white minds

第二十九章 過去からの使者‐2

 部屋に戻ると感じる、この妙な気分。それはおそらく寝る時くらいしか戻らないからだろうと予想して、レンカの口元は自嘲気味に歪んだ。せっかく作ってもらっても意味はなかったかもしれない。ほとんどの時間を司令室で過ごしているのだから。
 もう日付はとうに越えていて、外には空高く月が昇っているはずだった。最近はますます睡眠時間が短くなっている。それでも眠くもなく集中力が落ちるわけでもないのだから、『人間離れ』している証拠なのかもしれない。食事だってほとんど取らなくてもすむようになった。食費を何とかしたい現状を考えれば喜ぶべき所かもしれないが、複雑な心境にはなる。
「やっぱり私って、神なのかしら」
 薄暗い明かりしか灯らない部屋に、感傷的な声が染み込んでいった。逃れようのない事実は容赦なく迫ってきて、今では体をすっぽり覆う程だ。
「私はリシヤ」
 それは目を背けられない事実。時折脳裏をよぎる映像も、その回数を増してきている。最近では夢の中でもはるか昔の光景を見るようになった。
「思い出しかけてるのは、確かなのよね」
 つぶやきながらベッドに腰掛けると、柔らかいマットがぽふりと声を上げた。鼻孔をくすぐる温かな匂いさえ、眠気を誘わない。
『記憶に感情が宿れば、それは目覚めが近いことを意味している。頭に浮かぶ映像、その時の感情がわかったらそれは合図だ』
 昼間のレーナの話が脳裏をよぎった。何故それを彼女が知っているか、聞いておけばよかったと今さらながら思う。はぐらかされるかもしれないが、それでも何らかの反応は得られるだろう。
「感情まで思い出したら……何か変わるのかしら?」
 横になると無表情な天井が目に入った。今のところは断片的に映像が流れていくだけだが、そのうちまるで子どもの頃を思い出すように、一連の状況もはっきりとしてくるのかもしれない。そうすればその時の『気持ち』も手に入るのだろうか?
「でもこれはまだリシヤの記憶」
 天へと手を伸ばすと、薄明かりの中白い輪郭が浮かび上がった。まるで別人のようなのは気のせいだろうか? 時折自分の体が自分のものでないかのように感じる。
「皆が望んでるのはリシヤの記憶じゃない。そのさらにずっと先の……失われた歴史の記憶」
 それが全ての鍵なのだと、皆が思っている。
「本当私たちって何もわかっていないのよね。何も、全く。自分のことなのに」
 言葉にすると笑いがこみ上げてきてどうしようもなかった。追いかけても追いかけても、本当に欲しいものはずっと先にある。
 本当は平穏に生きているだけでよかった。でも出会って、動き出して、そして気づいてしまったからもう引き返すことはできない。
 道は引き返せないのだ。
「思い出せば全てが終わるの? 戦いは終わるの? 誰が勝って、誰が負けるの?」
 答えの返らない疑問は胸を締め付けるだけだった。だが心のどこかが、でも思い出さなければならいのだと叫んでいる。
 これはリシヤの……いや、それ以前の記憶のせいなのだろうか。最近はますます自分自身がわからなくなっていた。
「そうなの、どんどんわからなくなるの。私が私なのかわからなくなるの。私でいることってどういうことなのか……もう思い出せない」
 つぶやいた声はかすれていた。泣いていないのに泣いてるような声が、部屋の中で寂しく漂う。
『大丈夫、われはその先にいるから』
 レーナはそう言っていた。その時は何を意味してるのか理解できなかったけど、よく考えればおぼろげに見えてきた。
 彼女も記憶を求めてる。自分が何者であるかを探してる。
「どうして私たちって……こんなにも不安定なのかしら」
 苦笑がもれた。しっかりしなくてはいけないのに、その土台はいつも揺らいでいる。技の発現が鈍るから気をつけなければいけないのに。
「ああ、違うのよね。みんながそうなのよね。神も魔族もみんな、自分たちの過去を追い求めてる」
 消えた歴史を知る者たちを、求めてる。
 手を下ろしシーツをたぐり寄せて、彼女は微笑んだ。自分だけでないなら、少しは安心できる。
「私はリシヤだけれどレンカなの」
 先ほどよりも凛とした言葉が唇からもれた。
 窓の外では真夜中の月が、世界を柔らかく照らしていた。




 濁った空気は不快で、肌にまとわりつくようだった。いつからこのようになったのか定かではないが、少なくとも目覚めてからは悪化しているなとイーストは思う。
 彼の目の前には、不機嫌な顔をしたレシガが外を眺めながら立っていた。この彼の部屋唯一の窓は、五腹心の誰にしろ逃げ場としてよく使われる。風はなかなか吹き込まないが、それでも気は紛れるらしい。
「困ったものね」
 彼女は嘆息すると同時に、呆れた声音でそうつぶやいた。揺れるワインレッドの髪が、灰色の空間ではひどく浮き立って見える。
「そうだね」
 彼は同意することしかできなかった。それ以上の言葉はこの場には必要なかった。繕ったところで仕方ないのは、十分に理解している。
「ブラストがまでこうなるなんて……ただでさえ戦力は乏しいというのに」
「君が迎えに行かなければもっと減っていたよ」
 そう返すと、彼女があからさまに顔をしかめるのがわかった。だが冗談を言ったつもりでもなかった。それは全て真実で、目をそらしてはいけないこと。彼は空色の髪をかきあげて、ふわりと優しい笑みを浮かべる。
「言いたくはないけど事実だから仕方がないさ。ブラストを立ち直らせるのに、しばらく時間はかかりそうだね」
「ラグナが力を取り戻すまでもね」
「そう、私たちには時間が必要だ」
 呼応する声はただ確認の意味だけを持っていた。互いに現状は理解している、だからそれを確かめるだけ。
「ラグナはどうしているか、レシガは知ってるのかい?」
「私が? 私が知っているわけないでしょう。顔見にいっただけで疎んじられるわよ」
「君もか」
 窓を背にして彼女は薄ら笑いを浮かべた。金色の瞳は挑戦的だが、彼にとってはそれは意思表示としか受け取れない。
 わかっているという意思表示。長年ともに歩んできた相手に対する、無駄なことは言うなという意思表示。彼は頭を傾けながら、その強い光を宿した双眸を見つめる。
「プレインはどうして心変わりしたんだと思う? 彼が突然方向転換するなんて珍しくないかい?」
「あら、そっちへ行く? そんなこと知らないわよ、本人に聞いた方が早いわ」
「聞いて答えてくれるとは思わないけどね」
「つまり誰にもわからないってことよ」
 この場にフェウスが控えていれば、その意味のない会話に顔をしかめたことだろう。だが今度のは確認ではなかった。プレインをどうするかという問いかけに、とりあえずは放っておけと答えたのだ。
 これが二人の二人にしかわからない、誰に聞かれても問題のない密談である。
「お嬢さんはもう完全なのかい?」
「完全ではなかったわ、間近ではあったけれど。でもどっちにしろ手遅れね、二人も欠けた状況では攻め込んでも意味がない」
 生暖かい風がゆっくりと部屋の中に入ってきた。イーストは目を細め、気の流れに注意を払う。かすかに感じるのはブラストの気だけで、ラグナはもちろんのことプレインの気も感じられなかった。プレインはおそらく神魔世界にでも出ているのだろう。
「ブラストとラグナ、あなたはどちらを相手する?」
「愚問だね、レシガ。ブラストのところには君が行かないと。じゃなきゃ彼は立ち直れないよ?」
「気が進まないわね、子どものおもりは」
「ラグナをからかうのは楽しいしね」
 これまたフェウスが苦い顔をする会話だった。緊張感のないやりとりは、この二人ならではだろう。間にプレインが入ればそれだけで空気に鋭さが生まれるし、ラグナが入れば怒鳴りだしているところだ。ブラストなら……おそらく拗ねている。
「じゃあ仕方ないわね。いつもながら面倒なこと」
「バルセーナ様たちがいればこんな苦労もないのだけどね」
 二人は視線を触れ合わせた。
 いつからこうやって話をするようになったのか、いつから考え込まなくてはならなかったのか。今となってははるか彼方の記憶である。
「それも、仕方のないことよ」
 答えたレシガは口の端に苦笑いを浮かべた。
 突然音沙汰もなくいなくなった主たちは、今も封印されたままである。その理由や経緯を、語れる者は誰一人としていない。
「そうだね、どうしようもないことだね」
 生暖かい空気を、イーストの声が震わせた。
 訪れた静寂が、無力感を漂わせていた。

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