white minds

第二十九章 過去からの使者‐5

 そ知らぬ顔をしてカップを持つレーナを、アースは見つめた。丁度朝ご飯の時刻が過ぎ、食堂にはまばらに人がいるくらいである。厨房からは片づけの音がひっきりなしに鼓膜を叩いていた。今はリンとシンが協力しあって、レンカの城であるそこを右往左往している。
「いいのか? 放っておいて」
 痺れを切らしてアースはそう尋ねた。不思議そうに小首を傾げたレーナは、彼の瞳をきょとりと見上げる。
「何がだ?」
「滝たち、それとあのおかしな神のことだ。このままでいいのか?」
 戻ってきても彼らは何一つ説明をしなかった。動揺してるのか滝もレンカもそれぞれ自室にこもっているし、レーナは一切口を開かなかった。そして不思議なことに梅花も尋ねなかった。だから今あの異変を知っているのはごく一握りの者である。
「ああ、それはいいんだ。我々が関与しても仕方のないことだし」
「しかし――!」
「我々が口出ししたら駄目なんだ、あれはあの二人が何とかしなくては」
 彼女は中身を飲み干した白いカップをテーブルに置いた。窓際の席はよく日が入り、それをカップの金のふちが反射して光っている。
 彼はうなった。彼女の言うことがわからない。考えれば考える程に、自分には足りない経験の差というものを思い知らされているようでならない。悔しくて下唇を噛み、反論の言葉を喉の奥へと押し込めた。
「確かに、戦力の中心に動揺されたらこちらとしてはまずいが。しかしだからといってわれが葬ってすむ話でもない。そんなことをすれば滝はあそこから抜け出せなくなる。それでは意味がないのだ、だから手は出さない」
 違うか、と問いかけながら微笑む彼女は全てを知っている風だった。だが実際は違うのだろう。人の過去をのぞき見ることなどできないのだから。
「我々にできるのは手助けだけだ」
「手助け?」
「彼らが好きなようにやれるための、手助け。おそらく神側は異変に気がついている。今度あの神が動き出せば放ってはおかないかもしれない」
 黒曜石のような瞳がすっと細くなった。思案するように口元に手を当てて、彼女は斜め下を見つめている。頬にかかる黒い髪がほんの少し揺れた。
「まあ気をつけるべきは三日後だがな。それまでは、とりあえず魔族の動向に注意を払っておくくらいだ」
 彼女は顔を上げるとすぐにまた笑みを浮かべた。春を思わせる清々しく暖かい笑みだ。彼は適当に相槌を打ちながらそれでも考える。本当にこのままでいいのかと。
「レーナーっ!」
 そこへ子どものような快活な呼び声が聞こえてきた。その方を振り向けば、今にも頬がこぼれるのではないかというくらいにこにことしてイレイが手を振っている。
「イレイ?」
「あのねあのねあのねー」
 訝しげに名前を呼ぶと、彼は嬉しそうにテーブルまでやってきた。ひっかかった椅子が音を立てるが全く気にしていないようである。
「梅花がね、レーナのこと呼んでるよ。聞きたいことあるって」
「ああ、なるほどな」
 テーブルに手をつくイレイに微笑み、彼女は立ち上がった。アースの怪訝な眼差しが彼女の姿を追う。
「聞かないでやってくれ、と目で合図したからな。これからどうするんだと聞きたいんだろう」
「目で合図? それでわかるのか?」
「われとオリジナルの仲だから」
 さらりと言いのける彼女を、彼は不満げに見つめた。面白くないことを耳にしてしまったと、その瞳は語っている。
「アース、ちょっと時間かかると思うがどうする? まだここにいるのか?」
「ん?」
 歩き出す途中で振り返った彼女へ、彼は一瞬不思議そうな視線を向けた。だがすぐにその質問の前提へと思いが行き、うっすらと微笑みを浮かべる。
「ああ、ここにいる」
「わかった」
 彼女は小さくうなずくと、再び背を向けて歩き始めた。
「本当仲いいよねえ」
 イレイの気の抜けた声がぽつりと、部屋に漂った。




 何故。どうして。
 先ほどからその言葉ばかりが頭の中をぐるぐると回っていた。消えては生まれ、生まれては消えていく疑問。だが頭の片隅では、おぼろげながら事態を認識してはいた。
「オレは、信じたくないだけ」
 滝の口からかすれた声がもれる。こんな午前に部屋にいることは珍しかったが、籠もるにはそこは最適だった。誰からの干渉を受けず、静寂に浸ることができる。
 小さな椅子に、彼は腰掛けた。
「そうだ、ラウルは言っていたじゃないか。弱いヤマトには用がないから鍛えたんだって」
 言い聞かせるようにつぶやくと、胸の奥の重さが増していく。あの時からラウルは、彼のことを『ヤマト』として見ていたのだ。彼自身も、神も、レーナも知らない時から、ヤマトがそこにいることに気がついていたのだ。
 出会ったのは、ずいぶん昔のことだった。
 奇病による混乱に、若長として対処し終えた丁度その後。彼がもうすぐ十四になる春のことだ。
 足りなくなった薬草を採りにナイダの谷へ足を踏み入れた時、ラウルはそこにいた。くすんだ金髪に翡翠色の瞳、二十代後半だろうと思われる男は草原にじっと座り込んでいた。そう、それは今朝見た姿と全く変わらない。氷のような双眸の内に熱を秘めたその男は、名を尋ねると「ラウルだ」と一言だけ答えた。
 それが始まり。
 頼るべき、目指すべき父という存在を失ったばかりの彼にとって、ラウルは第二の道標となった。どうして剣の相手をしてくれるようになったのか、その経緯を彼はよく覚えていない。だがある時放たれた言葉だけは今も耳にこびりついている。
『お前はものを考えすぎる。悩みは剣を、腕を鈍らせるだけだ。それではいつまでたっても望みは叶わないぞ』
『望み?』
『一つ、とても大きな望みを、思いをお前は持ってるはずだ。忘れているならオレはそれでいいが』
 その『望み』が何であるか彼はいまだに見当がつかなかった。ただ、その時は強くありたいと願っていた。もう少し早く動いていれば、早く飛べたなら、早く薬を届けることができたなら、両親は死なずにすんだかもしれない。奇病などに負けなかったかもしれない。
 そう心の奥底では思っていた。そんな自分がいかにうぬぼれているかも、わかっていた。
 でもそれは『望み』ではない。ラウルの言う『望み』ではない。確かに、強くならなければという、焦燥感にも似た思いはいまだに胸の内でくすぶってはいるが、それは違う気がする。
「でも……それも何もかも全て、オレをヤマトにしたかったからなんだ」
 強いヤマトに。
 彼が、弱かったから。
 額に手を当てると嫌な汗がにじんでいた。窓から差し込む光は清々しいのに、部屋の中には気持ちの悪い湿気が籠もっているように感じる。重心をずらせば椅子がギギッときしむ音がした。
 では何故、強いヤマトにしたかったのか?
 それは突然ある時突然姿を消してしまったことと関係があるのか?
 全ての答えは、今朝のラウルにあるのだと頭の片隅では理解していた。
『剣を取れ』
 ただそれだけを繰り返す。ラウルはヤマトと剣を交えたかったのだ。それ以上でも、それ以下でもなく。
「でも、それって、おかしいだろっ」
 ただ戦いたいがために一億年者月日を待っていたというのだろうか? 仲間から離れて一人きりでさまよっていたのだというのだろうか?
 そんなことがあるのだろうか?
「わからない……ラウル。一体ラウルの望みは何なんだ?」
 彼は手のひらで目を覆った。瞼の裏にはまだ光りが焼き付いており、それが赤、青、黄色と色とりどりに残像を作っている。
『じゃあラウルの望みって何なんだよ』
『オレの望みは……いずれわかるさ』
 だがその『いずれ』はまだやってきていない。ラウルの真意はいまだ海の奥深くに沈んだままである。
 時は流れども、二人の間にある距離は変わらず。
「オレは弱いままだ」
 吐き出した言葉が部屋の中へと溶け込んでいった。きしんだ椅子が悲鳴を上げ、思わず自嘲的な笑みがもれる。
 無意識に握られた拳は、かすかに震えていた。

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