white minds

第二十六章 決断‐8

 静かな廊下を擦り抜けるようにレーナは歩いていった。自室へと続く道は薄暗く、申し訳程度の明かりが灯されているだけである。疲弊しきった神技隊はおそらく部屋の中なのだろう、基地には人の気配というものがなかった。彼女の足音だけがかすかに音を奏で、しんみりとした空気の中へ溶け込んでいく。
 既に世界は夜へと移り変わろうとしていた。部屋の扉を開ければ窓から覗く空は薄暗く、昼間の天気は嘘のように厚い雲に覆われている。いっそ雨でも降ってしまえばいいのにと思いながら、彼女は扉を後ろ手に閉めた。
「とりあえず、一仕事完了かな」 
 独り言とともにため息がもれた。
 明かりをつける気にもならない。否、動く気にもなれない。彼女はそのまま扉にもたれかかるようにし、何かを堪えるようにぐっと奥歯に力を込める。心臓の鼓動が早くなっていることに、彼女は気がついていた。
「われと……同じ道は歩ませたくない。うまく、いっただろうか?」
 吐き出した言葉はかすれていて、彼女は苦笑した。こんなことで動揺しているようでは、これから先が思いやられる。
「本当、情けないな」
 視界がぼやけた。どうしようもなくてうつむくと、さらに世界が歪んでいく。
 同じことを繰り返して、平気な者がいるのだろうか?
 右手をそっと胸元にやり、彼女はペンダントを握りしめた。その冷たさがさらに心に突き刺さり、鋭い痛みがまた生まれる。何度経験しても慣れないうずきが全身を覆っていった。
 何のために、自分はここにいるのだろう?
 ふとそんなことを考えてしまう。その思いがどれだけ危険かわかっているのに、それは簡単には消えてくれなかった。だめだと、危ないと、『理性』が警告を始める。
 だが感情は、細々と残った感情はそれを止めてはくれなかった。体から力が抜けていき、まるで世界に溶け込んでいくような感覚を覚える。
「レーナ?」
 その時声が、突然頭上から降りかかった。
 慌てて顔を上げるとすぐそこにアースが来ていて、彼女を見下ろしている。薄明かりの中でも顔をしかめているのがはっきりとわかった。その後ろを垣間見れば彼の部屋とを繋ぐ扉が開いている。そこからやってきたのだろう。
「あ、いや、アース、その……」
「笑うな、笑わなくていい」
 手をぱたぱたさせる彼女に向かって彼はそう言った。困ったように微笑む彼女は彼から遠のこうとするが、彼が扉に手を当てて閉じこめてしまうのでそれもできない。
 どうする?
 彼女は自分に問いかけた。どうにも逃げられそうにない状況だ。仕方なく彼女が視線を逸らそうとすると、彼はそれすらも許さずその頬に手を当てた。眼差しがぶつかり合う。
「泣けるなら、泣け。泣いていいんだ」
 何か言おうとする彼女の唇にそっと触れて、彼はその黒い瞳をのぞき込んだ。それでも必死にあらがう彼女はうつむいて、彼とそれ以上目を合わせないようにする。
 あの時泣かないと決めたからここまでこられたのだ。涙は、次の一歩を鈍らせてしまう。
 彼女は小さく首を横に振った。すると彼がかすかにため息をもらす気配がし、その腕が彼女の腰に回される。
「アー、ス……?」
「泣け、もう、微笑まなくていい」
 耳元でささやかれた言葉は絶対的な力を持っていた。顔をゆがめた彼女は逃げるのを諦め、その細い手を彼の背に回す。
「今なら泣けるんだろう? 他に誰もいないんだ、無理して笑うな」
 彼はゆっくりと彼女の背中を撫でた。こみ上げる懐かしさと、切なさと、痛みが、彼女の胸を締め付けていく。
 二度と泣いてはいけないと誓ったのは……あの時があったからだ。大切な者を手にかけて、それでも涙しなかったあの時があったから。
 そして今、それが繰り返されている。
 彼女は彼の胸に額を押しつけ、小さくうなずいた。
「アース……われ……」
「何も言わなくていい。泣けるんなら泣け。いいな?」
 彼は彼女の頭を撫でて、あやすように言った。彼女はもう一度うなずき、彼の服をぎゅっと握る。
 そして、声を殺して泣いた。
 叶わなかった願い。
 救えなかった命。
 こぼれ落ちる涙を、もう止めることはできなかった。



 空色の髪をなびかせながら、気むずかしい顔でイーストは歩いていた。茶色くすすけた大地しかない周囲になど目もくれず、彼は足早に真っ直ぐ進んでいく。その進む遥か先にはかすかに何かが見えていた。灰色の何かにしか見えないが、彼はそれが研究所であることを知っている。
 アスファルトの研究所だ。
「イースト様、お待ちください!」
 そんな彼の後を大柄な男、フェウスが追っていた。追いつけないわけではないが、イーストを包む異様な気がそれを許さないのである。見慣れないイーストの様子にフェウスは困惑していた。
「アスファルトがやられたのが、そんなにお気に召さないので?」
 困り果てたようなフェウスの声音に、イーストは足を止めて振り向いた。その青い瞳には苛立ちも悲しみも何も宿っていない。だが何か鋭い光がそこにはあった。萎縮するフェウスに、イーストは柔らかな声で答える。
「彼がやられたのは仕方ないさ、それはわかっている。ただ思っていたよりも状況は複雑になってしまったけれどね。プレインは、まあレシガが何とかしてくれるから大丈夫だろうけど」
 退却したプレインの傷はレシガが癒していた。彼女でなければ今のプレインに近づける者は、少なくとも補助系の使い手にはいなかった。
 怒りとも恨みとも何とも言えぬ禍々しい気を放つ五腹心に、近づける部下はまず存在しない。
「では何故そんなに苛立っているのですかっ」
 フェウスは顔をしかめた。急ぐなら飛んでいけばいい。だがそれをしないのは苛立っているに他ならなかった。そんな風なイーストを、フェウスは見たことがない。
「誤算だったんだ。まさかアスファルトがあそこまで家族を守りに出るとは思わなかった。彼の技術は既に抹消済みと考えていいだろう、それを確かめに行くんだよ」
 読みとれなかった自分を責めるようにイーストはそう述べた。彼は大きくため息をつくと、また歩き始める。
「抹消済み!?」
「そうさ、彼は研究所のものを全て消し去っているだろう」
「何故そんな面倒なことを!?」
「決まっているだろう?」
 歩みを早めるイーストの斜め後ろをフェウスはついていった。立ち止まらずイーストは軽く振り返ると、ふわりとどこか切なさのある微笑みを浮かべる。
「彼の技術が私たちに渡れば、それはあのお嬢さんたちへの脅威となる。もう二度と戻ってこられないと覚悟していたなら、そんなものを残しているわけがないんだ」
 うかつだったよ、とイーストはつぶやいた。歩くたびに巻き上がる土煙が、彼の表情をさらに曇らせる。
 そう、私は愚かだった。
 イーストは胸中で独りごちた。
 彼の性格を考えれば、もっと早くに手を打つべきだったんだ。
 死まで覚悟していたかどうかはわからない。だが戻ってくることはないとは思っていただろう。それなのに何の対策もできなかったのは……私も動揺していたからに違いない。
 イーストはどうしようもなく泣きたい気分になった。自分の愚かさがこれほど恨めしかったことはない。
「じゃああの研究所には……」
「何も残っていないだろうね」
 二人の目の前に灰色の研究所が迫ってきた。大きさはそれほどでもないが、実はかなりの奥行きがある。しかもこの研究所は彼らの住む魔族界と神魔世界との狭間に建っていた。つまり、異なる世界の出入り口を維持する能力を持っているのだ。
「イースト様……どうします?」
「もう入れてくれるアスファルトはいないからね、強行突破しよう」
 彼は右手を突き出すとそこから青白い光弾を生み出した。それは研究所へと向かい、その扉を直撃する。
 鈍い音が鼓膜を叩いた。
 だが扉はややへこんだだけで、その役割を終えてはいない。
「なかなか丈夫だな、確かホワイトニングでできてたんだっけ?」
 記憶の中からその事実をひねり出し、イーストは苦笑した。となると生半可な技ではいけないなあとぼやきながら、彼は扉の前に立つ。
 彼の右手が青白く光った。そこに生み出されたのはうっすらと水色に輝く短剣で、揺らめきながら存在している。彼はそれを扉へと突き刺した。
 扉のひしゃげる、嫌な音がする。
「さあ入るよ、フェウス」
 役目を終えた扉を押しやって、イーストは研究所の中へと足を踏み入れた。慌てたフェウスもそれに続き、灰色の空間へと身を投じていく。
 入り口から続く廊下には明かり一つなかった。それはおそらくこの研究所の機能が全て止まってしまったからなのだろう。仕方なく小さな光球を生み出しそれを明かり代わりとしたイーストは、ゆっくりと廊下を進んでいった。
「本当に何もないね」
 いくつかある部屋を見て回った彼は、嘆息しながらそうつぶやいた。予想はしていたがこれほどまですっきり片づけられていると、恨み言ももらしたくなる。彼は美しい顔をほんの少しゆがめて何気なく左を振り返った。
 するとすぐ近くの部屋――おそらくアスファルトが主として使っていた研究室――に一つの机が置いてあるのが目に入った。それは重く沈んだ灰色の空間の中で、不思議と使われていた頃の温かみを保っている。
 イーストは真っ直ぐその机へと向かっていった。それに気づいたフェウスが慌ててその後を追いかけていく。二人の足音が部屋に響いた。
「これは……」
 何も置かれていないように見えた机の上には、一枚の紙のようなものが残されていた。それを手に取り、イーストは口をつぐむ。
「どうしたんですか? イースト様」
 フェウスがその後ろからおずおずとのぞき込んだ。イーストの手には精神データ化され、焼き付けられた一枚の画像がある。
「アスファルトと……その申し子ですか?」
「それとユズ。おそらく記念品だろうね、消し去りきれなかったのだろう」
「どうしてでしょう?」
「愛故に、かな」
 イーストはくすりと笑い、手の中の一枚に目を落とした。そこには微苦笑を浮かべたアスファルトと、満足そうに笑うユズ、そして思い思いの顔をした『申し子たち』が映っている。
「この少女が……レーナですか? 何だか弱々しくて別人のようですが」
「ああ、フェウスはあの時会っていなかったんだね。目覚めたばかりの彼女はこんな感じだったよ。もっと天真爛漫で……でも恐ろしい実力の持ち主だった。三日でここを去ってしまったのだけれど」
 尋ねたフェウスは目を丸くしてイーストと画像とを見比べた。イーストは曖昧に微笑みながら、頭を少し傾けている。
「三日で? し、しかし彼女はあやつのことをずいぶん知ったような顔でしたが……」
「そうだね、彼女はアスファルトとユズのことをよく知っているようだったね」
「それでは――――」
「アスファルト曰く、彼女は見ていたそうだよ。目覚める前からずっと、二人のことを」
 ますますフェウスは混乱し、イーストの手にある画像を見下ろした。小柄な少女は、微苦笑する科学者と満足そうな女神と、そして嬉しさを隠しきれない仲間たちに囲まれてただ純粋に微笑んでいた。
 そこには一瞬の幸せが、切り取られていた。

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