white minds

第二十九章 過去からの使者‐8

 額に冷たいものを感じてラウジングは目を覚ました。どうやら気絶していたらしいと気づき、目の前にいる人物をはっとして見上げる。
「大丈夫? ラウジング」
 そこにいたのはレンカだった。心配そうな顔でその華奢な手のひらを、彼に額にのせている。芯のある瞳を間近に見て、彼は慌てて視線を辺りにさまよわせた。辺りに人影らしきものはない。
「わ、私は――」
「レーナに吹っ飛ばされてその後一撃食らっちゃったみたいよ。あ、レーナは今他の神を相手してる……というか暴れるアースを制御してるというか」
 苦笑する彼女へ彼は眼差しを戻した。安堵したように彼女は一度うなずき、それからすぐに立ち上がる。周囲の様子を確認しているようだ。軽やかに揺れる茶色い髪が彼の瞳を奪う。
「お前たちは、何がしたいんだ?」
 背中の痛みに顔をゆがめながら、彼はよろよろと腰を上げた。髪を手で押さえ、彼女は目だけを彼へと向ける。
「私はただ滝の好きなようにさせたいだけ」
 毅然とした言葉に、彼は息を呑んだ。彼女の瞳は真っ直ぐで迷いがなく、どこまでも透き通っているようだ。強い。それだけを思う。自分の中で何かが揺れるのを彼は感じ取った。
 遠くから、かすかな爆音が耳に届いた。どうやら一緒に連れてきた神の何人かがやられているらしい。相手があのレーナたちであると考えれば、それも仕方がないことだった。もともと勝つためではなく、引き下がらせるためだけにやってきたのだから。
「それだけのためにか?」
「それだけ? 私には十分よ」
 揺らぎを振り払うように問いかければ、率直な答えが返ってきた。
 彼女の微笑みに何故か恐怖を感じた。真っ直ぐ過ぎる強さは心の底から畏敬を呼び起こす。自分には到底触れられない何かを目の前にしたような気分だ。彼女から視線をそらせず、彼は立ちつくす。
 あれは勘違いでも噂でもなかったのだ。
 彼女は確かに、皆が待ち望んだリシヤだ。
「あなたたちこそ、どうして邪魔しようとするの? こんなところで戦ったらまずいから? 戦力を消耗しちゃうから? それとも名誉に関わるから?」
 小首を傾げて彼女が尋ねた。それは全てもう見透かしたかのような顔だ。答える術のない彼は口を閉ざすしかない。胸の奥がぎりりと痛むような気がした。
「私はただ……命を受けただけだ」
「そうよね。ごめんなさい、こんなこと聞いて。だからレーナは足止めだけしておけ、って言ってたんだものね」
 彼女はくすりと笑い声をもらした。やはりわかっていたのかと思うと同時に彼ははっとする。そして再び慌てて辺りに視線をさまよわせた。
「あれからどれだけたったんだ!?」
「さあねえ。私にもよくわからないわ。でもそろそろ決着が付く頃じゃないかしら? あなたがずっと気絶していたおかげで、私の仕事はほとんどなかったわ」
 彼女の言葉に吐息がもれた。悔しいのかほっとしているのか、彼自身にもわからなかった。逆らえない産の神からの命令、止めるためとはいえ同じ神と刃を交えなければならない戸惑い、任務の失敗。様々なことが頭をよぎり、何を口にしたらいいのかわからなくなる。
 だがそれらを全て彼女が、彼女たちが見抜いていたことは確かだった。
 そしてそのことが何より恐ろしくてならなかった。
「これが……転生神か」
「ん? どうかしたの? ラウジング」
「いいや。まあ失敗をなじられるのは慣れているからいい、と思っただけだ」
 彼は適当に言葉を濁した。だが幸いにも彼女はそれ以上追及せず、抜けるような空を見上げ目を細めている。
 気づけば爆音は止んでいた。時折聞こえるのは刃が交わった時の耳障りな音だけだ。ラウルと滝は、まだ戦闘を続けているらしい。
「勝ってね、滝。私はリシヤを受け入れたから」
 小さく彼女がつぶやくのを、彼の耳は捉えた。天を仰ぐようにするその瞳には何が映っているのだろうか? 見上げた先には青々とした空とうっすらかかった雲しかない。
 彼は小さく、吐息をこぼした。
 まだ遠くからは耳障りな音が、思い出したかのように感覚を刺激していた。




 知らぬ間ににじんでいた汗が、額から落ちていった。速くなる呼吸、心臓の鼓動を頭の片隅で意識する。
 このままでは負ける。
 それを滝は悟った。体力ではわずかながらラウルの方が上回っていた。このまま戦闘が長引けば、じわじわと押されていくだろう。
 でも負けるわけにはいかない。それでは意味がないのだ。
 自らに言い聞かせる声が、胸中に響いた。
 ラウルは『ヤマト』という過去にとらわれていた。だが同じ道を歩もうとは思わなかった。拒絶するのではなく、取り込まれるのではなく、受け入れなければ。そうでなければ先へ進めない。
 滝は柄を握る手に力を込めた。ラウルの一撃を紙一重で避け、重心を下げる。そしてそのまま剣を振り上げた。
「ちっ!」
 ラウルの舌打ちが鼓膜を振るわせた。剣の切っ先が袖を切り裂き、ほんの少し赤い飛沫を生み出す。だが二激目は剣で受け流され、その体を捉えることはなかった。耳障りな音が脳をぐらりと揺さぶる。
「やるな」
 ラウルが一旦大きく下がった。距離をとり構えるその様を、滝は目に焼き付ける。
 やはりそうだ、不利になるとすぐラウルは後退する。がむしゃらさが欠けるその姿勢には慎重さが見え隠れしていた。だからこそ決定打を浴びせることも、浴びせられることもないのだが。
「オレは――」
 滝は強く地を蹴った。地面からはぎ取られた草が空を舞い、風に流され飛んでいく。
「守りたいから強くなるっ」
 しかし剣は空を薙いだだけだった。間一髪よけたラウルと滝の視線が交錯する。
 オレは退かない。
 ラウルの一撃が左腕をかすめていった。だがそれでも滝はかまわず、さらに重心を下げて剣を振り上げた。
 一瞬、剣を覆う光が強くなる。そのまばゆさにか、ラウルが咄嗟に目を細めた。それを滝は見逃さなかった。
「失えないもの、それは誇りじゃないっ」
 振り下ろした剣はラウルの左肩深くにめり込んだ。
 血しぶきが、青々とした草を染める。臭いが、音が、色が、一瞬で変わった。飛沫の飛んだ頬を拳でぬぐい、沈みゆくラウルを滝は見下ろした。
 膝をついたラウルは、それでも剣を支えに倒れるのだけは堪えていた。
「オレは、技は使ってない」
「そうだな」
 滝の言葉に、顔を上げずにラウルはそう答えた。血の付いた髪で隠され、表情はわからない。
 一瞬の間があった。
 それからよろよろとラウルは頭をもたげた。いまだ活気を失っていない翡翠色の瞳を、滝は真正面から見下ろす。風に揺れる木の葉がざわめきを生み出した。
「とどめはどうした?」
「ラウルが剣を握り直すよりオレが剣を振り下ろす方が早い」
「相変わらず甘いな」
「どっちがだ。ラウルがやりたかったのは殺し合いじゃないだろう? それぐらいオレだってわかる」
 ふっと、ラウルが表情をゆるめた。それから堰を切ったように笑い出すと、右手で額をおさえた。突然のことに滝は困惑し、眉をひそめながら首を傾げる。しばらく笑い声は続いていた。
「そうだな、オレは殺し合いが大嫌いだ。だから奴らから離れたんだ」
「奴らって……神?」
「そうだ。人生全てをかけてやるのが殺し合い、いつ終わるかもわからない殺し合いだ。今のお前にわかるか? ただ相手を葬り去ることだけを考えて生きる時間など」
 翡翠色の瞳の中に、滝は寂しさを読みとった。笑みの形に歪んだ唇からは不規則な息がもれている。苦しいのだとわかるが、滝にはどうしようもなかった。治癒の技はどちらも使えない。
「ただオレは戦えればよかったんだ。剣を打ち合うことが好きだった、強くなるのが嬉しかった。だが奴らはそれを許さなかった。殺し合いを求めた。魔族を殺せ、そうでなければ意味がないと。生きるために生きている時間を費やせと言ってきた。まったく馬鹿げている」
 生きるために生きる時間を費やす。
 その言葉は滝の胸に突き刺さった。確かにそうだ、生き残るためにと自由な時間を、自由な心を押し殺さねばならないのは事実である。失ったものも多い。
 だが――――
「それでラウルは神の界を飛び出したのか?」
「そうだ。おれにとって神が、世界が滅びることなどどうでもよかった。そのために殺し合いをする気などなかった。ただオレは、ヤマトと戦うことだけを夢見ていた。まあヤマトはその殺し合いに明け暮れていたがな」
「一人だったんだな、ラウルは」
 それでもいいと、犠牲になってもいいと滝は思った。
 大切な人がいるのに、失ってはいけない人がいるのに、何もしないでいるわけにはいかなかった。
「なに?」
 ラウルの表情に陰ができる。滝はゆっくりと口を開いた。
「守りたいものがあれば、逃げ出したりはできない。飛び出しても後悔するだけだ。たとえ今という時間が犠牲になっても、守りたいものを失うくらいならオレはそれでいい。後で嘆くくらいならその方がいい」
 再びラウルの笑い声が響いた。だがそれは乾いた笑いだった。哄笑するその姿を滝はじっと見下ろす。寂しい人なのだと、孤独な人なのだと思った。
「そうだ、オレは一人だ。気づけば生まれ、気づけば放られていた神の一人だ。家族も何もない、一人の神だ。リシヤがいるお前とは違う」
 二人の視線が交錯した。射抜くようなラウルの眼差しを、滝は正面から受け止める。あまりにも痛々しくて息が詰まりそうだった。だがそれを堪え、滝は表情を変えずに唇を動かす。
「ラウルは単に羨ましかっただけだろう。それで拗ねてるんだ」
「なっ! 何を馬鹿なことを」
「だってそうだろう? 誰だって殺し合いなんかしたくない。でも失う恐怖の方が大きいから戦ってるだけだ。逃げ出せないだけだ。ただラウルを縛る物はなかったから、だから飛び出した。見ていたくないから」
 皆の中でいる孤独よりも、一人でいる孤独を選んだのだ。しかしそれを責める気は彼にはなかった。神だからという理由で戦いを強いる権利など、誰にもないと思うから。
「お前は常に自分を犠牲にしてきた」
 ラウルの言葉が痛かった。それは出会った頃から変わらず胸の奥にあり続けている思い。言いたいことを言わず、我慢して我慢し続けてきた小さなひずみ。
「そう、オレはずっと自分を押し殺してきた」
「これからもか?」
「これからも。だけど、全部を押し殺してるわけじゃない。オレは自由を捨てて居場所を得ただけだ。ラウルとは違う道を選んだだけだ」
 完全な自由とは孤独だと、滝は思う。隣に大切な人がいる幸せを手放さないためなら、少しぐらい窮屈でも平気だった。だから戦う道を選んだのだ。受け入れる道を、選んだのだ。
「そうか……」
 ゆっくりとラウルは立ち上がった。肩から溢れ出す血は今も薄茶色の上着を染め、鼻につく臭いを発している。青い顔をしたまま背を向けると、彼は歩き出した。一歩一歩土を踏みしめるように、ゆっくりと進んでいく。
「ラウル……」
「一つ、いいことを教えてやろう」
 呼びかけたところで、ラウルは頭だけで振り返った。不思議な笑みを浮かべた彼を、滝は訝しげに見つめ返す。
「オレはヤマトを、リシヤを、よく見ていた」
 そう口にするラウルの表情は、先ほどまでとは違っていた。まるでつき物が取れたような清々しさがある。滝は言葉の続きを神妙な気持ちで待った。
「リシヤは死の直前、どうやらいくらか記憶を取り戻したようだった。その時既にヤマトはいなかったがな。五腹心と差し違えた後、数日で息絶えたのだから。彼女が気丈に振るまいながらも、ある言葉をつぶやいていたのを、オレは知っている」
 ラウルは疲れた顔にうっすらとした微笑みを貼り付けた。風に揺れる髪が、一瞬その瞳を覆い隠す。
「これじゃあ足りないと、みんなはどこにいったのかと、そう彼女はつぶやいていた。そして嘆いていた。あの子はどうしてしまったのかと、どうして来てくれないのかと」
 背筋を何か衝撃が駆け抜けていくのを、滝は感じた。脳を直接揺さぶられたような、ひどい頭痛がする。声が聞こえてくるようだった。打ちひしがれる彼女の声が、すぐそこから。耳の奥がずきずきと痛み始めた。
「転生神は六人だけではない」
 ラウルの言葉に、滝はうなずいた。そうだ、記憶の中には確かに忘れてはならない何かが埋もれていた。それは確実に訴えているのだ。今もこうやって、切実な声を上げている。
 痛みを堪えて滝は何とか息を整えた。
「それだけだ」
 満足したようにラウルは再び歩き出した。緑の中、その背中が少しずつ小さくなっていく。
「ラウルっ」
「何だ?」
「これからどうするんだ?」
 呼びかけに、今度はラウルは振り向かなかった。ただほんの少し立ち止まって、だらしなく下げていた剣を腰に収める。かすかに金属の触れ合う音がした。
「次の目的を探す、それだけだ。お前はそのままお前の道を行け」
 ラウルはそれ以上は何も言わなかった。遠ざかる背を滝は静かに見送り、言い損ねた言葉を心の中で繰り返す。
 さようなら。
 口にすれば溶けてしまうような言葉を、彼は唱えた。それが本当は何に向けられたものなのか、彼自身にもわからない。だがこれで一つ何かが去っていったことは確かだった。
「さあ、そろそろ戻らなきゃな」
 微苦笑を浮かべて、彼は踵を返した。
 木の枝を離れた葉が一枚、その横を擦り抜けていった。

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