white minds

第二十六章 決断‐6

「アスファルトっ!」
 倒れ込むその体を支えようと、慌ててレーナは手を伸ばした。だが彼女の力だけではどうにもならず、ゆっくりとアスファルトは地面へ倒れていく。
 血に染まった白衣が広がり、乾いた音が辺りに漂った。張りつめていた空気の気配が変わり、同時に何か別のものが一帯を満たしていく。
「すまないな、レーナ。また無理難題を押しつけてしまって」
 アスファルトはそうささやきながら微笑を浮かべていた。彼女は彼の顔をのぞき込み、首を大きく横に振る。
「いいんだ、それはいいんだ」
 あちこちでは魔族たちが次々と空へ飛び上がる気配が感じられた。ラグナが撤退命令を出したのだろう。魔族たちの動きには淀みがなく、またそこには迷いもなかった。
 そのことに彼女は安堵し、彼へと微笑みかける。
「いいんだ、アスファルト。お前はユズの願いを聞き入れただけなのだから」
 風が吹き、彼女の黒く長い髪が緩やかに舞った。青空を背に浮かび上がる彼女の顔は白く、柔らかに彼の目には映る。空はどこまでも青く、突き抜けるように高く、その先に別の世界が広がっているのを暗示しているようだった。彼は大きく息を吐く。
「私は、ただ私の思うようにしただけだ。奴らに力をやるなどごめんだからな。それにこういう時ぐらい、親の顔がしてみたくてな。輝慎には、重荷を背負わせてしまって悪いことをしたが……。そしてお前にも、また嫌な役回りをさせてしまったが」
 彼はゆっくりと手を伸ばし、彼女の頬に触れた。感じる温かさは彼のものなのか、彼女のものなのか、判別ができない。
 彼はその指先で輪郭をなぞり、そこに彼女がいることを確かめた。
 傍にいたはずのものを失い続けた彼は、最期にしてようやく失っていなかったことに気づく。なくしたわけではなかったのだ。ただ、見失っていただけで、それは確かに彼のもとにあった。
 やはり私は馬鹿だったな、と彼は胸中で独りごちる。
 彼女は柔らかく目を細め、彼の腹部へと手をかざした。だが彼はもう一方の手でそれをのけ、首を横に振る。
「やめておけレーナ。間に合わないことぐらいお前だってわかっているだろう? だったら無駄な精神消費は控えた方がいい。本当に、お前はユズに似ているな」
「でもっ」
「レーナ」
 彼は頬に触れさせた手のひらを、彼女の唇へと持っていった。そして何も言うなと仕草で示すと、森を宿したような静かな瞳で彼女の顔をのぞき込む。
「お前は、ユズを継いだ」
「うん」
「そして私をも継いだ。……シンを頼むな」
 彼はずっと微笑んだままだった。溢れだした血は地面に広がっているというのに、それさえ感じさせない声音だった。誰もが近寄れない状況の中で、二人は見つめ合う。
「大丈夫、あいつはわれが守る。神技隊を、転生神を、われが守り抜くよ。そのために、そのためだけにわれはここにいるのだから」
「強いな、お前は」
 彼は腕をゆっくりと下げ、彼女から手を離した。そして上着の内側からペンダントを取りだし、その鎖を引きちぎった。彼はそれを、彼女に渡す。
「持っておけ。何の効力もないが、形見にはなるだろう」
 金色の丸い、うっすらと花が刻まれたペンダント。それを彼女は握りしめ、大きくうなずいた。ユズがいつも肌身離さずつけていたものと同じ、思いの込められた証。
 彼女が受け取ったのを確認して、彼は満足そうに相槌を打ってゆっくりと瞼を閉じた。
「あ、アスファルトっ」
「そうだレーナ、もしユズにまた会うことができたら……伝えておいてくれないか?」
 目を閉じたまま、彼はそう続けた。精一杯微笑みながら、うん、と答える彼女に、彼はゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「私もまた、愛していると。会えてよかったと。お互い馬鹿なことをしたがな」
 そう告げる声は穏やかで、温かだった。彼女は彼の手を取り、もう一度大きくうなずく。
「ああ、伝える。だから、アスファルトはゆっくり眠っていてくれ」
「ありがとうな、レーナ。お前には迷惑ばかりかける。ああ、アースが来たようだな、これでお前を任せられる」
 彼はうっすらと瞼を開け、空を仰いだ。そして、そこに何かを見ているように、満足げに微笑んだ。
 刹那、その体は光となり空気へと溶けていった。
 淡い光の粒子は風に吹かれて舞い上がると、どこへともなく消えていく。
 残されたのは、地面に座り込んだ彼女と、その傍らに立ちつくすアースだけだった。全てを包み込むようにさらに風が一陣巻き上がり、世界の音を一瞬覆い隠す。
「レーナ……」
 風が止むと遠慮がちにアースは声をかけた。肩を叩くことも抱きしめることもできない彼は、ただ彼女が答えるのを待つ。
 すると彼女はおもむろに立ち上がり、彼の方を振り向いた。その顔にはいつものような穏やかな微笑みが浮かんでおり、彼へと真っ直ぐ向けられた瞳は透き通っている。
「アース、怪我人回収して治さなきゃならないんだ。手伝ってくれるか?」
 そこには悲痛な色も、切ない色も、含まれてはいなかった。
 ただ儚さだけを、彼は感じた。



 疲れ果てた神技隊たちにかわって力を貸してくれたのはアルティードだった。アルではなく、正真正銘のアルティードである。
 いつの間にか宮殿の前に立っていた彼は、そこらの神々の指揮を執り神技隊たちの治療を急いでくれた。そのおかげで神技隊たちは、疲れた体にムチを打つ必要がなくなっている。
「すいません、アルティードさん」
「気にするな。本当は私ももっと早く動くべきだったのだがな。産の神の連中がうるさくて」
 アルティードの傍らで、滝は困ったように微笑んだ。血と焦げ臭い匂いに包み込まれた大地の上を、神たちは忙しく走り回っている。その中にはラウジングやミケルダの姿もあった。滝たちは気づかなかったが、ひそかに戦闘に参加していたらしい。
 今回の戦闘は、相手の人数も多く辛かった。神々の助けがなければ下級魔族とはいえ押し込まれていたかもしれない。また数の多さに苦戦したために、輝慎弾たちの動きにまで手が回らなかったのは事実であった。もしアルティードがもっと早く来ていればと、考えたくもなる。
 だが今はそれよりも気にかけなければならないことがあった。戦闘は何とか終わりを迎えたが、精神面が危険な者が多く、そしてそれはどうしようもなくて、滝は困っていた。
 腕を抱えたままの北斗は言葉を閉ざしたままで、おぼろげな意識のリンはうわごとを繰り返していて、そして全てを見届けていた青葉と梅花は、手を握りあいうつむいたままだった。
 それも……仕方がないか。
 滝は嘆息しながら、傷の手当てに駆け回るレーナを見つめる。
 謎の白い光、その後のことはおそらくほとんどの者が知っているはずだ。目を灼かんばかりの光に皆が気を取られ、全ての戦闘は一時中断となった。その正体が何であるかを突き止めるべく、近づいていった者も多い。
 だから彼自身も見ていた。
 レーナが何をしたのか、何が起こったのか。
「オレたちはまた救われたと、そう思っていいんでしょうか?」
 彼は問いかけるというよりはつぶやくように、そう言った。アルティードの眼差しもレーナへと向けられており、その顔には苦い笑みが浮かんでいる。流れるようなその銀色の髪は風になびき、気まぐれに顔を覆い隠していた。滝はそんな彼の顔をそっとうかがう。
「そうだろうな。だがそのことでお前が重荷に感じる必要はない。全ては彼女たちが決めたことだ」
 アルティードは滝へと双眸を向けた。優しさと温かさに満ちた瑠璃色の瞳に、滝はやや困惑する。次に放たれる言葉が全く予想できなかった。彼は唇を結び、胸の奥底にある何かのしこりを意識しながら、じっとその続きを待つ。
「ユズは姉であるキキョウの願いを受け入れ、そしてそのための道を選んだ。あの魔族の科学者は、家族を生かすために命を投げ出した。そしてレーナは、二人の思いを無駄にしないためにお前たちを守った。お前たちには何の非もない」
 そう紡ぎ出す声は穏やかだった。だが滝は拳を握り、ぐっと奥歯を噛みしめる。
 それでも自分たちに足りないものがあるのだと彼はわかっていたから、納得などできなかった。いつも守られているだけなのだと、知っていたから。
「それでも苦しく思うなら、強くなってくれ。それしか私には言うことができない」
 アルティードの言葉は真実だった。だからこそ滝はうなずき、ただ自分自身に誓う。
 守るための力は生きるための力で、そのためには決意が必要だ。思うだけでなく、行動が伴わなければいけない。
 彼はふと気配を感じ、肩越しに振り返った。そこには見慣れたレンカの姿と、彼女に支えられて頼りなく歩くリンの姿がある。レンカの足取りはしっかりしていたが、リンはぼろぼろの状態だった。血にまみれた服は茶色く濁り白い肌には血痕があり、顔には所々土が付いている。しかしその黒々とした瞳にはしっかりとした意識が宿っていた。滝は二人へと駆けよっていく。
「リン……大丈夫なのか?」
 それ以外にかける言葉が見つからず、彼はそう尋ねた。レンカに支えられたまま彼女はにっこりと微笑んでみせ、手をひらひらとさせる。
「大丈夫です、滝先輩。傷は何とかしてもらいましたし、まあちょーっとばかり血液が足りなくてふらふらしてますが、この通り意識はありますから」
 先ほどの死んだような状況から考えれば、驚異的な生命力としか言いようがなかった。彼は視線を隣にずらし、微苦笑するレンカと目を合わせる。
「リンは強いわよ、滝。シンのために彼女は目覚めたの。だから今は、何も言わないであげてね」
 レンカはそう告げるとリンの肩を軽く叩く。滝は首を縦に振り、できるだけ穏やかに微笑んだ。
 そう、彼女は前を向いている。後ろを見て泣いてもいないし、遥か遠くに思いをはせてふさぎ込んでもいない。ただ目の前に広がる道を見据えていた。
 だからこそシンは彼女の隣にいたのだと、今の滝にははっきりとわかる。
「滝先輩」
 リンの呼びかけに、彼は眼差しを再度彼女へと向けた。普段と変わらない人懐っこい笑みを浮かべた彼女は、唇を動かし言葉を紡ぎ上げる。
「北斗たちをよろしくお願いしますね。私はそっちまで、たぶん手が回らないと思うので」
 それは既に壁を乗り越えたもののみが持ち得る、光を内に秘めたお願いだった。

◆前のページ◆   目次   ◆次のページ◆

このページにしおりを挟む