white minds

第二十九章 過去からの使者‐9

 屋上から眺める景色は壮大だった。緩やかに広がる草原の向こうには、山や、町や、空が続いている。手摺りにもたれかかりそれを眺めながら、レーナはくすりと笑い声をもらした。湿り気を含んだ柔らかい風が、頬を、髪を優しく撫でていく。
「しかしまさかここまで何事も起こらないとはな」
 彼女の隣で、苦笑気味にアースがつぶやいた。手摺りに背をあずけた彼は半ば呆れた顔で空を仰いでいる。
「そうだな。まあそれもレンカのおかげかな」
 小さく彼女はうなずいた。同じように見上げれば、はるか彼方にある空の青さに、雲のまぶしさに、目がくらみそうになる。瞼を落とせば焼き付いた光が、黒い世界を色づけた。
「おかげ?」
 だが彼女の言葉の意味がわからず、彼は怪訝そうな視線を投げかけた。それに気づいて小首を傾げ、彼女は双眸を向ける。長い髪がふわりと舞い上がり、風の中を漂った。
「ラウジングをうまく丸め込んでくれたようだから。このままうまくいけば我々までお咎めが来ることはなさそうだよ」
「ラウジング? ああ、あいつか。よくそんなことできたな」
「好かれてるというのは何事も有利なのさ」
 彼女はいたずらっぽく微笑んだ。何となく背中にむずがゆさを覚えた彼は、その手を伸ばして彼女の頭を静かに撫でる。不思議そうな眼差しが彼へと向けられた。だが彼はそれには触れず、素直な疑問を口に出した。
「好かれてる?」
「と、われは思うぞ? 少なくともわれよりは五百倍くらい好かれてるだろう」
 彼女も素直にそう答えた。しかしそれはさらに彼の混乱を深めたようだった。頭の上を往復していた手のひらを肩へと下ろして、彼はそのまま小さな体を引き寄せる。
「お前が嫌われるという感覚がよくわからないんだが?」
「いや、嫌われてるのは事実だし。たぶん今回のことでさらに数倍嫌われただろう。というか苦手に思われてるな」
 間近にある瞳を見上げて、彼女は微苦笑を浮かべた。彼は眉根を寄せて、肩にやった手に力を込める。華奢な体が一瞬震え、困ったような眼差しが彼へと向けられた。だが彼はまた何も言わなかった。
「お前が怒るなよ。うーんほら、われって良くも悪くも目立つし、意味不明なことするとか思われがちだから。恐れられたりとか。だから好かれると同じくらい嫌われてると思うんだ」
「だとしたら」
 彼は軽くその額に口づけを落とした。
「お前は誰かに相当嫌われてるってことになるな」
「え?」
「われがこんなに好きなのだから」
 彼女が身を固くするのが、彼にもわかった。返答に詰まっているらしく、斜め下を右往左往する瞳が見慣れない程不安げだ。
「あ、あのな、アース。たぶん我々って会ってから……というか今のわれが生まれてから、まだ二十日もたっていないと思うのだが」
「そうだな。だが好きで好きで仕方ないのはどうしようもない」
「……どんどん直球になってるし」
 おそるおそる彼女は顔を上げた。何故困っているのかわからないと言いたげな彼は、仏頂面のままその瞳を覗き込む。右手の指先が、彼女の輪郭をなぞった。
「前の代とか、そういうこと気にしてるのか?」
「それは……気にしないことにした。どうしようもないことだし。それでもやっぱりちょっと戸惑うけど」
「何故だ?」
「だって同じなのに違って、違うのに同じだから」
 彼女は寂しそうに笑った。今度は彼が言葉に詰まり、顔をしかめたまま奥歯を強く噛みしめる。どうしてこんなにも大切な記憶が彼女にはあって自分にはないのだろうと、こんな時程感じずにはいられなかった。優しい風すら何の慰めにもならない。
「まあこんなこと、アースに言っても仕方ないんだけどな。だからもうやめる。今ここにいるお前を、われが好きだってことには変わりないんだし」
 彼の思考は一瞬止まった。すぐそこにある彼女の眼差しが、先ほどよりもずっと温かだった。肩にやった手に思わず力が入り、さらにその距離が縮まる。
 だが彼が次に言葉を放つことはなかった。
「おーい、レーナっ!」
 呼び声が、二人の意識を屋上出入り口の方へと引き戻した。
 そこには叫んでから何かに気づき、あからさまに顔をひきつらせているカイキの姿がある。彼女は力の抜けた彼の手をのけて、ゆっくりと小首を傾げた。
「カイキ、どうかしたのか?」
「あ、う、い、いや……梅花が、下で呼んでるんだ。なんか、宇宙から連絡が入ったみたいで」
「そうか、わかった。ありがとうな」
 彼女はにこやかにそう言ったが、カイキの表情が和らぐことはなかった。それも仕方あるまい、不機嫌一直線の道を歩むアースがすぐそこにいるのだから。
「それじゃあアース、行こうか。どうやらあまりよろしくない報告があるようだ」
 その言葉に、彼はただ小さく相槌を打った。
 立ちつくすカイキの瞳は、細かく揺れていた。




 基地に残った神技隊全員が、司令室には集まっていた。人数だけ考えれば窮屈なことはないのだが、それでも今は独特の緊張感が居心地の悪さを生み出している。滝とレンカもいたが、何かがあったことを匂わせる風な様子ではなかった。むしろ今まで以上の決意を秘めたおかげか、その瞳には威厳すら感じられる程だ。
 そこへレーナ、アース、遅れてカイキが入ってきた。皆の視線を受けて一度軽やかに微笑むと、レーナは真っ直ぐモニターへと双眸を向ける。
 画面の中には予想通り、神妙な顔をしたシリウスがいた。
 白い肌には疲労が若干滲み出ていて、宇宙での活動が好調ではないことを表している。彼女の姿を認めて、彼の口がかすかに動いた。吐息の後に発せられたのは、陳謝の言葉だった。
「連絡が遅れてすまなかった」
「それは他の神技隊に言ってくれ。で、あまりよくない報告なんだろう?」
 二人の視線が画面越しにぶつかり合った。率直に言えと告げる黒い瞳は、全てを読みとっているようだ。時間のない彼にとってはありがたい。
「ああ、私の手落ちだ。調査中に神技隊の一部が人間に囚われた。おそらく金で雇われた者たちだろうが、予想以上に規模が大きい」
 やや歪んだ顔で口にされた事実に、神技隊の中に動揺が走った。その様子を視界の端に収めながら、彼女はかすかに顔をしかめて腕組みをする。
「なるほど、それはやっかいだな。手がかりは全くないのか?」
「あるにはあるが、人海戦術が必要だ。おそらくこの星の半分程の人間は、魔族側についてるだろう」
 彼女は小さく嘆息した。周りでは驚きを隠せない神技隊が、何も言えずにその場に立ちつくしている。嫌な空気だ。おそらくまだ彼らは事の重大さを理解してないはずだが、それでも感じるものはあるのだろう。彼女は一度長い前髪をかき上げて、モニターの中をじっと見据えた。
「プレインか」
「だろう。この状況でレシガやイーストは動かない。オルフェを失ったブラストは、まだ立ち直っていないだろうしな」
「そうか。だとするとさらにやっかいだな。人間や魔族もろとも葬り去る気かもしれない」
 シリウスの言葉が、ずしりと司令室に重くのしかかった。青ざめた数人が救いを求めるように、レーナへと視線を送る。
 おそらくプレインもオルフェのことを耳にしているのだろう。だからこそ迷うことなく、作戦を変更したのだ。
「レーナ、どういうことなんだ? 魔族が狙ってるのは地球じゃないのか?」
 沈んだ空気の中、滝が意を決してそう尋ねた。彼女はちらりと目線をやって、優しげな微苦笑を浮かべる。
「奴らの狙いは高位の魔族の復活だ。そのためにこの地球にある鍵を刺激するか、エネルギーを集めているのだが。どうやら後者へ路線を変えたらしい。いや、変えたふりかもしれないがな」
 彼女は腕組みをし、考え込むように大きく息を吐き出した。だがなお疑問の晴れない滝は、訝しげな顔のまま口を開く。
「変えた? それでどうしてもろとも葬り去るなんてことになるんだ」
「不安や恐怖、絶望は大きな負のエネルギーとなる。それを大量に集める気だろう。無策にも近い強行だが、焦っているから手段を選んでないんだ」
 それは怖いことだと彼女は知っていた。なりふり構わなくなった五腹心など、今まで聞いたことがない。つまり予測不可能だということだ。下手をすれば取り返しのつかないことになる。
「奴らにとって時間とは欲しいが惜しいものだ。そうだろう? シリウス」
「ああ」
「行くしか、ないかな」
 一瞬、時が止まった。シリウスは瞳を瞬かせ、滝たちは息を呑んだ。いつの間にやらレーナの顔には不敵な笑みが浮かんでいて、それが不思議なくらい辺りの空気を変えている。
「今のオリジナルなら結界を強化できる」
「ちょっ、ちょっと待てよ、レーナ。それってつまりオレらも宇宙へ出るってことか?」
 慌てて声を上げたのは青葉だった。彼は梅花をちらりと見ると、顔をしかめながらレーナへと詰め寄る。その瞳を見上げるようにして、レーナは微笑んだ。春の穏やかさをたたえながらそれでも心の強さを匂わせる、いつ見ても不思議な微笑だ。
「そうだ。今の我々ならそれも可能だ」
「でも、産の神がそれを許すとは思わないぞ?」
 青葉はちらりと画面越しにシリウスを見上げた。彼も同意見なのか、複雑そうな顔で小さく相槌を打っている。様々な動揺が入り混じった室内には、不思議なざわめきが生じていた。そんな中でひょうひょうとした様子のレーナは、依然として底の知れない笑顔を浮かべている。
「だろうな。だが許される必要はない。勝手に行けばいいんだ」
「無茶だろ!? 大体、どうやって行くんだよ。いくらオレらが強くなったっていっても、船がなけりゃあどうしようもないじゃないかっ」
 青葉は声を荒げた。不安と、口にできない恐怖がその体を駆け抜けていた。何か未知なるものが目の前にある、そんな気分だ。いつの間にか傍にやってきていた梅花が、そんな彼の腕を取る。
「船? 船ならここにある」
 レーナは自分の真下を指さした。皆が、それにつられて床を見下ろす。
「まさかこの基地が、ただの基地だなんて思ってないだろうな?」
 その言葉に、答えられる者は誰もいなかった。

◆前のページ◆   目次   ◆次のページ◆



このページにしおりを挟む