white minds

第二十七章 生きるための力‐8

 それは息の詰まる光景だった。
 青々と茂る草原の上に、何百人もの人影が立っている。心地よい温かな風と澄み切った空が、漂う緊張感に妙な演出を加えてさえいた。
 地上の者たちの服は色とりどりで、しかしその表情は皆硬く、視線は上空へと向けられている。声を出すのも憚られるような、異様な空気。
 その先にいるのは五人の魔族だった。
 ラグナ、イースト、レシガ、プレイン、ブラストの五人。そこから少し離れたところには、フェウスとオルフェの姿もある。そして二人の後ろには、無数とも思える魔族たちが控えていた。
「五腹心が揃うなんて、レンカの嫌な予感もここまで的中すると怖いな」
 滝がつぶやくように言い、手にした剣を強く握る。彼の髪を柔らかな風が撫で、冷たい汗を空気へと運んでいった。
 彼はただ上空の五腹心を見据え、草原に立ちつくしている。それは他の神技隊も、そして後方に控えた神々も同じだった。品定めするような、それでいて何ら動きのない魔族たちをにらみつけて、神経を張りつめるしかない。
「滝、焦るな」
 彼の背後から凛とした声がし、彼は目だけでその方を見た。レンカの陰から出てきたのは、いつも通り不敵な微笑みを浮かべた小柄な少女――レーナだ。その普段通りの様子に深く安堵を覚えながら、彼は視線を上空へと戻す。
「この状況で焦らないってのは難しいんじゃないか?」
「それはわかってる。でも心を乱せば負けるのだ。だから落ち着け、大丈夫だ。われがいる」
 彼女は彼に微笑みかけるとその前に出た。優雅になびく黒い髪が世界から浮き立ち、その存在を主張する。彼女の瞳は五腹心へと真っ直ぐ向けられていた。
「こんにちは、お嬢さん」
 先に口を開いたのは五腹心側の方だった。空色の髪に青い瞳、優美な微笑みを浮かべたイーストが、柔らかな声でそう挨拶する。
「ああ、こんにちは。五腹心勢揃いとはすごい気合いの入れようで」
 レーナはそう返して余裕たっぷりに笑みを浮かべた。それはまさしくいつもの彼女に他ならなくて、周囲に困惑の色を広める。
 そう、焦ってはいけない。
 彼女は自身の胸の内でそうささやいていた。
 焦っているのは彼らだ。だからこそなかなか踏み切れなかった五腹心総出での攻撃という最終手段に出たのだ。それはおそらく転生神の急速な覚醒を恐れてのことなのだろう。ここ最近、滝たちの力は信じられない速さで上昇している。当人たちは意識していなくても、それは端から見れば明らかだ。
 ここが正念場なのだ。
 彼女の目に強い光が宿った。
 守り切れればこちらの勝ち。守れなければ負け。
 そう、守れなければ今までの全てが無駄になってしまう。
 彼女は優雅に微笑みながら、内心で何度も何度もささやいた。
 負けは全てを無に返してしまう。ここで負ければ今まで奪ってきた命全てを、無駄にしてしまう。今までの全ての犠牲を無に返してしまう。
 守らなければ。
 何が何でも、その後がどうなろうともここを切り抜けなければ。
 彼女は人知れず握った拳に力を込めると、表情だけは崩さずイーストを真っ直ぐ見据えた。
 そう、オリジナルたちは強くなってきている。もういいだろう? 制御を解いても彼女は死なない。いや、解かなければ守りきれない。
 そろそろわれに全力を出させてくれないか?
 レーナはもうすでに消えかかっている『彼女』に向かってそう問いかけた。もう『彼女』はレーナと同じで、区別など付かないとわかっていたが、それでもそうささやいた。
 暗示のように、ただ静かに。
「だが残念だったな、イースト。それでも我々は負けないよ」
 彼女は微笑みながらそうはっきり告げて、ほんの少しだけ後ろを顧みた。彼女の視界に映ったのは息を呑んでいる滝とレンカ、そしてその後方でやはり驚きに身を固くしている神技隊だった。
 誰もが目を見開いている。その理由を、彼女は知っていた。
「んな、馬鹿な……」
 空に浮かぶラグナの口から、うめきにも似たつぶやきがもれる。
 彼の瞳にはレーナが映っている。いや、おそらく誰の瞳にも彼女は映っているだろう。それを彼女は意識して、悠然とたたずんでいた。
 彼女の周りを渦巻く巨大な気を、彼女から発せられる薄紫色の光を、誰もが凝視している。澄んだ水のような、圧倒するような強い流れが彼女を取り巻き、世界と共鳴していた。
「われは守り抜くよ。そのためにここにいるのだから」
 彼女の宣言が、戦闘の始まりを告げていた。



「まさか君とこうして向かい合う日が来るなんて僕は思わなかったよ」
「くっ……」
 シンの繰り出した剣をかわしながら、ブラストは笑みを浮かべた。シンはその顔に苦い笑みを貼り付け、大きく飛び上がり一旦後退する。
 ブラストには圧倒的な余裕が備わっていた。シンは後ろにいるリンを一瞥し、どうするべきか考える。二人だけで勝てるとは彼自身も思ってはいなかった。
 ちょっと前までは、面と向かって戦うことすら考えられなかったのだ。強くなってるとはいえ、まだまだそこには歴然とした差がある。
 でも勝たなくてはいけない。
 手にした剣に力がこもった。ブラストの部下である、白い髪の男――オルフェは、今はよつきとジュリに足止めされている。だからこそまだかすかな勝機があった。
「あの二人が親なんだからねー、君も本当はなかなかの強さなんだろ? でも残念だね、敵の芽は早い内に潰さなきゃいけないってオルフェにいつも言われてるんだ。僕は今日ここで君を殺すよ」
 結った髪を跳ねさせながら、ブラストは口の端を妖艶に上げる。その手には黄色く輝く巨大な弓が握られていた。
「シン」
 奥歯に力を込めるシンに、リンが小さく呼びかける。彼は何も言わずに、ただ気配だけで何かと問いかけた。彼女はブラストをねめつけながらさらに声を潜める。
「ブラストの速さはなかなかのものだし、その攻撃もかなりの威力だわ。でも命中率はそんなによくない。思ったより射程距離も短いみたいだしね。だから私が彼を仕留める」
 彼女の声は凛としていて淀みがなかった。そのことに深い安堵を覚え、彼は軽く相槌を打つ。彼女の言わんとすることは彼にもよくわかった。それはそう簡単に口にできるものでもないし、ましてや宣言できるものでもなかった。
 彼が前線で戦い、背後から彼女が撃つ。
 しかも相手が五腹心となれば、成功する確率などないに等しい。
 だがそれでも迷わず彼は地を蹴った。弓を構えるブラストへ向けて、長剣を構える。
「本当は楽しみたいところなんだけどね!」
 叫ぶブラストの弓の柄と、シンの剣がぶつかり合った。嫌な音が鳴り響き、周囲の空気がぶわりと震える。だがシンは力を緩めなかった。彼の胸元でペンダントが揺れ、それがかすかに薄紫色の光を帯びる。
 力は確かに自分の内にある。
 それを彼は確かに感じていた。そして自分が一人ではないという事実を、強く胸に刻んでいた。



 煙たそうな顔でたたずんでいる女を、青葉は一度だけ目にしたことがあった。ナイダの滝で、レーナ曰く『ご挨拶』してきた時のことだ。
 彼女も五腹心の一人。
 それは気を感じ取れば自ずとわかることだった。強さを秘めた金色の瞳も、流れるようなワインレッドの髪も、褐色の肌も、全てが強烈なオーラを放っている。
 そこにあるのは圧倒的な存在感だった。弱者を寄せ付けない鋭い気配をまとった彼女は、今は青葉と梅花をただ見据えている。以前なら動けなくなる程のものだろう。青葉は息を張りつめる。
「正直言うと戦うなんて面倒だから嫌なんだけどねえ」
 気怠そうな声でレシガはそうつぶやいた。魔族を束ねている者が口にする言葉ではないが、彼女が言うと何故だか違和感がない。
 ゆるやかな風が彼女の髪を撫で、妖艶な空気を漂わせた。その前では十人程の魔族が構え、ぎらついた瞳で青葉たちをにらみつけている。
「でも仕方がないわよね。本当、仕方ないわ」
 呪文をつぶやくよう彼女はため息をついた。その刹那、彼女の周りに赤々としたオーラが生まれた。それは目には見えないはずの、しかしはっきりと色を持った強い『気』だ。青葉はつばを飲み込み、隣の梅花を一瞥する。
「大丈夫よ、青葉。私がいるから」
 梅花はふわりと微笑んで、その手を彼の腕に添えた。すると彼の手の中に、薄紫色の光をまとった銀色の長剣が姿を現す。
「梅花?」
「レーナの気と共鳴してるみたいなの。前よりもずっと楽に力が出せる。だから青葉、心配しないで」
 彼女とて不安が全くないわけではない。だがそれでも柔らかく微笑むことができる理由を、彼は知らなかった。彼女はたおやかに腕を掲げて、その手のひらに短剣を生み出す。
「アユリと戦ったのは……オルフェくらいなのかしら? できるなら面倒はラグナにでも押しつけたかったんだけどね。まあ今はあっちの方がやっかいだからいいんだけど」
 そうつぶやきながら、レシガは不意に動き出した。重力を感じさせない跳躍で、その姿が一瞬かき消える。
「青葉、右」
「おうっ」
 梅花の声に従い、青葉は長剣を右方へと振るった。彼の一振りは、突然目の前に現れたレシガの頭上をほんの少しかすめていく。
「ちっ」
 さらに追い立てるよう回した蹴りは虚しく空をかいただけだった。消えたレシガを求める視線の先には、わらわらと迫ってくる魔族たちがいる。
 だが梅花の張った結界がそれらの攻撃を押しとどめた。彼女は隙なく視線を巡らせると、右手の短剣を横へ振るう。
「さすがはアユリ、よくわかったわね」
「勘、かしら」
 その短剣は迫り来る透明な刃を叩き落としていた。刃の放たれた先には、かすかに口の端を上げるレシガの姿がある。目覚めんとする女神を見て、彼女はうっすらと微笑んでいた。
「そう、だから今やらなきゃいけないのよね、面倒でも」
「私は一人じゃないから、だから負けないわ」
 交錯する瞳は静かな火花を散らす。その様を視界に収めて、青葉は目を細めた。
 確かな理由を、彼は見つけたように思った。

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