white minds

第二十七章 生きるための力‐5

 ふと気づけば、彼女は茶色くすすけた大地を走っていた。貫くような、引き裂くような痛みが体中を覆い、目の前が霞んでいる。
『ここから出るんだ、とにかく出るんだ』
 頭の中で焼き付くよう聞こえてくる自分の声に、彼女ははっと我に返った。それまでもうろうとしていた意識の一部が急激に覚醒する。この景色には見覚えがあった。
 そうだ、今自分は逃げ出しているんだ、もうすぐプレインが、ラグナがやってくるから。
 これは夢なのだ。
 彼女は何度も心の中でそう唱えながら顔をしかめた。わかっている。これはあの時の、もう二億と七千年前になるあの日のことだ。だから夢なのだ、夢のはずなのだ。
 それなのに全身を襲う痛みも苦しさも全てが、あまりに現実的だった。背後から近づいてくる巨大な気も、まるですぐそこにいるように感じられる。
「おいおい嬢ちゃん、何で逃げるかなあ、おい。そんなにオレらが怖いかい?」
 その時よろけそうになる彼女の目の前に、一人の男が立ちはだかった。焼けた肌に草色の髪、筋肉質のその男の名を彼女は知っている。
「どいてくれ」
 吐き気と戦いながら、彼女はそれだけを何とか口にした。目の前の男――ラグナは片眉を跳ね上がらせ、唇の端をつり上げている。
「誰に言ってるのかわかってるのかい、嬢ちゃん? えーっとレーナだったか? おいたもいい加減にしてくれないとオレが困るんだけどよ。女には手を出したくないんだ、だからおとなしく言うこと聞いてくれ」
 彼は怒っているのか困っているのか判断しにくい表情を浮かべ、彼女へゆっくりと歩み寄ってきた。
 来るな。
 彼女は心で念じる。次に何が起こるのか知っていたから、なおのこと強く願った。だが彼はどんどん彼女へと近づいてくる。
「来ないでくれ」
 彼女の細い手に真っ白な刃が生み出された。彼の目が細くなりその口からため息がこぼれる。ゆるやかな風が吹いてかさついた砂を巻き上げた。彼女は、霞む視界の中で彼をにらみつけた。
「嬢ちゃん、まさかオレを斬る気か? オレが何と呼ばれてるか知らないのか?」
「どいてくれ、お願いだから」
 相手にしていない彼の態度は余裕故に。彼を斬った者は今のところただ一人、転生神ヤマトだけだというのは有名な話だった。彼女ももちろんそれを知っていた。そう、だからこのとき彼は全く警戒していなかったのだ。彼女は心の中で無気力な笑い声をもらす。
「なあ嬢ちゃん?」
 彼の伸ばした手がすぐそこまで迫ってきた時、彼女はその刃をふるった。その時だけは痛みも何もかもを忘れ、それが当たり前であるかのように動くことができた。舞うように白い軌跡を描いた刃は彼の右肩へと向かう。彼はそれをすんでのところでかわし、飛び上がった。
「無駄だって言ってるだろう!」
 傷つけたくないせいだろう、手刀を構えた彼は瞬時に彼女の背後へと降り立つ。その手が彼女の首へと伸ばされた時、彼女は驚くべき反応速度で右膝をついた。
 それは一瞬。
 彼の手刀が彼女の頭上を横切る一瞬。
 彼女はその無理な体勢から白い刃を軽く旋回させた。
 その刃は、彼の胴を深々と切り裂いていた。
「な……に?」
 血吹雪が、彼女の顔をぬらす。だが彼女は何も言わずにその場を飛び退いた。
『早くここを出るんだ』
 声が、早くと彼女を急き立てる。体の重心がおかしくなったように、今にも倒れそうになる。だがかろうじて彼女は、腹を切り裂かれ目を見開くラグナを、霞んだ視界の中で確認した。
「馬鹿なっ。そんな剣が、オレの体に傷つけられるわけがねえっ」
 両膝を着いた彼の口からはその言葉が繰り返される。彼の体は生半可な剣では傷つかないことで知れ渡り、それ故に恐れられていた。それが彼が彼である証でもあった。
「そうだ、逃げなくては」
 彼女は力無い足取りでまた走り始める。返り血で染まった自分の姿を想像するだけで、ぞっとした。
 これは夢なんだ。
 そう言い聞かせる。背後から聞こえるラグナの声を無視して、ただひたすら自分に言い聞かせる。ただ繰り返しているだけなのだから、恐れることはないのだと。
 それでも震えが止まらなくなり、彼女はよろめいた。とにかくこの星を抜けださないことにはいつ誰に見つかってもおかしくない。とにかくどこかへ、どこかへ出なければ。
 プレインもまだいるんだ。
 がむしゃらに振るった刃が虚無を切り裂いた。だが次の瞬間、そこは虚無ではなくなっていた。
 黒と赤と青と……奇妙な色に揺れる空間の切れ目。それがこの白い刃のせいであることに彼女は思い至らなかった。だがとにかく飛び込むべきだととっさに判断した。
 彼女はその中へ倒れ込んだ。
 頭が痛い。
 息が苦しい。
 体が……消えていく。
 もうろうとする意識の中、彼女はどこへともなく手を伸ばす。ただわけがわからなくて、怖くて、彼女の指先は何か確かなものを求めた。
「え?」
 指先に何か温かいものが触れて、彼女はゆらりと頭をもたげた。いつの間にか倒れていたらしく、すぐ目の前には青々とした草原が広がっている。
 おかしい。
 確かその後、どこかの惑星に辿り着いた自分はアースと再会するはずなのだ。だがそこは岩だらけの茶色い星だった。こんな草原は存在していない。
 彼女は首を傾げながら上体を起こした。不思議と先ほどの痛みは嘘のように消えていた。
 そうか、夢だからか。
 辺りを見回せば、その風景にも彼女は見覚えがあった。
「そう、ここは地球」
 転生神アユリとシレン、ヤマト、リシヤを盗み見た時の、地球だ。衝撃を覚えた時の、まだ戦闘が続いていた頃の地球。五腹心が封印された後の、ほんの一時の戦闘。
「レーナ?」
「え?」
 どこからか名前を呼ばれて彼女は振り返った。だがそこには誰もいない。再び視界に靄がかかり、体が重くなった。彼女はまた草原に倒れ込んだ。
「レーナ、大丈夫か?」
 揺り動かされ瞼を開けると、すぐ目の前にはアースがいる。彼は心配そうに彼女の顔を覗き込み、その右手を握っていた。
 ここは自分の部屋で、今いるのはベッドの上で、そしてどうやら彼に相当寄りかかっているらしい。
 彼女はそれを認識すると、はたと気がつき左手で口元を押さえた。
「あ、あ、ってわれ思いっきり寝てた? そうだよな、夢ってことは寝てたんだよな」
「おいレーナ……大丈夫か?」
「うーまずい、何で寝てるんだわれ、いつの間に寝ちゃったんだわれ」
 彼女はおろおろしながら辺りに視線をさまよわせた。心配したのはアースだ。見慣れぬ彼女の反応に顔をしかめ、落ち着かせようとその手を強く握る。
「落ち着けレーナ、何が問題なんだ。われは何もしてないぞ」
「いやそうじゃなくて、だって寝てたら魔族の動向掴めないだろ? 何か起きてたらどうするんだ」
 そう説明しながら彼女は一度深く目を閉じ、精神を集中させた。どうやら魔族の動向を探ってるらしいと判断し、彼は押し黙る。
 すぐに彼女はまた瞼を持ち上げた。その顔には明らかな安堵があり、どうやらこれといった異変はなかったらしいと予想できる。
「大丈夫だったのか?」
「ああ、現状維持ってところだ。それでその……アース、われいつから眠ってた?」
 彼女は恐る恐る彼を見上げ、居心地悪そうにそわそわした。彼は何となくおかしくなり、くすりと笑い声をもらしながら彼女の頭をそっと撫でる。
「話が終わってすぐ立ち去ろうとしたから羽交い締めにしただろ。それからしばらくして動かなくなったから……そのあたりじゃないか?」
「あーうん、そんなこともあったような。思いっきり意識過去へ飛んでたからなあ。久しぶりに夢も見ちゃったし」
 少し落ち着いてきたのか苦笑しながら彼女は傍に落ちているかんざしに気づいた。いつの間にか手からこぼれ落ちていたらしい。それを拾い上げて髪に挿し、彼女は口の中で何回か言葉を転がした。何を言っていたのか彼には聞き取れなかったが、それはまるで暗示のようだった。彼女の細い指先が柔らかな唇に触れている。
「レーナ、先ほどからずっと考えていたんだが」
「何だ?」
「お前は生き残るために飛び出して、そしてあの二人を救うために歴史を調べ始めたんだよな? そのために戦いを止めたいんだよね? じゃあ何故……あの二人には言わなかったんだ?」
 彼の問いに彼女の指先が動きを止めた。考えるように一瞬顔をしかめて、だがすぐに微笑んで彼女はその手をベッドへと下ろす。シーツのしわをなぞりながら彼女は口を開いた。
「簡単だよ。最初はただ苦しくて飛び出した。そして生き残るためには、『彼女』と共存するためには、歴史を調べるしかないとわかった。だがそれはな、魔族も神をも敵に回すことを意味してるんだ。何故飛び出したか理由を言えば、あの二人はわれのために動いてくれるだろう。だがそれは二人の立場をさらに危うくさせることに繋がる」
 宇宙を彷彿とさせる黒い瞳は、彼を真っ直ぐ捉えていた。そこに映る自分の姿を彼はじっと見つめる。
「だから言わないと決めたんだ、彼らをこれ以上複雑な立場へ追い込みたくなかったから。生きていて欲しかったから」
 彼女の指が動きを止めた。そのことに気づいた彼はもう一方の手をそっと握り、愛おしげに目を細める。彼女はくすりと笑い声をもらして握り返した。それは自嘲でも苦笑いでもなく、ただ嬉しそうな微笑みだった。
「大丈夫、もう平気だから心配しないでくれ。仕方がなかったんだよ、あれは。途中で色々わかってきて、目的が戦いを止めることそのものになっていって、いつしか手段が目的になってしまったのだから。われは彼らの命よりも戦いを止めることに、彼らの願いを受け継ぐことを優先したのだから」
 ゆっくりと手を離し彼女は立ち上がった。揺れる黒髪が彼の鼻先をかすめ、ほんのりと花のような香りを漂わせる。彼女が胸のペンダントを握りしめるのを彼は見守った。その横顔は散り際の桜を思わせた。
「だから今ここにいるんだ」
 そう告げる声は静かに、だがはっきりと彼女の意志を示していた。

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