も転生神よ」
 澄んだ茶色い瞳を、彼女は凛として彼に向けた。口にするべき言葉を失った彼は、ただ目を見開いている。無機質な会議室の中に訪れた沈黙。彼女は彼が理解するのを待っていた。
「どうして、そう思うんですか?」
 彼もその茶色い瞳を彼女に真っ直ぐ向けた。窓から差し込む日の光が二人の髪を黄金に照らし、白い空間に暖かい色を宿す。
「お姉さまが嬉しそうに言ったからよ、私たちの息子が成長しないのは『彼女』を待っているからだって。お姉さまは仲間が、転生神が集うのを望んでいた。それが鍵だと……」
 転生神が集う。
 それは神なら誰でも望んでいること。しかしユズが言うと不思議と何か別の意図があるように感じられた。それがユズ自身のせいなのか、それともその言葉を放った姉――キキョウのせいなのかは、彼には判別できなかったが。だがそれでもわかる、込められた願いが違うことくらいは。
「オレは……何を望まれているんですか?」
 ふと、彼は疑問を口にした。転生神だと言われてはいそうですかと飲み込むことは、彼には不可能だった。しかし周りの状況がそれを許すとは限らない。それに滝たちは既にそれを決定づけられている。彼らは一体何を背負わなければいけないのだろうか? わからないことだけが胸の内を渦巻いている。
「転生神は……その記憶を、力を取り戻し、魔族を一掃してくれるのだと皆信じている。あなたたちにかかっているのはその期待よ」
 彼女が放ったのはひどく醒めた言葉だった。湖に張った氷のように冷たく薄く、何か大きな感情を包み隠したものだった。彼は不思議そうに顔をしかめる。
「でも私もお姉さまもそれを望んではいない。どちらかが滅びれば……訪れるのは世界の滅び」
 彼女は寂しげに微笑みながら彼の肩に手を置いた。身長差のため、彼は見下ろすような格好となっているのだが、心境では逆だった。諭すような彼女の瞳に彼の力無い姿が映っている。
「だからね、シン。私たちはただあなたたちが無事なことを喜んでいるのよ。生きなさい、必ず。何があっても生き残りなさい。あなたたちが消えてしまえば、この争いは止まらなくなる」
 何故そういう結論に辿り着くのか彼にはわからなかったが、しかし心に迫るものがあった。彼は彼女を真っ直ぐ見つめる。憂いをたたえた口元を、彼女はきつく結んでいた。
「私はレーナに繋いだから、もう自由なの。だから、私があなたを守るわ。お願い、自らの心で落ちないで、重みを受け止めて。内に眠る力を信じて。自らを信じられなければ、私たちは消えるのよ。だからお願い」
 祈るような彼女の言葉は、彼の奥底へと染み込んでいく。その意味が全てわかったわけではなかったが、落ち着くには十分だった。彼は何とか笑みの形を作ると、何も言わずにうなずく。
「それでこそ、私たちの息子ね」
 独りごちるようにそう言うと、彼女はふうと大きく息を吐いた。それは切ないため息だった。

◆前のページ◆   目次   ◆次のページ◆

このページにしおりを挟む