white minds

第三十三章 流れゆく時の中で‐2

 そわそわとした予感があった。体の奥がむずがゆくなるような感覚が、朝からずっと続いている。
 今日は何かある。
 いつも体を震わせる嫌な予感とは別物だった。いてもたってもいられなくなり、彼女は白い廊下を行ったり来たりする。
「どうかしたのか? リシヤ」
 背後から聞き慣れた声がかかり、彼女はおもむろに振り返った。怪我はもう完治したらしく、微苦笑を浮かべたヤマトが首を傾げている。
「なんだか予感がするの」
「予感? また嫌な予感か?」
「違うの。たぶん今日のはいい予感なの」
 自分でもどうしたらいいのかわからなくて、彼女は辺りに視線を巡らせた。それにあわせて腰程ある長い髪がふわりと舞い上がる。
「いい予感か、珍しいな」
 彼がそういうのも無理はなかった。今まで彼女が予感と口にする時は全て不吉な何かの前触れだった。でも今日のは違う、それだけは確かにわかる。
「そう、珍しいの。でもこれは間違いなくいい予感よ」
 だがいい予感というのは初めてだったから、具体的に何が起こるのかまではわからなかった。悪い予感ならば誰かが亡くなるとか結界が破られるとか、予想することができる。
 微苦笑した彼女は、何気なく後ろを振り返った。すると白い廊下の突き当たり、こちらへ曲がってくる一人の少女が目に入る。
 あれ?
 鼓動が跳ねて、背中をかすかな痺れが通り抜けた。体の中心から熱がわき起こって、じわじわと全身を包み込んでいく。
 肩を過ぎる程の焦げ茶色の髪に紅色の服。小柄な少女は物憂げな顔でこちらへ向かって歩いていた。声を出すことも動くこともできない彼女は、少女が近づいてくるのをただじっと待つ。
 ふと、少女が顔を上げた。澄んだ黒曜石のような瞳が彼女のものとぶつかった。
「あっ」
 声をもらした瞬間、視界が暗くなり体が重力から解放された。それまで見えていた世界が歪み、色を失っていく。
 次第に意識が落ちていく中で彼女はつぶやいた。
 今のは梅花だった。
 リシヤとして見た記憶の中で、ぼんやりと彼女――レンカは考える。覚えている。今のは初めてアユリと会った時の記憶だ。そのまま気を失ったリシヤは、同時に気を失ったアユリとともに一室で目を覚ますのだ。そして三人目の転生神として認知されるようになる。
 彼女はゆっくりと瞼を開けた。目に映る天井は白かったが、先ほど見たような目映い白さではなかった。ゆるゆると上体を起こせば、慌てた声が頭上から降り注ぐ。
「レンカ、起きたのか!?」
 右を見ればそこにはヤマト……否、滝が驚いた顔で口を開いていた。彼女は微笑みながらうなずき、彼の手をそっと握る。
「大丈夫よ、滝。私はどのくらい眠っていたの?」
「五日ぐらいだ」
「そんなに?」
 彼女は小首を傾げながら辺りを見回した。よく見ればここは自室だ。あまり使うことがなかったせいかさっぱりを通り越して殺風景な部屋である。ブラストを封印して、それで気を失って。どうやら基地につれてこられたらしい。
「みんなは? 今どうなってるの?」
「焦るなよレンカ、まだ起きたばかりだろ」
「心配しなくて大丈夫よ、滝。私リシヤの記憶、もう全て思い出しちゃったから」
 立ち上がろうとする彼女を彼は押しとどめようとした。だが放たれた衝撃の発言に目を見開き、手の力を緩める。
「レーナは、梅花はいるの?」
「先ほど戻ってきたばかりだから、司令室にいるはずだ」
「じゃあ会わなくちゃ」
「あーわかったから落ち着けよ、オレも一緒に行くから」
 苦笑する彼へ彼女はもう一度微笑みかけた。自分でも、何故だかは知らないが焦っていることはわかっている。夢のせいなのかそれとも別の理由があるのか、とにかくどうしても二人に会わなければという気が収まらないのだ。立ち上がった彼女は彼の腕を取ると、一度落ち着くように深呼吸する。
「レンカ?」
「ごめんなさい、滝。私たぶんリシヤの気分が大きいの。いや、もっと別のかな? とにかくあの二人に会わないと気が済まないの」
「あの二人?」
「梅花とレーナ」
 彼女をひきつれるようにしながら彼は扉を開けた。大分感覚が元に戻ってきたらしく、周囲の気の様子が次第にわかってくる。まだ多くの者が倒れたままらしいとわかり、彼女は瞳を伏せた。起きている者の気配が限りなく少ない。
 一階へ下りれば何やら話し合う声が聞こえてきた。廊下には誰の姿もなく、賑やかなのは司令室だけである。
「何かあったのか?」
 滝が問いかけるが無論レンカの知る余地はなかった。首を大きく振った彼女は、それでもそろそろと司令室へ歩み寄る。
 扉が開くと、そこは一種の戦場のようだった。血と土の混じった臭いが辺りを漂い、あちらこちらから大声が上がっている。
「な、何があったの?」
 思わず声をもらすと、二人の入室に梅花がいち早く気がついた。脇の椅子に腰掛けていた彼女は音を立てて立ち上がり、二人の方へと駆けよってくる。
「レンカ先輩っ! 目が覚めたんですね」
 今にも泣きそうな程嬉しげな梅花、その手をレンカはぎゅっと握りしめた。か細い手は冷え切っているが、確かに彼女がここにいることを感じさせてくれる。胸の奥底から安堵の気持ちがこみ上げて、レンカは細く息を吐き出した。
「心配かけてごめんね、梅花。もう大丈夫だから」
 そんなことを言ってると皆の視線が集まりだし、大声が止んで次第に部屋は静まってきた。よく見れば見慣れない顔が幾つもあちらこちらにある。首を傾げていると吹き抜けの上から、望んでいた声が頭上へとかかった。
「レンカ!」
「レーナ?」
 手摺りから身を乗り出しているのはレーナだった。アースに羽交い締めされた彼女は、それでも無理矢理下を覗き込んでいる。左手には赤くにじんだ包帯が巻かれていて、髪は何故だかほどけていた。彼女の嬉しそうな顔を見上げて、レンカはにこりと微笑む。
「待たせちゃったわね、レーナ。ところでこの状況はどうしたの?」
「ああ、今から説明する。降りるから待っていろ」
 そう言うと渋るアースの手を振り払ってレーナは駆け下りてきた。階段を軽い身のこなしで下りると、梅花の隣に音もなく立つ。梅花の手を離し、レンカは真っ直ぐレーナを見つめた。会えてよかったと、泣きそうになるくらい嬉しくなるのが不思議だ。
「先ほど戻ってきたところなんだ。プレインが自らを犠牲にして封印を解こうとしてな、結局は成功させてしまったが」
「成功? なのに何事もなく戻ってきたの?」
「ああ。蘇ったのはベルセーナ一人で、しかも何故神と魔族が戦うのかわからないようだった。人数も足りないようだし、しばらくは動かないと思う」
 彼女の説明にレンカは思わず目を丸くした。神々にとっての救世主、希望が転生神ならば、魔族にとってのそれは封印された上位魔族のはずだ。だからこそ彼らは封印を解くために必死になっていたのではないのか?
「レーナ、それって」
「どうやら闇歴の秘密は、われの予想したものに近いらしい」
 不敵に微笑むレーナの手を、ゆっくりとレンカは握った。血のにじんだ包帯はきつく巻かれていて、ただでさえ白い肌が青白くなっている。
「どうしてすぐ傷を塞がなかったの?」
「ん? それは他の奴らを優先したからで。だからアースに怒られたんだけどなあ……って話が逸れてるぞ」
「ああ、ごめんなさい」
 左手を包み込むようにしてレンカは微苦笑を浮かべた。彼女の傷がどうしても目に付くのだ。でもこれがリシヤの記憶のせいではないとはっきりと言える。レーナはリシヤを見たかもしれないが、リシヤはレーナを知らないのだ。
「ごめんなさい。どうしてだかわからないんだけど、あなたが怪我してると申し訳ない気持ちでいっぱいになるの」
「レンカ?」
「たぶんこれは、リシヤのもっと先の誰かのせい」
 転生神は、消えた上位の神の生まれ変わりだ。ならばリシヤの先に誰かがいる。そのことを失念していた自分にレンカは内心で苦笑した。背後にいる滝が息を呑む気配がする。
「となると、やはりわれは闇歴に関わる者なのか」
 語りかけるともつぶやくとも取れない口調で、レーナは言った。その言葉にはっとしたレンカは、瞼を伏せる彼女を凝視する。
「だがとりあえずは皆が回復するのが先だ、魔族が動かないのならなおさら好都合。だからレンカ、お前も少し休んでくれ。考えるのはその後だ」
 顔を上げると、レーナはいつもの朗らかな笑顔で言いきった。そのまま有無を言わせずレンカの手をのけると、棒立ちになっている仲間たちの方へと駆けていく。
「レンカ先輩」
「ええ、わかってるわ梅花。私たちは今、大きな曲がり角にいるみたいね」
 このままでは終わらない。
 予感を噛みしめながらレンカはささやいた。
 それがいい予感なのか悪い予感なのか、今の彼女にはわからなかった。

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