white minds

第二十九章 過去からの使者‐6

 いつも通りの時が戻ったかのような錯覚があった。
 昼時を越えた食堂は騒がしさの余韻を漂わせ、人のいた熱気をほんの少し含んでいる。
 規則的な水音、皿の重なり合う小さな音が耳に心地よかった。普段の、何もなかったかのような時間が、心に染み込んで穏やかな色をもたらしてくれる。
「何かあったのか? レンカ」
 そんな時不意にかけられた声に、彼女は顔を上げた。カウンター越しに覗けば、水の入ったコップを片手にしたホシワが怪訝そうにしている。
「え?」
「いつもの落ち着きがない。何というか、心がすぐどこかへ飛んでいる」
 そう言うホシワを、彼女はまじまじと見つめた。普段は穏やかな表情しか覗かせない勿忘草色の瞳が、今は不思議と鋭い光を宿している。ここ最近では見かけない顔だ。
 彼は、物静かな男だった。ストロングの中で一番の年上ということもあり、突っ走りがちなミツバやダンをよくいさめてくれていた。だが自分から会話に参加することはあまりない。いつも少し離れたところで穏やかに微笑みながら、楽しそうにする皆を見守っていた。
 そう、もうともに過ごして五年になるのだ。そう簡単には隠し切れるものではないらしい。
 彼女は不意にこみ上げるおかしさを押し殺し、口を開いた。
「ホシワには敵わないわねえ」
「そうか?」
「ええ、困ったものよ」
 彼女は揺れる髪を肩の後ろへとやり、ほんの少し笑い声をもらす。隠すつもりでもなかったが、こんなごたごたには気づかれない方がよかった。気にかけるべきことは他にもたくさんあるのだから。
「滝のことか?」
「まあそうね。でも昔のことよ」
 問いかける彼に、彼女はあっさりとうなずく。今さら繕う気にはなれなかった。それでも曖昧に濁したのは、せめてものあらがいか。
「その昔というのが、一番やっかいなんだよな」
 彼の言葉は、重かった。確かにそうだ。過去というのは変えられず、それでいて今を浸食しようとどこからともなく忍び寄ってくる。
 あのラウルという神のことも、ヤマトやリシヤのことも、全てはどうにもできない過去の出来事。故に確固たる地位を得たそれは、揺らいでいる今という時へ襲いかかってくる。
「きっと昔は、忘れ去られたくないんだろう」
「……え?」
 唐突なホシワの言葉に、レンカは気の抜けた声を上げた。穏やかな勿忘草色の瞳が、彼女を真正面から見据えている。
「誰だって忘れられたくないだろう? 消えようとしてるならなおさらに。昔も、きっとそうじゃないのかな、ってな。だから時々ふと戻ってくるんじゃないかって」
 そう説明して恥ずかしそうに微笑む彼には、人を安心させる力があった。ふっと肩の力を抜き、彼女はいたずらっぽく微笑む。
「あらホシワ、何だか詩人さんみたいね? じゃあ過去の居場所をきちんと作ってあげないと駄目かしら」
「特等席じゃないとな」
「我が侭なのね」
 二人は笑い合った。先ほどまで重くのしかかっていたものが、少し軽くなったように彼女は思った。彼のこうした何気ない気遣いにはいつも助けられている。
「ありがとう、ホシワ」
「オレもたまにはお喋りしないと、口周りの筋肉が退化するからな」
「食事してるんだから、そんな心配はいらないわよ」
 彼女がそう言うと、彼はおもむろに立ち上がった。大きな体を見上げるようにして、彼女は首を傾げる。
「ホシワ?」
「長居すると片づけの邪魔になるからな。それにそろそろダンたちの所に顔を出さないと、何してるかわからない」
「あら、いまだに続いてるのね」
「上がしっかりしていればな、下は自由なんだ」
 意味ありげに微笑んで去っていく後ろ姿を、彼女は見つめた。それからすぐに水を止めると、厨房を出てカウンターへと足を運ぶ。
「私もあなたも、詰めが甘いのよねえ」
 彼が先ほどまで手にしていたコップを持ち上げて、彼女は口角を上げた。
 廊下からはゆっくりとした足音が、かすかに響いていた。




 その日も天気のよい朝だった。部屋には光が差し込み、外を映し出したモニターにはまばゆい世界が描き出されている。風に揺れる青々とした草原、青空に浮かぶ雲はゆったりとした動きでその形を変えていた。何もない平和な世界なら今すぐにでも出かけていきたい光景だ。
「今日で、三日目」
 そんな景色を眺めつつ、吐息混じりに梅花はつぶやいた。ラウルが突然現れてから三日、丁度約束の日である。何かが起きるとしたら今日なのだ。
 結局、彼女は全ての事情を聞いてしまった。
 もともとレーナは隠すつもりでもなかったのか、聞けばあっさりと答えてくれた。聞かなければ教えるつもりもなかったのだろうが。
「宇宙からの連絡も全くないのに……」
 思わずため息がもれそうだった。ファラールへ向かったシリウス率いる神技隊らの動向は、今のところ全くわかっていない。無事辿り着いたのかすら定かではなかった。アルティードたちのところにも連絡はいっていないらしい。
 何かあったのだろうか?
 だが魔族が本格的に動き出した気配もまだなかった。故に誰もがただひたすら反応があるのを待つのみなのである。
「レーナは本来の力取り戻したから余裕なのかもしれないけどねえ」
 自分の声がかなり疲れていることに気づき、彼女は苦笑した。宇宙組のこと、滝たちのこと、神々のこと、魔族のこと、あれこれと考えて知らぬ間に消耗しているらしい。
「まだまだなのね」
 目指す高みへ距離があるようだ。一人きりの司令室で、彼女は乾いた微笑みを浮かべる。
 何かが自分には足りないと、何かが欠けていると思えて仕方がなかった。心の隙間は次第に埋まってきているが、それでも決定的なものが欠如している気がする。
「梅花!」
 そこへ突然扉が開き、聞き慣れた声が背後から響いた。頭だけ振り返れば、顔をしかめた青葉が一目散にやってくる姿がある。彼女は不思議そうに席から立ち上がった。
「青葉?」
 どうしたのかと尋ねる言葉は続かなかった。突然彼に抱きしめられて、彼女はわけがわからず瞬きをする。背中に回された腕には力が込められ、息が詰まりそうだった。
「一人で待機してるとか聞いたから慌てて来た」
「……え?」
「お前一人にするのって何か嫌なんだよなあ」
 そう言われて今度は言葉に詰まった。今彼がどんな表情をしてるかはわからないが、たぶん心配しているのだろう。触れる体温が温かい。彼女は微苦笑をもらし彼の背を軽く叩いた。
「もう、前とは違うんだから大丈夫よ。アースにでも感化されたの?」
「んなわけないだろう。薄情な滝にいたちがいないって聞いたから、手伝いに来たんだって」
「薄情って……滝先輩たちだって疲れてるのよ。ずっと張りつめてたんだから」
 彼女はどきりとした。滝たちがいないのは、おそらくラウルとのことを迷っているからだ。まだその気は基地内にあるが、いつも真っ直ぐ来る司令室には顔を出していない。
 突っ走り屋の青葉には言えないなと彼女は思った。どういう考えに行き着くかは知らないが、予想外な動きをする可能性がある。
「まあ、二人きりになれるんだから嬉しいっちゃ嬉しいけど」
 腕の力を弱めて、彼は彼女の顔を覗き込んだ。それから額にキスを落とすと、満面の笑顔を浮かべる。
 やや頬を染めて彼女は小首を傾げた。今日一日のことを思うと、二人きりというのはなかなか動きづらい状況である。
「えっと……あのね青葉、他にも誰か呼んできてほしいんだけど」
「何故っ!? 何でオレがそんなことしなきゃいけないわけっ!? そんなにオレと二人っきりになるのが嫌かよ!?」
 かすかに残る望みにかけてそう提案してみると、彼は大げさな動作でのけぞった。不満を通り越して相当の衝撃らしい。
「そ、そういうわけじゃないんだけどっ」
「わ、わかった。何もしないから二人きりな。誰も呼ばないからな。それならいいだろう?」
「え? あ……うん」
 肩をがっちりと掴まれて彼女は曖昧な顔をした。だが無理矢理口角を上げて、微笑みらしいものを作り出す。
 同時に彼女の鋭敏な感覚は捉えていた。
 周到に隠してはいるが、たった今滝が基地を飛び出していったのを。迷うことなく彼の気は、真っ直ぐリシヤの森の端を目指している。
 フォローはレーナに任せるしかないかしら。
 ちらりと画面越しの草原を見やり、彼女は内心でつぶやいた。
 抜けるような空に浮かんだ雲は、今も不規則にその形を変えていた。

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