white minds

第三十三章 流れゆく時の中で‐9

 湿った冷たい空気が室内には充満していた。薄暗い中頼りとなるのは、所々に灯してある明かりだけだ。半永久的に光る球が硝子の箱に入っている。
 全て技によるものだが、こういった細かいものを作るのが精堂陣は得意だった。似たものがこの塔にはあちこちに置かれている。
「これでようやく二十冊か」
 ベルセーナはため息をついた。初期の本はほとんどが塔の最上階にある小さな部屋に収納されていた。どれも薄く、一冊では期待した内容は手に入らないだろう。仕方なく読む前に次のをと探したのだが、二十冊集めるのに丸一日以上かかってしまった。下では同じようにイーストが奮闘していると思うが、報告に来ないところをみると難航しているようだ。
「この部屋が、一番小さいのだからな」
 ベルセーナは苦笑いを浮かべた。とにかく精堂陣の本は量が多かった。本だけではなく、ただ意味もなく書き残したような紙まであり、そこら中が本の海と化している。
「精堂陣様なら、整理するだろうに」
 それとも六人のうち他の誰かがここに足を踏み入れたのだろうか? 何かを探した後というのなら、この現状にも納得できる。
 小さな机の上に積んだ本を一冊、彼は手に取った。イーストと読んだ最初の日記である。
「赤き主には六人の配下がいた。個性豊かな六人の男女である。我々七人が男であるのに対し、大層華やかに見えた。そのため時折ヨウクウやバイリュウが顔を出していることも私は知っていた」
 たまたま開いたページをベルセーナは口にした。そして顔をしかめた。普通に通り過ぎようとしたが、とんでもない単語が混じっていた気がする。彼はもう一度最後の文を読む。
「ヨウクウやバイリュウ……まさかこれは陽空陣様と媒流陣様のことか?」
 彼は愕然とした。そこに記されていたのは七つ子のうち二人の名前だった。つまり魔族の頂点、その右腕となる者たちだ。それが赤き主の配下のもとへ顔を出していたという。
 ベルセーナはおそるおそるページをめくってみた。次に何が書かれているのか、知りたいような知りたくないような恐ろしい気分だった。薄い紙がはらりと落ち、続きが彼の前に露わになる。
「ゲンレイやキンゴウは黒き主の補佐で忙しかったが、それでも時折メイオたちとは顔を合わせていた。互いに主の動向を相談していたと聞く。この頃はまだどの世界も平和で、気にするべきは青の海のことだけだった」
 ゲンレイとはおそらく幻麗陣、キンゴウとは禁剛陣のことだろう。七つ子のうちさらなる二人だ。メイオが誰を指すのかわからなかったが、名前だけは何度か耳にしたことがあった。昔精堂陣が口にしていたのを覚えている。
「この頃はまだ平和で」
 ベルセーナはつぶやいた。この頃というのがどの辺りを指すのか、自分の記憶と照らし合わせてみてもわからない。けれどもこの言葉に込められた悲しみが胸を突いた。
 いつからか彼らの日常は崩れたのだ。それがこの文にも出てくる『青の海』のせいなのかどうかは知らないが、この本が書かれた時には失われていたのだ。
 つまりこの先に何かがある。
 息を呑み、ベルセーナは一度深く目を閉じた。
 白の世界について思い出してみようとしたが、それは曖昧な映像でしか浮かんでこなかった。森の残像、心地よい風。なのにそこにいる者たちの顔がよく思い出せない。
 彼は瞼を開けると嘆息した。
 諦めよう、今はとにかく本を揃えることが先決だ。きっとその中には平和を打ち砕いた何かについての記述があるはずだ。
「ベルセーナ様!」
 決意して本の山へと向かおうとした時、背後から呼ぶ声が聞こえた。振り返ってみれば、声の主――イーストが階段を駆け上がってくるのが見える。
「どうかしたのか? イースト」
「奇妙な本を見つけまして」
「奇妙な本?」
「とにかく来てください。場所を移動させることすらできないのです」
 イーストの慌てぶりからすると、相当のものなのだろう。うなずいたベルセーナは、彼の後を黙ってついていった。
 階段を下りる時間さえ長く感じた。何が待っているのか。それは変化をもたらした何かに関わるものなのか。速くなる鼓動を抑えるように、ベルセーナは大きく息を吸い込む。
「こちらです」
 塔の三階に二人は降りてきた。イーストは真っ直ぐ奥にある本棚へと向かっていく。足下には本が散乱していたが、それを踏まないようにとベルセーナは続いていった。埃の溜まった本棚の端で、イーストは立ち止まる。
「これは……」
 ベルセーナは言葉を失った。イーストの指さす先には一冊の本が収められていた。一見したところでは他のものと何ら変わりない。だがそれには幾重もの結界が張り巡らされていた。それなのにそこから放たれる気は小さく、精神を集中しなければ存在にさえ気づかないだろう。
「もう少しで見逃すところでした。手に取ろうとしたら全く動かなかったので、それで気づいたのです」
 イーストの説明に、ベルセーナは相槌を打つ。他の本に紛れるようにして巧妙に隠されているものを、よく見つけたと言っていいだろう。
 何かがある。
 それは確かだった。しかし目を凝らしてみても結界があまりに複雑すぎて、容易には解けそうにない。
「これを解くには時間がかかりそうだな」
「そうですね」
「よし、オレがこの結界を解く。お前は上に行って番号の続きを揃えてこい」
「……はい」
 イーストが後退するのを横目に、ベルセーナは妙な本へと近づいた。これは手強い戦いになりそうだ。
「ではベルセーナ様、失礼します」
「おう」
 去っていく足音を背に、ベルセーナは膝をついた。本棚に収まった一冊をにらみつけて、うなり声をもらす。
「こういうのはビレドーナの方が得意なんだがなあ」
 ぼやくようなつぶやきに、彼は微苦笑した。背中を冷たい汗が一筋、流れていった。




 自分が何をしたいのか。
 何が望みなのか。
 それさえも彼にはよくわからなかった。
 ただひどく不快な気分で、そして苛立たしくて。全てが、悲しくて、悲しくて。
 とにかくただただ、何かがおかしいという気がしてならなかった。そんな思いが胸を満たしていた。
 何故自分は一人なのだろう。何故彼女らはあんなに楽しそうにしているのだろう。
 何が違うのだろう。自分と、彼女たちと。
 疑問は後から後からわいてきてどうしようもなかった。それはまるで憤りにも似ていた。
 彼は振り返り、海を見る。冷たく、熱い海を、じっと見据える。色を変え、揺らぎ、まるで今にも自分を飲み込もうとする海。全てを生み出し、そして飲み込む海。
 このまま吸い込まれてしまおうか。
 そう思ったが彼はかぶりを振った。揺れる髪が視界に移り、また消えていく。
 いや、それでは面白くない。何かが足りない。
 そう、自分には何かが欠けているのだ。
 胸に宿るこの妙な感覚の名を、彼は知らなかった。
 ただその名前を求めて、青い瞳はじっと海を見つめる。

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