white minds

第二十五章 黒き刃‐3

 頬をかすめる光の柱に、血が混じった。つっと伝う赤々とした液体が、彼女の頬に色味を差す。
 だが彼女はひたすら前を見据えていた。足に力を込め、瞳を怒らせて、ただ強く強くその場に立ちはだかる。花を思わせる青い布地が、白い世界の中風に揺れてはためいた。
「今、ブラストが来たわね」
「ああ」
「シンの気が消えたわ」
「……」
「あなた、言ったんでしょう?」
 彼女――ユズは落ち行く雷のような声音で問いつめた。目の前に立つ男ははるかに高い身長とはるかに頑丈な体を持ち合わせてはいるが、今はどこか揺らめいている。彼女は、そんな彼をにらみつけた。
「言ったのよね、アスファルト!」
 激しい感情が炎となって、彼女の体を覆い尽くした。色などないはずの『気』が赤々と染まる瞬間を、確かに彼は見る。そしてそれは次第に青く輝いていった。水のような透明さを持ちながら紅蓮のような激しさをたたえたその青い炎は、ただただ強く美しい。憧れ、恐れる程に。
 彼は深い森を宿す瞳を細めて、重く息を吐き出した。
「そうだ、と言ったら?」
「だからあなたっていうひとは!」
 彼女の指先から透明な光の筋が生まれ、彼へと向かっていった。だが水の流れに身を任せるようなほんの小さな動きで、彼はそれを音もなくよける。
「だから、あなたは、馬鹿なのよっ!」
 泣いているような声で、彼女はただがむしゃらに叫んだ。ただそれだけの行為が他のどんな技よりも痛く、激しく、強く、彼に迫ってくる。限りなく避けがたい攻撃だった。
 空気が震える。
 感情の共感に世界が震えて泣き叫び始める。伝わってくるのはもどかしさと悲しみと苦しみと嘆き。それが彼を、周りの者を、世界中の者を包み込んでいく。体の内からあり得ないはずの吐き気と恐怖と震えを生じさせる、恐ろしい神業だ。
 彼はこめかみに指先を当てて軽く眉根を寄せた。
 これが、心の神。死に直結するような感受性を持ちながら、同時に自らの感情で世界そのものを震わせることができる。最も不安定で、最も世界と近しい存在。
「ユズ……」
 彼女の頬を涙が伝う。それは彼女自身のためではない、連れ去られた息子の、それを許してしまった馬鹿な父親の、それを嘆く皆の悲しみを代弁した涙だ。彼女の体自身が、皆の感情のよりしろとなっている。
「お前も、馬鹿だな」
「ええそうよ、私も馬鹿よ! だから来てるんじゃない。馬鹿同士で、本当困ったものだわ」
 願いは同じはずなのに、思いは同じはずなのに、ほつれた糸は決して戻ることなどなく。ただどうしても変えられない事実を、予感とともに二人は眺めているだけだった。
 神と魔族、それは永久に変えられない。その支えきれない程に抱えた重さも、何もかも。
「あの子には負けて欲しくないから、だから私はあの子を助け出す」
 血に混じった涙をぬぐい、彼女は屹然と言い放った。世界の鼓動が止まる。体を内から揺さぶる痛みがひいていく。
「そうか」
 答える彼は、この場には似つかわしくない微笑みを浮かべていた。抱えた重みを押し殺して刹那の甘さに浸るように、静かに優しく微笑する。谷間を吹き抜ける一陣の風が、彼の白く長い上着をはためかせた。彼女の青い衣服も、花のように揺れる。
「アスファルト様!」
 そこへ、清らかな呼び声が不意に届いた。腕を押さえながら駆けてくるのは、山吹色の髪にエメラルドの瞳を持った純粋な青年。その姿は遠目でもよくわかった。
「輝慎か」
 彼女から意識をそらさず、アスファルトは輝慎弾を一瞥した。危なげな足取りでやってきた輝慎弾は、ユズをちらりとにらみつけながらこくりとうなずく。
「ブラスト様からの命です。撤退せよと」
 輝慎弾がそう告げると、アスファルトは見慣れた者だけが気づく程度に顔をしかめた。だがすぐにもとの不満げな表情に戻り、彼は軽く右手を挙げる。その深緑の髪がさらりと揺れた。
「わかった、お前は先に戻っていろ。私は基地を守りつつさがる」
 彼の言葉に、輝慎弾は何の疑念もなく素直に相槌を打った。既に他の魔族の一部は退却の動きを見せている。速やかに動かねば残された者は袋だたきになるだろう。輝慎弾は湿った雪を蹴り上げて、空へと飛び上がる。
「ひくのを追っても意味はないから、さっさと行きなさいよ」
 物憂げな横顔にユズは鋭く言い放った。アスファルトは振り返り、かすかに眉根を寄せる。
「ブラストがあの子を連れていったのなら、今私たちにできることは何もないわ。追っても、無駄に精神を消費するだけ」
 淡々と告げられる言葉は、しかしどこか静かな温かさを秘めていた。微妙なバランスのもとでわずかに含まれた温かさ。それに気づいて、彼はどうしようもない気分になる苦笑する。
「そうだな」
 彼はそう答えて身を翻した。既に魔族の姿はどこにもなく、戦場の名残だけが辺りに影を落としている。凍てついていたはずの大地が顔を出し、あちらこちらで煙を上げていた。彼女の唇がゆっくりと動き、寂しげに言葉を吐き出す。
「馬鹿よね」
 でも仕方ないわよね、と暗に認める声音で、彼女は笑った。全てを抱えてただ笑った。
 近づいてくる気配に気づきながらも、どうしようもなく、ただただ静かに。



 魔族が去った大地で北斗は大きく息を吐いた。危機は去った。だが胸に残った気持ち悪さと頭にこびりつく嫌な予感は、いまだに彼の足を止めている。
「リン?」
 彼は気怠い体を何とか動かして後方に顔を向けた。そこには立ちつくしたままのリンがいる。風に吹かれた髪はやや乱れ、伏せられた目はどこを捉えているかわからなかったが、彼女を覆っている気は暗く重かった。彼は覚悟を決めて彼女の肩を叩き、その瞳をのぞき込む。
「お前が……落ち込んじゃあだめだろ? そんな風だったらあいつが心配する」
 彼の叱咤に、彼女は泣き崩れそうな顔のまま何度もうなずいた。彼女らしくない。それが何故なのか、そしてどうすればいいのかわからず彼は途方に暮れる。
 今まで彼女の何を見てきたのだろう。
 そんな思いがふと頭をよぎった。一緒にいたはずなのに、仲間だったはずなのに、初めて見る彼女の側面に動揺しか覚えないなんて……。
「ごめんね、北斗。わかってるんだけど、でも、変なの。体の奥からぞわぞわした嫌な感覚が抜けないの」
 必死に笑みを浮かべて彼女はそう言った。その姿はいつもとは打って変わって弱々しく映る。彼はさらにどうするべきか迷って視線を辺りにさまよわせた。
「あ、レーナ」
 幸運にもすぐ目に入ってきたのは、最も救いとなりそうな人物の姿だった。彼女は隣にいるユズの様子をしきりに気にしながら、彼らの方に段々近づいてくる。
「レーナ――」
「ああ、わかってる。だからその捨てられた子犬のような目をするな」
 彼が我慢できずにその名を呼ぶと、彼女は苦笑気味に手を振りながらそう答えてきた。浮かない顔のユズもちらりと彼らを一瞥してくる。
「だ、だってよ――」
「わかったわかった。で、事実確認だけしたいんだが……シンが囚われたんだな?」
 レーナの問いかけに北斗とリンはびくりと体を硬直させた。何故知っているのかと問いるような面もちで、二人はレーナを見つめる。
「ユズがそう言ってたからな。それにシンの気が神魔世界には感じられないし」
 彼女は静かにユズへと眼差しを向けた。唇を噛みしめてややうつむいたユズは、自らを落ち着かせるように腕を抱きかかえている。
「あの馬鹿がね、どうやら喋っちゃったみたいなのよ。シンが、私たちの息子だって」
 ユズが告げた事実は北斗とリンを打ちのめした。目には見えない確かな衝撃が、彼らの体を貫いていく。
 息子? 私たち? それはどういうこと? 何を意味している?
 疑問だけが生まれ落ち、思考を凍らせ、あらゆる動きを鈍らせていった。言葉を失った二人を案ずるように、レーナが優しく微笑んでその手を伸ばす。
「説明は、後でな。一度休まなければ、次には備えられない。疲れた体は思考を滞らせ、凍り付いた感情は動きを遅らせる」
 彼女は北斗の肩を叩き、リンの頭を柔らかになでた。その動作はごく自然で、春のような温かさを含みながらも、秋のように物憂げな空気をも有していた。
「レーナは……あなたは本当に強くなったのね」
 その様を視界の端に収めていたユズが、微苦笑しながらそうつぶやく。レーナはちらりと彼女の方を振り返り、困ったように頭を少し傾けた。
「われも、長く生きたからな。それに人の間に紛れていた。だがそれでもまだまだ足りないよ、残念なことに」
 まいったな、とぼやきながらレーナは正面を向き、リンの瞳を真っ直ぐ見つめた。不意に間近に迫った黒い瞳を、驚きながらリンは見つめ返す。
「根本的な、ものかな。それとも別口かな。半身が欠けたような気分か?」
「え?」
 その問いの意味を計りかねてリンは何度か瞬きした。そしてようやく、自分の不安について尋ねられているのだと思い当たり、彼女は言葉を探し始める。
「何だかぞわぞわした嫌な感覚が消えないの。ものすごく嫌なことが……決定的なことが起こりそうで」
「なるほど、嫌な予感、か」
 嫌な予感――それは何度もレンカの口から出てきた言葉だった。そのことを思い出しながらリンは不思議そうに小首を傾げる。
「でも、これが?」
「そう、それが嫌な予感。しかも自分にとって重大であればある程目眩や吐き気をもよおす効果がある。体の自由が利かなくなることもな」
 レーナはそう説明しながら北斗をちらりと見上げる。突然眼差しを向けられて、北斗は目を丸くした。意味がわからないことだらけすぎて、彼は混乱した頭を整理できていない。次に放たれる言葉も予想できなかった。
「これからが正念場だぞ。それは、お前たちにかかっているのだからな」
 静かな声が彼の耳に染み込んでいく。
 沈黙が生まれ、一陣の風が彼らの間を擦り抜けていった。

◆前のページ◆   目次   ◆次のページ◆

このページにしおりを挟む