white minds
第三十一章 証‐5
目の前の景色が揺らいでいた。崩れ落ちる屋根の輪郭もえぐれた地面の跡も、はっきりとはしなかった。
背後からは子どもの泣き声がひっきりなしに続き、ともすれば落ちそうになる意識を繋ぎ止めている。母を求める声が痛々しい。
あれからどれだけの時間がたったのだろう?
そうミツバは自問した。あちらこちらから上がる煙のせいで、空との境が曖昧だった。太陽も見えないため、おおよその時を予想することもできない。
「大丈夫か? ミツバ」
何度目かになる言葉を、ホシワが口にした。普段なら笑いながら、平気だよと答えるところだ。だが今の彼にはうなずくことしかできなかった。
体力も集中力も切れかけている。
すぐ横にいるはずのホシワの気も遠かった。どうやら感覚も麻痺しかけているらしい。
今ホシワはどんな顔をしているのだろう? やはりいつものように穏やかに微笑んで心配しているのだろうか?
ふとミツバは気になった。だが首を彼の方に向けるのさえ今は辛かった。体が悲鳴を上げているようだ。立っているのさえ精一杯で足が震えそうになる。
もう限界だよ、と言えたらどれだけ楽だろうか。ミツバは心中でつぶやき苦笑した。それはすなわち死を受け入れることと同じだ。全てを諦めるのと、同じだ。
「大丈夫、結界はまだもつよ」
かすれた声をミツバは発した。後ろにいる人間たちを結界で囲む、近づいてくる魔族をなぎ倒す。ただそれだけのことしか彼はしていなかった。だがそれでも限界は近かった。
数が多すぎる。
魔族も、そして人間も。
やはり星一つをこの人数で守るだなんて無理だったのだ。はなから無謀なことを考えていたのだ。
精神の消費が激しいせいなのか、全ての感覚が希薄になっていた。それでも子どもの泣きわめく声のおかげで、かろうじて正気を手放さずにいる。
魔族の姿が視界に入った。灰色のマントで体を覆っている、何度も見かけた姿だ。
横にいたホシワが真っ先に地を蹴る。
「え?」
ミツバは瞳を瞬かせた。
魔族へ飛びかかったホシワの体が、ぐらりと傾いだ。あれは重力に逆らっていない動きだ。ただよろけたわけではない。ずっと一緒に戦ってきたのだから、それくらいはわかる。
嘘だ。
今までホシワは弱音を一言も漏らさなかった。顔色だっていつも通りだったはずだ。あんな魔族にやられるわけがない。
ホシワの大きな体が、音を立てて地面へと落ちた。それと同時に向かい合っていた魔族が、光の粒子となって消えた。
相打ち。
そんな言葉が頭をよぎる。だがまだ魔族はいるのだ。姿が見えないだけで、空にも崩れた家々の影にも彼らは潜んでいる。
「ホシワっ!」
ありったけの声をミツバは上げた。無理に絞り出したため喉を引き裂くような痛みが走り、思わず咳き込む。
子どもの声が小さくなる。でも駄目だ、ここで自分まで倒れるわけにはいかない。
「あっ」
迫り来る魔族の気を、前方から感じた。迷ってはいられなかった。ミツバは大きく地を蹴り、腰に下げていた短剣を手にする。
結界はまだ維持されてる、だから大丈夫。
彼は自らにそう言い聞かせた。現れたのは灰色のマントをかぶった男だ。その手には大降りの剣が握られている。
それでも勢いをゆるめずに、ミツバは突っ込んだ。繰り出された一撃を頭上でやり過ごし、切っ先を脇腹へ突き刺す。
ただの短剣ではない、レーナ特製の武器だ。精神を蓄えることのできるそれは一撃でもかなりの効果を発揮する。
痛みのためか、魔族は体勢を崩した。ミツバはその背中に回り込み、今度は深々と突き刺す。吹き出した返り血で染まるのも、彼はかまわなかった。
すぐにその魔族は粒子となって空気へとかえっていった。が、油断はならなかった。
「しつこいよっ!」
背後へ迫る別の気配に、ミツバは怒号を浴びせる。振り返れば数人の魔族の姿が目に入った。皆一様な格好をしている。
まずい。
胸中で警鐘が鳴る。今の自分にそれだけの相手をする力が残っているとは思えなかった。一対一ならまだいい。だが相手が複数なら話は別だ。
恐怖で体がすくむ。絶望で、息が苦しくなる。
近づく魔族らを彼は眼を開いて凝視した。風に乗って揺れる灰色のマントが、次第に大きくなる。
――やられる。
けれども、来るべき衝撃は訪れなかった。
突然、目の前から魔族の姿がかき消えた。ミツバは息を呑み、呆けた顔をする。
「どうやら間に合ったようだな」
声は、右方から聞こえた。ゆっくりと顔を向ければ、そこには悠然とたたずむシリウスの姿があった。傷らしきものもなく、疲れ切った様子もない。彼の瞳を、ミツバは穴が開く程見つめる。
「お前の方は怪我はなさそうだな」
シリウスの言葉に、ミツバははっとした。ホシワが倒れたままだ。慌てて駆けよろうとするが足が上手く動かず、よろめいて膝をついてしまう。
「無理をするな」
「だ、だってホシワが!」
「大丈夫だ、あいつは致命傷じゃない。出血してないだろう?」
言われてみれば、倒れたホシワの周りに血の海はなかった。乾いた道の上に、全く動かず倒れているだけだ。
「精神量が足りなくて倒れたんだ、技の使いすぎだろう。お前は体の方が限界のようだがな」
差し出された手のひらを、ミツバは取った。それを支えにゆっくり立ち上がれば、ようやく事態が飲み込めてくる。
ホシワは死なない。
そう思うだけで力がわいてきた。戦う気力が戻ってくる。
「この辺に残っていた魔族は大体私が倒したはずだ。まだ数人やってくる可能性はあるが、一人で何とかなるな?」
そう尋ねられてミツバは驚いて顔を上げた。シリウスは神妙な顔で彼を見つめている。
「まずいのはここだけじゃない。レーナもあの人数相手では、決定打は難しいだろう。戦闘はもうしばらく続きそうだ」
「え? あの人数?」
確かレーナたちは五腹心を相手にしているはずだった。瞳を瞬かせるミツバへ、シリウスは微苦笑を向ける。
「五腹心二人でも心配だったようでな、あの策士は。そこへ部下を次々と送り込んでるようだ」
「ええっ!?」
「あいつだから死なないだろうが、引かせるだけの痛手を食らわせるのは難しいはずだ。だから全ては転生神たちにかかっている。奴らを信じて持ちこたえろ、いいな?」
ミツバの肩をシリウスは軽く叩いた。重い現実がそこには込められている。
ここを一人で乗り越えなければならないという重圧。戦闘がいつまで続くかわからない不安。震えそうになる拳を、ミツバはもう一方の手で握った。
「苦しいのは皆同じだ。私は次の街へ行く。そこにいる人間たちの命は、お前にかかっているんだからな。気をしっかり持て。我々の力の源が何であるかよく考えるんだ」
まるでシリウスは全てを見透かしてるようだった。彼の視線を追って、ミツバは振り返る。
そうだ、今この人々を絶望から救えるのは自分しかいないのだ。泣き疲れた子ども、怯えた女性、彼らの命を守る結界は、最後の砦なのだ。
あらためてそれを意識し、ミツバはうなずいた。ゆっくり歩いてホシワへ近づくと、その体を抱え起こす。
「シリウスさん、もう行っていいよ。ここは僕が何とかするから」
決意の言葉に、シリウスは相槌を打った。