white minds

第二十九章 過去からの使者‐4

 ナイダの谷には幾つかの大きな森がある。最近では動物すらいなくなったと言われるそこも、まだ植物は生きていられるようだった。故に静寂に満ちた森を埋めているのは木々のさざめきだけだ。人はもちろん、技使いでさえ容易に立ち寄ることはしない。
 大地に降り立てば、草の匂いが満ちた風が頬をかすめていった。細い谷間を吹き抜けているせいか、駆け抜けてきた空と同じくらいの強さがある。
「あの神の気は途絶えてしまったわね」
 そうつぶやいてレンカは辺りを見回した。六月も半ばとなれば、この寒い谷でさえ春の気配を含んでいる。光を浴びて輝く青々とした葉は、風の音にあわせて小刻みに揺れていた。
 だがそこに異変らしきものは見あたらなかった。
 先ほどまで五感を脅かす程に渦巻いていた気も、今はぴたりと止んでしまっている。
「そうだな。空間の歪みが激しいせいもあるだろうが、全く感じないとなると気を隠してしまったのだろう」
 答えるレーナの瞳には鋭さが宿っていて、何かを考えているようだった。レンカは息を吐き、怪訝そうな顔の滝とアースを一瞥する。
「仕方がない、二手にでも分かれて周囲を探ろう」
「そうね、ここで何かが起きたのには間違いないものね」
 レーナとレンカは目を合わせてうなずきあった。それからレンカは一呼吸置いて踵を返し、滝に歩み寄ってその腕を取る。
「行きましょう、時間をおくと手がかりがなくなってしまうわ」
「ああ、そうだな」
「レーナ、そっちは頼んだわよ?」
「了解、こちらは任せろ」
 彼女は一瞬だけ振り返り、不敵に微笑むレーナの姿を視界に収めた。何も注意を言ってこないところみると信頼されているのだろう。
「レンカ」
「ええ」
 滝とレンカも走り出し、何か小さな異変でもないかと神経をとがらせた。先ほどまで神の気は確かにあったのだから、何者かはいるはずなのである。
「神の気を装った魔族、って可能性はないんだよな?」
「ないはずよ。もしそういうことができるなら、神や魔族は気を絶対視しないはずだもの」
 二人はそう言葉を交わした。それをやり遂げてしまう少女と先ほどまで一緒にいたのだが、そのことをまだ彼らは知らない。
 時折立ち止まり辺りを見渡し、それからまた駆け出す。それを繰り返したが、しかし異変の種らしいものは見つからなかった。木々の隙間から見えるのは長さのまちまちな草と名も知れぬ黄色い花だけ。変化のない景色は、時間と距離の感覚を狂わせていく。
「滝?」
 だがあるところで彼が立ち止まっているのに、彼女は気づいた。右方を見ながら立ちつくす彼は、まるで何かに取り憑かれているようだ。
「ここに来たことがある」
「え?」
 彼のいる所まで戻ってみれば、その視線の先にはよく見なければわからない程の小道が続いていた。しかしだからといってその先に何かの気配があるわけではない。獣道のようなその周りには、小さな花が幾つか顔を覗かせているだけだ。それでも彼の双眸はその先を見据えている。
「きっとここだ」
「ちょっ、ちょっと滝!?」
 突然走り出した彼を、彼女は慌てて追いかけた。でこぼことした道は走りづらく、技でも使わない限りなかなか追いつけそうにはない。
 胸の奥のねとりとした嫌な気配が増大するのを、彼女は感じた。今朝感じた胸騒ぎがそのまま体中を駆けめぐっていくようだ。
「滝!」
 彼が再び立ちつくすのを彼女の目は捉えた。木の陰に隠れて背中は半分程しか見えないが、その先はややひらけた草原のようだ。
「ラウル……」
 かすれた声が耳に届いた。隣に立ち息を整えながら草原を見ると、そこには一人の男が座り込んでいた。地味であるはずなのに印象的な男だ。
 くすんだ金髪は無造作に肩に落ち、横顔でもわかる翡翠色の瞳は凛として空を捉えていた。生成色の簡素な服に軽く羽織った薄茶色の上着が、緑一面の中で浮き立っている。
「来たか」
 男が小さく言葉を発し、立ち上がった。背丈は滝と同じか、やや低いくらいであろう。無駄なものはそぎ落としたとでもいうような引き締まった体に、整った顔立ちだ。ただ瞳だけが妙に冷たく静かに光り、まるで世界を拒絶しているかのように見える。
「ラウル!? 何故!?」
「滝……いや、ヤマト。ようやくこのときが来た、待ちわびたぞ」
 驚愕する滝へその男――ラウルは冷や水のごとき双眸を向けた。滝は目を見開き、その場に呆然と立ちつくしている。
「滝?」
 レンカはそんな二人の間で視線をさまよわせた。何が起きてるのか、何が起ころうとしているのか、全く予想ができない。彼が何者なのかも。
 否。
 ただ一つだけわかることがあった。
 それは今ここにいるラウルという男が、神であるということだ。隠しているのかかすかにしか感じ取れないが、ここまで近づけば間違えることはない。この気は神のものである。
「剣を取れ」
 そう言い放ち、ラウルは動き出した。腰にぶら下げていた剣を手にして、大きく地を蹴る。
「ラウル!?」
 横薙ぎに向かってきた一撃を、滝は右へ飛んでかわした。だが続けて繰り出される剣の切っ先がいくつか、その上着をかすめ取っていく。
「剣を取れ、ヤマト!」
 ラウルは声を荒げた。飛び上がって後退した滝は、顔をゆがめたまま口を閉ざしている。彼が剣を手にしないのを見て、ラウルは冷笑を浮かべた。
「だからお前は甘いんだ。殺されてから悔いるのか? 死んでから不甲斐なさを嘆くのか?」
「なっ……」
「自分にもっと力があればと、後悔するのか? 馬鹿馬鹿しい。悩む前に戦え、これ以上オレを失望させるな」
 滝はただラウルの剣を避けているだけだった。
 レンカは、その光景を見つめているだけだった。
 想定外の出来事は思考を鈍らせてしまう。目の前の事態を頭が理解できずに、映像だけが流れていく。
「ラウルっ!」
 滝は必死に呼びかける。
「剣を取れっ」
 ラウルはただその言葉を繰り返す。
 そしてレンカは立ちつくす。
 先ほどまで静寂に満ちていた森が、一転して戦場と化した。ラウルの剣が草を切り裂き、空気を振るわせ、その鋭い声が辺りを揺るがせる。踏み荒らされた花々が散乱し、その花びらが時折空を舞った。
「何のためにお前を鍛えたと思っているっ」
 一瞬立ち止まって、ラウルが吠えた。同じく草原の端で立ち止まった滝が、息を整えながら怪訝そうに首を傾げる。
「ヤマトが弱くては意味がないからだ。私が剣を交えたいのは誉れ讃えられたヤマトであって、弱々しい技使いではない」
「――!?」
「だから剣を取れ、そうでなければ容赦なくオレはお前を殺す」
 ラウルが再び地を蹴った。手にした剣が淡く光り、滝へとめがけて弧を描く。滝はとっさに剣を取りだし、その一撃を受け止めた。耳障りな音が響き渡り、木々のざわめきを増長させる。
「そうだ、それでいい!」
 そうラウルが叫んだ時だった。
 突然何者かが二人の間に入り込み、交わっていた剣を引き離した。それはまるで風のように陰のように侵入してくると、ラウルに蹴りを入れて突き飛ばす。
「何やつ!?」
「レーナ!?」
 ラウルと滝の声が重なった。突き刺さるようなラウルの視線、驚いた滝の眼差し、そして呆気にとられているレンカの眼差しを受けて彼女は微笑む。
 小さな姿がやけに大きく見えた。
「ここらはかなり空間が歪んでるんだ、危険なことはやめてもらいたいな、神よ」
「何やつかと聞いている」
「彼の仲間、ただそれだけだ。できればここはひいてもらえないかな?」
 その言葉には強制させる響きが含まれていた。従わなければ殺すと、声も瞳も気も言っているかのようだ。実際彼女にはそれが可能だった。それがわかっているのだろう、ラウルは下唇を噛んで張りつめていた息をこぼす。
「別にここじゃなきゃいいというだけだ」
「レーナ!?」
「事実だ、実際」
 不敵に微笑む彼女を、滝は驚愕の瞳でもって、ラウルは神妙な顔で見据えた。事態を推し量っているのか、微動だにしないラウルは口を閉ざしたままだ。
「レーナ!」
 そこへアースも駆けつけてきた。彼は苛立ちを凝縮させた眼差しで、彼女の隣へと空から降り立つ。すると目的達成は不可能とでも判断したのか、ラウルはためらいもなく剣を下ろし、後方へと強く地を蹴った。そしてそのままさらに森の奥へと駆けていく。
「ラウル!」
「三日後、いつもの所だ。そこで待っている」
 振り向かずにラウルはそう言い残した。小さくなる背中は見る間に緑の中へと吸い込まれ、そのまま溶けるように消えていく。
 残されたのは呆然とする滝、レンカ、そして微笑みを崩さないレーナと、何が起こったのかわからないアースだけだった。静けさを取り戻した森は、風の舞いに誘われるかのように軽やかにざわめいている。
「とりあえず歪みは大分ましになったな。これで亜空間に繋がることもなさそうだ」
 言葉を失った面々の中で、レーナの落ち着いた声だけが時間の流れを告げていた。

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