white minds

第三十二章 歪みし始まり‐9

 嫌な夢を見て、陸は目を覚ました。薄暗い天井の高さに目を瞬かせ、ここが今までいた宮殿の中ではなかったことを思い出す。与えられたばかりの部屋は寒々とした印象を与えた。カーテンの隙間から入る月明かりが殺風景な室内をうっすらと照らしている。
「寝られないな、これじゃあ」
 彼はベッドから立ち上がり扉を開けた。夢の内容はよく覚えていないが、それが嫌な夢だったことだけは強く胸に残っている。
 廊下は静かだった。頼りになるのは月明かりだけで、彼は恐る恐る足を進める。どこへ行こうか迷いながら、結局は人気を求めて司令室を目指した。あそこだけは夜中でも人がいると今朝の説明で聞いた。
「本当だ」
 階段を下りて一階へ辿り着けば、司令室の扉からかすかに光がもれている。
 彼は自分の服を見下ろした。とりあえずいつ戦いが起きてもいいように適当な格好で寝る癖はついたが、あまり行儀がいいとも思えなかった。幼馴染みにも近いナチュラルの仲間ならまだしも、今日会ったばかりの人には若干恥ずかしい。
「まあでも、戻るの面倒だし」
 彼はそろそろと歩き出した。入り口までやってくると、息を呑んでそっと扉に手をかける。するとそれは独りでに開き、空気の抜けるような音を発した。
「ん? 陸?」
 音に気づいたのだろう、振り返ったのは梅花だった。司令室の脇、小さな椅子に腰掛けた彼女は腕に赤ん坊を抱いている。
「えっと、その」
 何をどう言えばいいか陸にはわからなかった。案内された時顔を合わせたきりで、まともに言葉を交わしたことがない。
 どうしよう。
 その言葉だけが脳内をぐるぐると巡り、頭が真っ白になりそうだった。やはり今朝のことで気分を害しているだろうか? 謝った方がいいだろうか? それともこのまま戻った方がいいだろうか?
 立ちつくす彼を、彼女は微笑んだまま見つめている。
「眠れないの?」
「あ、えっと、はい」
「じゃあこっちにいらっしゃい。この時間基地にいて起きてるのってアースや滝先輩くらいだから。二人は部屋だしね」
 司令室には彼女の他には誰もいなかった。広々とした室内に一人というのは何となく寂しく思える。彼は言われた通り、恐る恐る彼女の隣に腰掛けた。それでも彼女の顔を真っ直ぐ見ることができない。
「大丈夫よ、別に取って食べたりしないから。怒ってもいないし機嫌悪くもないし」
「……えっ?」
「顔に書いてある、気に表れてる。青葉と同じで、本当わかりやすいのよね」
 彼女はそう言うとくすくすと笑った。頬が紅潮していくのが、鏡を見なくてもわかる。
「その、すいません」
「謝らなくていいのよ、あなた何も悪いことしてないじゃない。そういう言葉は本番のためにとっておくべきよ」
 笑いながら彼女は赤ん坊の顔を覗き込んだ。どうやら今は眠っているらしい。陸は必死にその赤ん坊の名前を記憶からひねり出した。確か桔梗と、そう言っていた。姪っ子といっていたからたぶん女の子だろう。
「少しは慣れそう?」
「え?」
「この基地に。私は神技隊になって、別世界で生きて戸惑うことばかりだったから」
 陸は瞳を瞬かせた。その意味がよく飲み込めなかった。目の前にいる彼女はいつも穏やかで、今日あちこちで話を聞いた限りでも悪口の一つも出てこなかった。とてもじゃないが別世界なんて言葉が出てくるとは考えられない。
「私はジナル族出身だから。まあジナルでも十分異端だったけどね」
 その心を見透かしたかのように、彼女は付け足した。彼は息を呑みながら小さく首を縦に振る。
「兄さんは」
「ん?」
「あなたといると何だか幸せそうでした。たぶん母さんが生きてた時ぐらいに。シンさんと一緒にいる時みたいに心底笑ってて、滝さんといる時ぐらい安心してて」
 そう告げながら泣きたくなるのは何故だろうと、彼は自問した。たぶんわかってしまったからだ。
 今までだってずっと上辺だけを見ていたはずじゃなかった。けれども今思えば、やっぱり表面しか見ていなかったのかもしれない。あのころは、無理して笑っていたんだ。無理して笑いかけていたんだ。
 そんなことを考えると自分の情けなさに腹が立ってくる。
 でも、それならこれでいいのかもしれない。少し寂しいけれど、でもこの弟が重荷だったのならこれでいいのかもしれない。これで屈託なく笑いあえるなら、それで。
「陸、あのね」
 ふと気づけば彼女の手のひらが頬にあてられていた。驚いた彼は数度瞬きをする。
「守りたいと思うとどうしても気張っちゃうのよね、それは誰だってそう。失いたくないから必死で頑張って、周りが見えなくなったりするの。それは守る方にも、守られる方にも責任があるのかもしれないけど」
 黒い瞳からは優しい光が滲み出ているようだった。彼女が何を言いたいのか、続きを聞かなくてもわかる気がする。それは不思議な感覚だった。心の奥から何か温かいものがわき出してくるように思える。
「でもあなたはもう隣に立つことのできる人だから、縮こまらなくていいのよ。遠慮することもないの。青葉に対しても、他の人に対しても、誰に対しても。だからそんな悲しい顔しないで。あなたたちのこと、みんな期待してるんだから。頼りにしてるのよ?」
 こそばゆい感覚に、彼は笑い返しながらうなずいた。彼女の手がそっと離れていく。何となく名残惜しさを覚えながら、彼はもう一度その瞳を見つめた。不思議と懐かしさを覚え、何故かはわからないけど安心できる瞳。それは昔傍に青葉がいた時に感じたもの、シンが遊んでくれた時に感じたもの、滝が助けてくれた時に感じたものと同じだった。
 そして今思えば、今朝リンを見た時に感じたものともよく似ていた。
「大丈夫です。何だかここ、安心できるし」
 彼は素直にそう答えた。ここなら、この仲間たちの間ならやっていけそうな気がする。それは彼に力を与え、笑顔を与えた。これから予想だにしない戦いへ放り出されるかもしれないけれど、それでも大丈夫だと言い聞かせられる。
「そう? それはよかったわ。既にできてる輪の中に入るのってなかなか難しいものね。早くみんな仲良くなれるといいんだけど」
「もう少しここにいていいですか?」
「もちろん。なんなら朝までどうぞ」
 二人は笑い合った。その声に反応してか、抱かれていた桔梗が目を覚ました。もぞもぞと動き出すとその小さな手のひらを精一杯上に掲げて、何かを掴もうとしているように見える。
「あ、起きちゃった」
「楽しそうだから仲間に入りたいみたいよ? 人懐っこいのよね」
「兄さんに似て?」
「そう」
 楽しげな声がしばらく続いた。まだ夜明けは遠かったが、そこには光が満ちていた。
 一時の、安らぎだった。




 時の狭間で、世界の狭間で何かが蠢くのがわかった。背中を這いずり回る嫌な予感に、体中から汗がどっと噴き出す。
「何だろう?」
 レーナは立ち止まった。目の前に広がるのは広大で無機質な宇宙。温度を持たないような寒々とした空間だった。彼女はあちこちに視線をさまよわせ、首を傾げる。
「こんなのは初めてだ」
 不安を打ち消すように口にすれども、寒気は収まらなかった。まるで警告のように、体中が何かを発している。
 いや、警告しているのは体ではない、『彼女』だ。もう同一になりかけている『彼女』の、その記憶が訴えているのだ。
「まさか、何か起こっているのか?」
 気配を探れど、この危機感に見合う変化はなかった。五腹心に動きはあるが、それは昨日とほとんど変わりない。
 そうだ、五腹心なわけがない。『彼女』が警告するのだからその程度のものではない。彼女の記憶は闇歴と関わっている。ならばもっと上の、上のレベルだ。
「まさか、時が近いのか? あともうちょっとだというのに」
 彼女は顔をしかめると内にいる『彼女』へと問いかけてみた。だが無論答えは返ってこない。いつからだったか、『彼女』と同化し始めてからはその声を聞くことがなくなってしまった。目覚めて間もない頃はそれなりに聞いていたというのに。
「間に合えばいい。何も、起こらなければいい」
 それが祈りに近い言葉だとわかっていても、つぶやかずにはいられなかった。まだみんな生きている、守り続けている。だがそれがいつまで続くかはわからないのだから。
 彼女は黒い空間の先を見据えた。
 その先にあるはずの、封印されし世界を見つめていた。

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