white minds

第二十五章 黒き刃‐2

 会議室を出たシンは、とりあえず自分の部屋へ戻ろうと重い足を運んでいた。階段を下りて二階へ辿り着いても、その見慣れた廊下でさえ別世界のように感じられる。
 内に眠る魔族の気。転生神。突然降りかかったそれらを受け売れるのは容易ではなかった。彼はうつむきながら吐息をこぼす。
「シン!」
 そんな彼の背中を、勢いよく叩く手があった。彼が驚いて振り向くと、そこには見慣れたはずなのに依然として眩しいリンの笑顔がある。彼女はいたずらっぽく、しかし同時にいたわるような仕草で、彼の腕を取った。
「そんな辛気くさい顔してちゃ、みんなが心配するでしょう? ただでさえ気が張ってるんだから」
 彼の瞳を下からのぞき込むようにして、彼女が言う。いつもと変わらないはずのその動作が、妙に心地よく、泣きたい程に嬉しくて、彼は相槌を打つことしかできなかった。彼女のしなやかな指先が、彼の柔らかい前髪に触れる。
「何があったかなんて無理に聞かないから。ねえ、シン、そんな顔しないで」
 私も泣きたくなるでしょう、と彼女はつぶやいた。その声の調子に彼ははっとして、彼女の瞳を見つめ返す。
 技使い、とりわけその力が強い者は、感受性が強いのだ。気は感情を反映し、そして他人に影響を及ぼす。その気が強ければ強い程、受ける者の感受性がよければよいほど、影響は大きい。一人の動揺がそれだけにとどまることは稀なのだ。
「でもね、泣きたい時は泣いた方がいいのよ? 他人を気にして溜め込んでると、その方がみんな辛くなるから。だから言いたくなったら言って、言いたくないなら言わないで」
 諭すような口調で春の風のように告げられる言葉。その響きに聞き覚えがあり、彼はかすかに眉根を寄せた。
 ああ、ユズさんと一緒か……。
 先ほど重い事実を伝え、切なそうにしながらも言い聞かせていたユズと、リンの表情が重なった。何故そんなところが似ているのかは不思議ではあるが。
 オレを、心配してるから? オレが弱いから?
 思考はぐるぐると渦巻き下方へ落ちていく。それが危険な思いだとわかっていながら、彼は止められなかった。目を一度深く閉じ、深呼吸する。そして彼はおもむろに首を横に振り、彼女の手首を静かに手のひらに収めた。
 音のない廊下に満ちているのは清浄なる空気。だがそこにかすかな不安が混じり、広がっている。
「悪い……オレ、自分のことしか考えてなかった」
「って何よちょっとそれ。はい、自責の念はそこまでにしてね。いいのよ、今は自分のことだけ考えて。無理はしなくていいの。そこを補うのが仲間でしょう?」
 捕らえられた手首を一瞥して、彼女は小さく息を吐いた。その顔に侮蔑の色はない。困った子どもを見守るように、彼女は小首を傾げていた。彼は思わず苦笑する。
「そっか、仲間だもんな」
 何だか胸が痛くて彼は唇を強くかんだ。それが何故だかわかるようでわからず、またわからないようでわかっていた。感情を押し込めることに慣れた体は、しかし今もってその窮屈さを訴えている。
「ねえ、シン。私は――――」
 その時、彼女の言葉を遮ってけたたましい警告音が鳴り響いた。二人は顔を見合わせて、同時に走り出す。向かう先は司令室だ。階段を駆け下り廊下を走り抜け、真っ直ぐ目的の部屋へと飛び込む。
「滝さん!」
 扉を開けると、シンは頼るべき人物の名前を叫んだ。いつもの大きな椅子から半身を乗り出して、滝はモニターを食い入るように見つめている。
「シンとリンか。悪い、すぐ出てくれるか? 魔族が例の簡易基地から出てきてるんだ。数はどんどん増えている。レーナたちは、もう向かってる」
 二人の方を振り返った滝は、開口一番そう言った。どうやら出られる者から先に行かせているようだ。司令室にいるのも、今は滝とレンカだけである。
「はい、わかりました、いいわよね、シン?」
「ああ、もちろん」
 二人の返答に、滝は笑顔で軽く右手を挙げる。レンカの複雑そうな微笑みを横目に、彼らは駆けだした。何人もの神技隊とすれ違いながら基地を飛び出す。
 強い風が、二人の髪を激しくかき乱した。



 ナイダ山付近は空間の歪みが大きく、普通の人間が立ち寄れる場所ではなかった。昔はすぐ側にナイダ族が住んでいたが、その歪みの増大によって消滅してしまったと言われている。そう、リシヤが滅んだのと同じように。
 だから今そこに立ち入ることができるのは技使いだけだった。それも薄い結界を体の回りに覆わせて、である。そうでもしなければ、空間の歪みに感覚が犯されてしまう。
「しつこいですね、あなたは」
 しかしそれは神や魔族には何の関係もないようであった。簡易基地の前で膝をついている輝慎弾は、結界を張っていない。ただ彼は忌々しげに顔をゆがめ、白い息をこぼしていた。その視線の先には、世界から浮き上がったように立つユズがいる。
「それだけが取り柄だからね、ごめんなさい」
 意志の強さを感じさせる声音で、彼女は言い放った。たゆたう髪に頬を打たせて凛とした瞳を細めるその姿は、気高さと同時に底にある憂いを漂わせている。構えるその手には何も握られていないが、うっすらと白く輝いていた。そこに、隙はない。
「あなたがいるから、アスファルト様は……!」
 輝慎弾の放つ白い光弾がユズめがけて突き進む。しかしそれをあっさりと彼女はかわした。感情にまかせた動きを読むのは、心の神である彼女にとってはたやすいことだ。彼の攻撃を擦り抜け、横から迫り来る別の魔族に光弾を放つ。
 精神的なものから、戦局は圧倒的にユズが有利だった。しかし輝慎弾は一人ではない。それが二人の戦闘を長引かせていた。ユズは時折空中を一瞥し、苦渋に顔を歪ませる。
 周りに雑魚がうようよいるけど、レーナたちはあの白い魔族で精一杯よね。
 軽く地を蹴って彼女は頭の片隅で考えた。
 どうやらこの魔族はブラストの一団のようである。白い魔族――それはオルフェを指しているのだが、彼女は名前を知らない。だがブラスト自身の姿はなかった。そして輝慎弾はいるのだが、肝心のアスファルトの姿もない。かろうじて今のところは均衡を保っているが、二人が現れればどうなるかは明白だった。
 こちら側の人員が足りない。
 感情を露わにする青年を、彼女は見つめた。その心はわかりやすい一方で、アスファルトの真意が透けてこない。いつ彼が出てくるのか、見極めなければならないのに。
「ユズさん!」
 焦る彼女の背後から、澄んだ声がした。輝慎弾を牽制しながら、ユズはちらりと後ろを振り返る。
 リンだった。そこらにいる魔族を薙ぎ払いながら、彼女の方に駆けてくる。ということは十中八九シンもすぐ側にいるのだろうと予想し、ユズは顔をしかめた。
 何だか、嫌な予感がする。
「周りを足止めするんで、さくっとやっつけちゃってください。あの基地から、どんどん魔族が出てきてるみたいなんです」
 そう言いながらリンは両手を前につきだし、体の芯から揺さぶるような風を生み出した。それは溶け残った雪を巻き上げながら、次々と魔族を消し去っていく。
「……精神系?」
 輝慎弾の光の矢を避けながら、ユズは何度か瞬いた。リンが放ったのは紛れもなく精神系、それも高度とされている広範囲の技だ。普通の人間が扱えるものではない。
「リン!」
 そこへ長剣を携えたシンが走り寄ってくる。彼はリンの横まで辿り着くと、脇の方から向かってくる炎球をたたき落とした。ジュッという音を立てて白い地面が消滅していき、蒸気がわき上がる。
 来たのね、シン。
 息子の姿を視界に収めてユズは微苦笑した。渦巻く予感だけが体の中を駆けめぐり、ひどく気味が悪い。だが来るなと叫ぶわけにもいかなかった。離れていた方がいいのか、側にいた方がいいのか、判断ができない。
「アスファルト様の邪魔はさせません!」
 回り込むようにして腕を掲げると、輝慎弾は技を放った。青白い光の柱がユズめがけて幾つも突き進んでくる。
「私を誰だと思ってるの!」
 ユズの右手が淡く輝いた。その瞬間、透明な結界が彼女を包み込み、光の柱を霧散させる。右手を空につきだしたまま彼女は不敵に微笑んだ。光をたたえた茶色い瞳が、目を見開いた幼げな青年を真っ直ぐ捉える。
「私はユズ、心の神よ。甘く見ないで欲しいわね」
 それは世界を揺るがすような、芯の通った声だった。



 膠着状態が続いた。
 簡易基地を破壊しなければ、魔族は次々とやってくる。だがそこに辿り着くことは容易ではない。故に魔族の数はいっこうに減らない。
 一人一人の強さはそれほど驚異ではないが、それはじわじわと神技隊らの体力を削っていった。次第に仲間と離されていき、それぞれの組が孤立した状態での戦闘となる。それは数の少ない神技隊らにとってはかなりの不利だった。
「リンっ!」
 悲痛な叫びが、辺りにこだました。白い大地に膝をついたリンは、声の主を仰ぎ見る。
 貫かれた……。
 右腕からしたたり落ちるのは自らの鮮血。それを視界の端に収めて彼女は小さく舌打ちした。スピードが落ちているところをねらい打ちされたのだが、利き腕というのが辛い。痛みよりもそのことが彼女を打ちのめした。
「リン!」
 駆けよってきたシンが彼女の前に立ち、剣でもって炎球をはじき返す。その陰で彼女はよろよろと立ち上がり、背後からの攻撃を察知して結界を張った。鈍い音を発して、何か硬質のものが弾かれる。
「あらら、僕の気配を察知するなんて運がいいねえ」
 彼女が振り返った先にいたのは、圧倒的な気配を有する存在だった。世界を歪ませるような質感でもって構えた姿は、ひどく楽しげに彼女の目に映る。だが放たれた気は禍々しかった。背筋を凍らせるような冷たさと棘が、そこには含まれている。
「ブラ……スト」
 右腕を押さえつけながら彼女はその名をつぶやいた。その肩をシンが力強く抱く。
「あ、僕の名前覚えていてくれたんだ? 嬉しいよ」
 ブラストの口が笑みの形に歪んだ。しかし目が笑っていない。揺れる黒髪を無造作に手ですくいながら、彼は唇をゆっくりと動かす。
「でもそれも今日でおしまいになるけどね」
 刹那、ブラストの姿がかき消えた。その動きを第六感でもって捉えたリンは、瞬時に上空に結界を張る。
 空から、黄色い矢が無数降り注いだ。耳をつんざかんばかりの轟音が二人を襲う。
「甘いね」
 だがそれだけでは終わらない。突然隣に現れたブラストの蹴りが、リンを激しく横へ突き飛ばした。声にならない悲鳴を発して、彼女は地面を転がっていく。水を含んだ雪が音を立てる。
「リンっ!」
「君にそんな余裕はないよ?」
 シンの右腕をつかみ、ブラストがささやいた。その様を、霞んだ視界でリンは捉えていた。
 え――――?
 異変は、唐突に起こった。
 ブラストの指先が額に触れると、がくりと糸が切れた操り人形のように、シンは地面に倒れ伏す。
 何?
 その光景が、彼女には理解できなかった。シンの体を担ぎ上げると、ブラストは重そうにふうと息を小さく吐き出す。
 何で……?
 その意味がわからない。何故そんなことをするのかがわからない。必死に思考を巡らそうとするが、しかし推測すら立たなかった。ただひどくこわごわとした感触が体を包み込んでいく。
 不意に、二人の姿が消えた。
 シンを担いだまま、ブラストがいなくなった。
 彼女は何度か瞬き、それまで二人がいた空間を凝視する。だがそこにはやはり何も存在していなかった。
「シン?」
 痛む体の悲鳴を無視して、彼女はよろよろと立ち上がる。上空の戦闘音も、周囲を飛び交う叫びも、彼女の耳には遠かった。全てが別世界のようだった。
 そのままおぼつかない足取りで、ふらふらと二人がいた場所へと向かう。
「連れて……いかれた?」
 レーナのように?
 リンは子どもがそうするように、不思議そうに小首を傾げた。
 何故シンを、それもブラストがつれていったのだろうか。想像を超えた事態は、血液の足りない彼女の脳をどんどん凍り付かせていく。
「リン!」
 背後から名を呼ぶ声がし、それと同時に彼女の体は再び地面に押しつけられた。感覚を奪うような痛みを堪えて、上に被さった重みを、おそるおそる彼女は見上げる。
「北斗?」
「馬鹿っ、何突っ立てるんだよ! って腕やられてるのか?」
 彼女の体を無理矢理起こして、北斗が尋ねた。先ほどまで彼女がいた場所には、光弾が着弾した跡がある。どうやら彼のおかげで助かったらしい。
「う、うん」
「くそっ、オレよりお前の方が絶対強いのに何だよそりゃ。ってやっぱ体力か」
「うん」
「ってそうだ、シンの奴はどこにいるんだよ?」
 びくりと、彼女は体を震わせた。北斗は辺りを警戒しながら、不思議そうにそんな彼女を見下ろす。意を決したように、泣きそうな顔で微笑みながら彼女は言った。
「ブラストに……連れていかれたの」
 その事実に、ただ北斗は言葉を失った。

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