white minds

第三十三章 流れゆく時の中で‐1

「とにかくひくぞ、このままではオレのせいで空間の歪みが広がってしまう」
 静まりかえった空間にベルセーナの声が響き渡った。彼の後ろにはまだ黒い穴がぽっかりと、辺りを呑みこんばかりに口を開けている。
 皆が戸惑っていた。ベルセーナの言葉が奥底にあった不安を一気に析出させた。何故神と魔族が戦っているのか、教えてくれる者がいるならこんな不毛な争いは続かなかっただろう。
 やはりそうか。
 レーナは苦笑を飲み干すのに必死だった。神と魔族はずっと昔から戦っていたわけではないのだ。だがある時から戦い始めた。それがこの争いの、闇歴の始まり。
「お嬢さん、命令とあれば私たちにこれ以上の戦闘継続は意味はない」
 片手をひらひらとさせるイーストを、レーナは見やった。だから自由にしろとでも言いたいのだろう。彼女は余裕の笑みを浮かべると、血だらけになっていた左手の力を抜く。すると立ちつくしていたラグナが、戸惑いながらも後方へ大きく飛び退いた。そこでようやく彼女は鞭を消失させる。
「ならば部下をどうにかしてもらおう」
「もちろんそのつもりだよ。ラグナ、撤退の指示を」
「おうおう、オレはいつもそんな役回りだな」
 ラグナは口の端をあげながら下級魔族たちの方へと飛んでいった。群衆に埋もれるその背中を視界の隅に収めながら、彼女は血の滴る手を握ったり開いたりする。
「レーナ!」
 するとそれまで膝をついたままだったシンとリンが彼女の方へと走り寄ってきた。不敵に微笑めば安堵の息をもらし、二人は何とか笑みを返してくる。
「我々も一度退散しよう。歪みがますますひどくなる」
 レーナはそう言うと穴の前に取り残されたベルセーナ、レシガを見た。虚ろな瞳をしたレシガを、ベルセーナが腕で支えている。
「神よ」
「残念ながらわれは神じゃあなくってな」
「では他にどういう理由で神と同行する。いや、できる? ではまさかお前が白き者か?」
 問いかけるベルセーナに、レーナは息を呑んだ。体の奥底から何か得体の知れない衝撃がわいてくるのを感じた。
 もう一つの存在。神でもなく魔族でもなくもう一つの存在がある。そのことが意思の底に埋めていた、隠し持っていた思いを共振させていた。
「白き……者?」
「赤き者、黒き者の他にオレは白き者しか聞いたことがない」
「人間が、いる」
「それはこちらの世界の生き物だ。あちらの世界ではない」
 あちらの世界。それはこの神魔世界とは違う、そして彼の言いぶりからすると人間のいない世界のようだった。頭の先から足の先まで熱が籠もって、まるで全身で火の中に飛び込んだ気分になる。ともすれば体から力が抜けて倒れ込みそうだった。
「あちらの――」
 声を無理矢理絞り出すと、地面が激しく揺れた。ぶれる視界の中で、彼女は必死にベルセーナの姿を探す。
「まずい、飲み込まれる。イースト、ラグナ行けるか?」
「行けます」
「おうら、お前らもひけ、ベルセーナ様の命だ、撤退だ!」
 だが聞こえたのは声だけで、一瞬で魔族の気配はどこへともなく消え去った。残されたのは大きく口を開けた穴と、立ちつくした神技隊らだけ。
「ここを脱出する、みんな集まれ」
 呼びかける声が頼りないことを、彼女は自覚した。
 あともう少し、もう少しで何かが掴めそうなのに。
 その悔しさが彼女の視界をさらに歪ませた。




 魔族界の複雑さは神界のそれをはるかに越えていた。神界が各星々に付随した異空間だとすれば、魔族界は神魔世界に付随した巨大な空間だった。その中には幾つもの亜空間があり、そこを上位の魔族は自らの部屋のように所有している。その一つ、巨大な亜空間の中にベルセーナは立っていた。
「ここも久しぶりだな。もっとも外の風景はずいぶん変わってしまったが」
 短い髪をかき上げて、彼は苦笑した。亜空間の中にぼろぼろの宮殿が建っている。それが彼、いや、彼らバルセーナ兄弟の根城だった。外は亜空間といえどもそれなりの風景を見せていたはずだったが、今は薄暗い空に荒れ地が広がっている。
「ベルセーナ様の無事のご帰還、お待ちしておりました」
 彼の後ろには膝をついた部下――イーストが控えていた。空色の髪に隠れて表情は見えないが、安堵しているのはその気からわかる。
「そう硬くなるな、イースト。昔のように接してくれ」
「ですが」
「今はオレ一人で大変なんだ。相棒が欲しい所なんだから」
 おどけたように肩をすくめれば、ゆるゆるとイーストは顔を上げた。思った通り優雅な微笑みを浮かべている。懐かしい顔にベルセーナは口元をゆるめた。
「だからほら、立つ。そしてこっちに来い」
「はい」
「よーし、素直でよろしい」
 ベルセーナの大きな手がイーストの肩を軽く叩いた。
 バルセーナ四兄弟、それがイーストら五腹心の仕える者たちだった。長男のバルセーナを筆頭に、ベルセーナ、ボブドーナ、ビレドーナと続く。バルセーナがプレインを、ベルセーナがラグナを、ボブドーナがイーストとレシガを、ビレドーナがブラストを生み出したのだという噂だったが、四兄弟は誰も真実を話さなかった。彼らはそれすらあかさず、四人で部下を共有するという珍しい行動に出たのだ。故に五腹心は四人の部下であり、彼らを区別することなく仕えている。
「レシガは寝てるな」
「無茶をしましたからね、早すぎました。けれどもベルセーナ様だけでも解放できたのだから十分でしょう」
「ラグナは?」
「無理矢理招集した配下を黙らせてるところです。最近急な撤退続きでしたから、不満が溜まってるようで」
 尋ねればすぐに答えが返ってくる。イーストとはそういう青年だった。穏やかな顔をして中では色々と算段している。しかもそれを部下には悟らせないという優秀さも兼ね備えていた。
「では一度確認したいんだが」
 ベルセーナはイーストへ向き直った。背の高いベルセーナは必然的に見下ろす格好となる。
「何か上に異変が起こっているらしいと聞いて、オレは兄さんたちと様子をうかがいに行った。その時オレらはお前たちに、隠れるようにと指示した」
「封印される前のことですね? その通りです」
「そしてオレたちは噂通りにどこかへ閉じこめられた。暗い空間だ」
 記憶にあるのは誰かの叫ぶ声、制止する声、そして謝罪する声だった。その次の瞬間には薄紫色の光に覆われて意識を失った。目覚めたその場所は暗い空間。上も下も何もないただの空間で、どこへ行くことも何をすることもできなかった。気は感じない、けれども声だけがかろうじて聞こえてくる場所だ。
「私たちは指示通りしばらく隠れていました。あまりにも帰りが遅いので外へ出てみれば、既にそこは上の方たちのいない世界になっていました。ベルセーナ様たちだけではありません、ウィザレンダ様も誰もかもがいなくなっていました。残されたのは私たちと、神を憎み続ける配下だけです」
 そう告げながらイーストは瞼を伏せた。どう声をかけていいのかベルセーナは迷う。
「またそれは神も同じようでした。彼らは『憎き魔族を殺せ』と戦いを挑み、また我らは『同胞の敵討ちを』とそれに応じます。だから戦いは終わらない。それがもう三億年」
 三億――それは気の遠くなるような時間だった。時を感じさせない世界、『あちらの世界』で生きていた時にはそれは些細な時間だっただろう。だがここ神魔世界は違う。時を感じさせる世界での三億年は、ベルセーナには想像もできなかった。
「よくやってくれたな」
「すいません、ただ私は同胞を守りたくて、どうにかしてベルセーナ様たちを復活させたくてやってきたのですが……多くの命を失いました」
 イーストの言葉に偽りはないだろう。ベルセーナはその肩を叩きながら首を横に振った。今必要なのは謝罪ではなく、事実だ。何が起きて、そしてこれから何が起ころうとしているのかを見極めなければならない。
「お前たちはよくやった、それには変わりない。だがオレたちは今後どうするべきか考えなければならない」
「はい」
「まず必要なのは情報だ」
 ベルセーナは古びた窓から外を見た。石を積み上げてできた宮殿に、ぽっかり空いたような窓。見える景色は皆のすさんだ心を、痛んだ心を表すように荒れ果てている。
「兄さんに聞けばわかるかもしれない。兄さんは精堂陣せいどうじん様に直接会っているはずだ」
 確信に満ちた言葉が、冷たい室内に染み込んでいった。イーストは静かにうなずいた。

◆前のページ◆   目次   ◆次のページ◆

このページにしおりを挟む