white minds

第三十二章 歪みし始まり‐8

 修行室の手前、廊下のちょっと広まったその隅に二人の姿はあった。壁に向かって座り込んだすずりの後ろで、所在なげに青葉がたたずんでいる。
 どう声をかけるべきか陸は悩んだ。青葉も同じらしく黙ったままである。静寂の続く空間は胸に痛くて、じとりとにじんだ汗が全くひいていかなかった。逃れるすべはないものかと探せど、妙案は見つからない。
 すずりの後姿は小さかった。ひざを抱えればまるで幼い子どものようだと陸は思う。確か十六になったばかりだったが、ころころ変わる表情と大げさな動作がその印象をより幼くしていた。それが今はさらに弱々しい。背中にかかった赤茶色の髪が細かく揺れていた。
「すずり……」
「今は、放って、おいて。お願いだから」
 意を決して陸が声をかけると、返ってきたのは拒絶の言葉だった。困りきった陸と、振り返った青葉の目がぴたりと合う。二人にはどうすることもできなかった。すずりは振り向かないし何も言おうとしない。ただ彼女の気が悲しみと動揺を如実に訴えかけていた。
「どうかしたの?」
 うろたえる二人に助けが現れたのは、その時だった。聞き覚えのある声に陸が背後を見れば、そこには先ほど迎えに来てくれたリンが立っていた。ヨシガたち三人への案内は終わったのだろうか? 穏やかな顔をした彼女は、まるで全てを知っているように見えた。凛とした足取りで近づく彼女を見ると、なぜだか安堵感が湧き上がってくる。
「リン先輩」
 青葉も振り返り、すがるようにその名を呼ぶ。リンはいなすように手をひらひらとさせると、二人の間を通り抜けてすずりの傍に座り込んだ。すずりの背中がぴくりと揺れる。
「青葉、あなたは下がってて。私案内をシンに押し付けてきちゃったから手伝ってあげてくれる?」
「え? あ、はい」
 一瞬躊躇したものの、青葉は彼女の言葉通り元来た道を駆けていった。その背中を見送りながら、陸はこれから何が起こるのかを考える。
 何故彼女はここに来たのか、わかるようでわからなかった。何とかしなくてはならないことはわかっているけど、彼にはその方法が見つからないのだから。
「すずり、顔を上げなくていいから聞きなさい」
「リン、さん?」
「ちゃんと聞きなさいね、そして答えて。いい? これはあなただけの問題じゃないのよ。この人数で乗り越えるためには、わだかまりがあっちゃいけないんだから」
 言い聞かせるような言葉は、まるで母親のものだと陸は思った。五歳の頃母親を失った陸にとって確信はないが、それでもおぼろげに覚えていることはある。
 考えてみればすずりにも親の記憶はないはずだった。生まれてすぐに奇病が流行り、亡くなったはずだった。彼女はウィンの仲間たちに育てられ、ずっと生きてきたのだ。
「うん、ごめんなさい、リンさん」
「謝らなくていいから。今悲しい? それとも苦しい? 寂しい?」
「えっと、寂しくて悲しい」
 答えるすずりの頭をリンはゆっくりと撫でた。優しさの込められた手のひらは、見ているだけでもほっとさせる力がある。
「それはどうして?」
「……青が、私の知ってる青じゃなかったから」
 涙混じりの声をすずりは発した。陸はどきりとし、握ったままの拳にさらに力を込める。
 オレの知ってる兄さんじゃない。
 それは陸が漠然と胸に抱いていた気持ちだった。あんな風に笑っているところを見たことがない。あんな表情見たことがない。それが胸の奥に小骨のように突き刺さり、抜けていないのだ。
「そうね、あなたの知ってる青葉はああじゃなかったかもね。でも私の知ってる青葉はずっとああだったわよ」
 頭を撫で続けながらリンはゆっくりとそう言った。のろのろとすずりは頭をもたげて、唇をかみしめながら小首をかしげる。真っ直ぐな髪が肩から滑り落ちた。
「う、そっ」
「嘘じゃないわよ。一人で突っ走るし梅花のことになると周り見えないし怒りっぽいし。後輩には優しくて人懐っこくていい奴なんだけど世話が焼けるのよねえ。昔からそうだったって、滝先輩やシンは言ってたわよ」
「嘘だ!?」
 リンの言葉に、思わず陸は声を上げた。すずりの驚いた瞳と、リンの苦笑するような瞳が彼へと向けられる。
「あ、いやその」
「そうね、弟の前ではいいお兄ちゃんなんだって。頑張ってたんだってさ。さっきシンがそう言ってた。だからあなたの知ってる、二人の知ってる青葉は嘘じゃない。でもそれが全てでもない」
 突き刺さる言葉だった。暖かいのに柔らかいのに泣きたくなる言葉だった。
 うわべだけ見ていたつもりじゃないのに。いつだって追いつきたいと、足手まといにはなりたくないとそう思ってたのに。
 陸は横目ですずりを見た。狐につままれたような顔で、すずりはリンをじっと見つめている。リンの言葉に聞き入っている風だった。人の話を聞きたがらない彼女にしては珍しい光景だ。
「誰かを好きになったら青葉じゃなくなるの? 子どもができたら青葉じゃなくなるの? 人間じゃなくなったら青葉じゃなくなるの? そうじゃないでしょう。理想が崩れたから、憧れが揺らいだから苦しいのよ、違う?」
 すずりはこくりとうなずいた。つられたように陸もうなずいた。目標で、憧れで、そしていつだって自分を一番に守ってくれるのだとどこかで思っていた。それが崩れたから寂しいのだ。
「リンさん、あのね、私ね」
「うん」
「もう子どもじゃないの。強くなったし背だって伸びたし出るとこ出てきたんだよ」
「そうね。綺麗になったわね、すずり」
「……青にそう言って欲しかったの」
 すずりはリンにしがみついた。震える背を撫でながら、リンは何度も相槌を打った。そんな二人を見下ろしながら、陸はどうしたらいいかわからなくなる。
 正直、すずりが羨ましかった。彼女には何があっても受け止めてくれる人がいるのだ。気持ちをわかってくれて、叱ってくれて、慰めてくれる人がいるのだ。やるせない気持ちが湧き出して、視線がどんどん下へと落ちていく。
「もっとたくさん話しなさい。そんでもってもっと愚痴言って楽になってすっきりしなさい。胸の奥にためておかないの。それはあなたの心を弱める、皆の心を弱める。それじゃあこの先やっていけないから、だから言ってしまいなさい」
 彼女の声の調子に、はっとして陸は頭をもたげた。彼女の黒い瞳は彼を真っ直ぐ射抜いていた。強気でそれでいて優しい笑顔はまるで全て見透かしてるようだ。陸はうなずくと、踵を返しその場を離れる。
 よくわからないけど、このままでは駄目なんだ。
 その思いだけが彼を突き動かしていた。
 白い廊下が、長く感じられた。




「本気なの? プレイン」
 茶色くすすけた荒野の中で、レシガは声をあげた。生ぬるい風に乗って、長いワインレッドの髪がたなびいている。
「私がこんな冗談を言うと思うのか」
「そんなこと思ってないけど」
「だがよお、プレイン。それはちょっと無謀すぎるぜ」
 言いよどむレシガに加勢したのはラグナだった。草色の髪をかきむしりながら、彼は口の端を上げている。
 一人欠けた五腹心は魔界の荒野に集っていた。重い雲の立ち込めた空からは、吐き気を催す風が吹き付けているようだ。誰もが神妙な顔でそこにたたずんでいる。
「なあ、お前もそう思うだろ? イースト」
「そうだね、成功確立が低すぎて簡単に了承できない話だね」
 今度はラグナがイーストに話を振る。イーストはいつもの穏やかな微笑のまま、おもむろにうなずいた。三対一という構図は珍しい。だがそれもプレインの提案が彼らしくないことが原因だった。
「だがやるしかない。リシヤが目覚め、ブラストが封印された以上道はこれしかない。バルセーナ様たちを復活させるしか」
 プレインはもう一度繰り返した。
 バルセーナ――それは彼ら五腹心の主、その一人だった。彼らはバルセーナを筆頭とするバルセーナ四兄弟に仕える身だった。もっともいつの間にか何者かに封印されて、今はいずこにいるかもわからない。その封印を解くことが彼らの目的で、そのために地球の『鍵』を狙ったり精神を集めているのだ。
「無茶だろう、精神が足りない。確かにレシガなら封印を解く技を使えるかもしれないが、それだって大量の精神がなきゃ無理な話だ」
「だから私のを使うと言っている」
「さらに無茶苦茶だ、五腹心が三人になるんだぞ!? もし失敗したらどうするってんだっ」
 ラグナは声を荒げた。
 上位の魔族の封印は、リシヤの施したものよりも強力だった。無理矢理こじ開けるには相当の精神がいる。下級魔族が地道に集めているその量では話にならなかった。確かにプレインの精神を使い尽くせば十分だろうが、それは賭に近い。
「ならばリシヤが、転生神が力を取り戻すのを黙って見ているのか? 既に我々は四人、真っ向からぶつかり合えば負けるのはわかりきっている。一人減ったところでそれは同じこと」
 プレインは口の端をゆがめた。それはまるでやけになったような表情だった。だが彼の気が狂ったわけではないと三人は知っている。
 彼はあくまで合理的で打算的で、そして誰に対しても容赦がない。それは彼自身に対しても同じだった。魔族の勝利が、たとえ数パーセントでもその確率を増すことができるのなら、迷わずその体を差し出すことができる。
「時を待てば待つだけ転生神は目覚めていく、予想をはるかに上回るスピードで。その上を行くには危ない橋を渡るしかないだろう」
 そう言葉を続けながら、プレインはレシガを見た。感情の灯らない瞳を、彼女は見返す。
「成功確率はどれくらいだ」
「やったことないもの、知らないわよ。でも一割行けばいいところじゃない? 相手は闇歴を握る結界だもの」
「十分だ」
 うなずくプレインを、それ以上咎めることはできなかった。三人の口から重いため息がもれる。生暖かい風がそれをすぐに運んでいった。
「ったく毎度毎度無茶通すんだからな」
「今回ばかりはレシガが大変だけどね」
「それだけじゃないわよ、必ず彼らは阻止してくる。私の気を散らさないという重要な役目があなたたちにはあるんだから」
 いつからだったか、上を束ねる者が消えた。
 気づいた時には頼るべき者がいなくなっていた。何が起こっているのか何をなさねばならないのか、わからないままに突き進んできた道。ただひさすら同胞を生かさんとそれだけを考えてきた。気の合わない五人はそれでも何とかやってきた。
 それももう終わる。成功しろ失敗しろ、終わりを迎える。
「準備は一日あればそれでいいわ」
「ならば二日間で戦力を集める」
「じゃあ最も適した場所をそれまでに探しておくよ」
「オレは、溜め込んだ精神でも集めておくか」
 四人の視線が交わった。それ以上言うべきことなどなかったし、その必要もなかった。もう長年のつきあいだ、何を思っているかなど予想がつく。ずっと言い争いを繰り返してきたのだ。飲み込まれた反論など脳裏でいくらでも思い描ける。
「明後日、ここで」
 その言葉を最後に、四つの気配は消えた。
 残されたのは、くすんだ荒野と鬱々とした雲だけだった。

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