white minds

第二十七章 生きるための力‐1

 ただシンは何をするというわけでもなく、彼女を見守っていた。ベッドの上に気怠げに座わり、向かいで眠る彼女を黙って見つめる。
 白いシーツをすっぽり顔の半分までかぶった彼女は、規則正しく息をして目をつぶっていた。小さなベッドにうまく収まり、猫のように丸くなっている。
 まるで時が止まったように治療室の中は静かで物音一つしなかった。心地よい清潔さを保った室内には二人の他に人はいなく、まるで世界から切り離されているように感じる。
「目覚めなかったら……」
 どうしようと今さらながら彼は思っていた。正確な時間はわからないが、大分たってはいるだろう。外はもうかなり暗くなっており、カーテンのかかっていない窓からは雲の合間から星々が顔を出している。明かりもついていないため弱々しい光さえよく見える。
 だが全く彼女――リンは目覚める気配がなかった。死んではいないようだが眠ったままなのである。揺り起こしたい衝動に駆られるが、自分が動ける状態とは彼自身も思えなかった。体が重くだるく、手を動かすことさえ億劫なのだ。おそらく一時的な後遺症のようなものだろうとは思うが、それにしてもこんな時は不便だ。
「オレのせいだよな」
 無理を、させたから。
 彼女の体には相当の負担がかかったはずだ。そしておそらくは精神的な負担まで。
 自分が本当にここにいていいのかと彼はずっと自分に問いかけていた。答えは出ない。ただ不安とほんの少しの希望が入り混じった複雑な気分になるだけで、解決の糸口は見つからない。
「オレがいていいのかな」
 彼が何度目かのため息をついた時、変化は起きた。
 身じろぐ気配に続いて、言葉にならないつぶやきが彼女の口からもれた。彼ははっとして、彼女の動向を見守る。
 彼女はゆっくりと上体を起こし、辺りに視線を巡らしているようだった。まだ意識がぼんやりしているのかその動作はぎこちなく、子どもが母親を探している姿にも似ている。
 しばらくして彼女はおもむろに彼の方を見た。その黒い瞳が瞬き、彼の瞳を真っ直ぐ捉える。
「シン?」
 彼女が頭をやや傾け、不思議そうにそうささやいた。黒い髪がさらりと揺れて、白い世界にくっきりとその存在を示す。
「ああ、えっと、おはよう」
 何をどう言うべきかわからなかった彼は、結局気の抜けた挨拶を返した。かつては当たり前にあった空気が今はなく、不思議な距離感がそこには存在している。彼の苦笑いを不思議そうに見つめて、彼女はそろそろと立ち上がった。
「大丈夫なの? ええっと、記憶とか」
「うん、まあ」
「本当? よかった」
 彼女はゆっくりと彼に近づき、こぼれるような笑みを浮かべた。そして戸惑う彼のことなど気にせぬように、その手をそっと両手で包み込む。
「よかった、戻ってきてくれて。本当に嬉しい」
「リン?」
「ずっと眠ってるから、このまま目を覚まさないんじゃないかと思ったわよ」
 ベッドの傍に座り込んで、彼女はくすくすと笑い声をもらした。それはオレの台詞だと彼は言い出したかったが、それを何とか飲み込んでかろうじて微笑を浮かべる。
「あなたがいないと、私はだめみたいだから……」
 彼女は握った手に力を込めて、彼の顔を真っ直ぐ見上げた。疲れのにじんだ瞳はそれでも何か強い決意を宿し、柔らかな光を内に秘めている。彼は固唾を呑み、彼女の笑顔を見つめた。
「だから、戻ってきてくれて嬉しいの。もう、どこにも行かないでね?」
 彼女はそうお願いすると、握った手の甲に視線を落とした。声はかすれていないし震えているわけでもない。だが何故か彼女が泣いているように、彼には思えた。
「リン……」
 彼は彼女の手を握り返す。
 今は言葉を紡ぐことはできないけれど、精一杯の気持ちを伝えようと彼は努力した。握り返した手に力を込め、彼女のうつむいた顔をじっと見つめる。
 今はまだ何もわからない。ただこうしてここにいられることが幸せなのだと、それだけは理解していた。ともにいることがどれだけ幸せか、痛い程に。
 手のひらに感じる温かさは生きている証。あらゆるものを乗り越え、今という時に存在している証。この世界と繋がっている証。
 それを感じながら、彼はふっと肩の力を抜き、微笑んだ。



「ねえ、青葉」
 食堂、あちこちで静かな食事がなされる中、梅花は小さくそう呼びかけた。その向かいの席でぼんやりとフォークを動かしていた青葉は、はっとして彼女へ眼差しを向ける。
「聞いて欲しいことがあるんだけど」
 彼女は感情の読めない無機質な表情を、ほんの少しだけためらいにゆがめた。最近はあまり見かけない硬い顔だ。青葉は小さく息を呑んで、フォークを皿に置く。
「どうかしたのか?」
 そう問いかけると彼女はさらに困ったように視線をさまよわせた。それでも意を決したのか彼へと真っ直ぐ目を向けて、ゆっくりと口を開く。
「レーナが大変な状況なのは、わかるでしょう? 私考えたの、どうしたらその負担を減らせるか。それでね、決めたの」
 彼女の言葉に彼は相槌を打った。
 その表情、間の置き方から考えれば、どうやらそう簡単な話ではなさそうだ。どんな言葉が飛びだしてくるのか予想はできなかったが、彼はせかさずに続きを待つことにする。
 彼女は一旦息を飲み込み、そして告げた。
「私は、レーナを心配しないことにするわ。そしてね、アユリであることを受け入れようと思うの」
 彼は目を丸くし、その意味することを必死で考えた。
 心配しないことにする……だがどう考えてもそれは不可能だろうし、アユリであることを受け入れるというのもさっぱり意味がわからない。眉根を寄せる彼を見つめて、彼女は再度口を開いた。
「私がレーナを心配すれば、たぶん彼女は無理して平気を装うと思うの。ただでさえそうなのにね。だから私は彼女のことをできるだけ気にかけない、他のことを心配することにするわ」
 そう説明しながら彼女はふわりと微笑んだ。それはまるで、そう本当にレーナのものとよく似ていて、悲しみも愛しさも強さも全て内に含んだ微笑みだった。彼は何も言えずにただその黒い瞳を凝視するしかない。
「ユズさんがいなくなったから、あの産の神たちがまた何か言ってくる可能性もあるわ。だからといってレーナにはこれ以上無理させたくない。だからね、私はアユリとして彼らと向き合おうと思うの」
「え?」
 アユリとして向き合う。その意味を、重さを感じ取って彼は声を上げた。
 産の神たちが彼ら転生神を連れていこうとしていたのはついこの間のことだ。彼らの狙いははっきりとはしていないが、こちらに都合の良いこととは思えない。
「でも梅花」
「ええ、勢いで負けたらおしまいね。でもね、ユズさんを見て思ったの。あちらが私たちを大切にしてくれるならそれを逆手に取るのもありかなって。つまり転生神として宣言すればいいのよ、この基地に残るってね」
 いたずらっぽく笑う梅花に、青葉は再び絶句する。確かにその通りだが、それを押し通すにはそれなりの覚悟が必要なはずだ。恐ろしい度胸も備わっていなければいけない。
「確かに大変なのはわかってるわ。あちらの状況なんてちっともわからないし、今まではただの技使いだったんだしね。でも、やれないことはないと思うの」
 そう断言する彼女は彼の瞳をじっと見つめていた。宇宙を宿したような瞳が彼を捉え、何か得体の知れない力を発しているようにさえ彼には感じられる。
「本当にやるのか?」
「ええ、決めたから。だからね、そのね」
 だがそこで彼女は言葉を詰まらせた。軽く目を伏せて言いよどむ彼女は、困ったように小首を傾げる。かすかに揺れた黒髪がさらりとテーブルを撫でた。
「青葉に、傍に、ついていて欲しいの」
「……え?」
 二人の眼差しが触れたのは一瞬のことだった。微苦笑した彼女はそわそわした様子で再び目を伏せ、驚いた彼はまた目を見開く。周囲から聞こえる食器の触れ合う音が耳にやけに強く響いた。
「う、梅花?」
「私ね、何だかだめみたいなの。前みたいに何でも一人でできなくなっちゃった。青葉に頼るのに、慣れちゃったみたいで」
「いや、一人でやらなくていいから。っていうかもっと頼れよ。足りないから全然」
 うつむき気味で微苦笑する彼女に、彼はまくし立てるようにそう言った。彼女がおそるおそる顔を上げ、不思議そうに瞬きをする。
「足りない?」
「そう、足りない。だからもっと頼れ。ついでに言うと傍にいるのは当たり前だから、別にお願いなんてする必要ないし。……それに、何というか、そんなこと言われたら期待するだろ?」
 段々声を小さくしながら彼はふうと息を吐いた。予想だにしていなかった展開に、何だか頬が熱くなっている気がする。
「私も私がよくわからないんだけど……」
 口をもごもごさせる彼に、彼女は困ったように笑みを向けた。彼は何とか落ち着こうと息を吸い込み、皿に置いていたフォークを手にとってくるくる回す。
「もしかしたら、青葉のこと好きなのかもしれない」
 からんと金属と陶器が触れ合い、音を立てた。彼はその言葉を何度も頭の中で繰り返しながら、うつむいた彼女を見つめ続ける。斜め下をさまよう彼女の眼差しは不規則に揺れているようだった。心なしかその頬も赤い。
「もしかしたら?」
「うん、もしかしたら」
 彼女はまたおそるおそる目だけで彼を見上げた。彼は安心させるように、できる限り穏やかに微笑む。
「相変わらず焦らせるよなあ。でもオレは、それでもちゃんと傍にいるから」
 戸惑い気味の彼女の瞳を、彼はのぞき込んだ。
「だから心配するな。お前ならできる」
 その言葉に彼女はゆっくりうなずくと、花が咲くように微笑んだ。

◆前のページ◆   目次   ◆次のページ◆

このページにしおりを挟む