white minds

第三十四章 それぞれの戦い‐7

 名を呼ぶ声が聞こえた気がして、イーストはおもむろに立ち上がった。足下に散らばった本が靴に触れて、幾つかどさどさと雪崩のように落ちていく。
「今のは、ベルセーナ様か?」
 訝しげに顔をしかめて彼はそっと階段の方へと歩き出した。床を埋め尽くさんばかりの本を踏まないよう気を遣い、ゆっくりと階下を目指す。
「イースト!」
 薄暗い階段の下から、歓喜に満ちた声がした。その理由は一つしかない。慌てたイーストは落ちんばかりの勢いで駆け下りていく。
「ベルセーナ様、結界が」
「ああ、今ようやく解けたところだ」
 ベルセーナのいる階まで辿り着くと、彼は嬉しげに目を細めていた。だが顔には若干疲れの色が見える。
 ようやく、そう、ようやくだ。この本を見つけてどれくらいの時間がたったのかはわからなかった。ただでさえこの魔族界は時間の感覚が乏しいのだ。日の入らないこの塔ではなおさらである。しかしそれでも、かなりの時が過ぎ去ったことだけは確かだった。自らの疲労がその事実を如実に訴えかけている。
「これが、その本だ」
 ベルセーナの手には一冊の本があった。何の変哲もない青表紙をイーストは神妙に見つめる。
 幾重もの結界を張って、精堂陣が守ろうとした本。そこに何が書かれているのか知りたくもありまた目を逸らしたくもあった。自然と喉が鳴る。
「開くぞ」
 気のせいか、ベルセーナの声も震えていた。いつもは朗らかで凛とした表情の彼でさえ、緊張は隠せないようだった。うなずいたイーストを一瞥して、ベルセーナがページをめくる。乾いた紙の音に思わず鼓動が跳ねた。
「これが、かの青き者に見つからないことを願う」
 ベルセーナの唐突な言葉に、イーストは息を呑んだ。
 隠された本の第一節。そこには何度か耳にした青き者という言葉が含まれていた。
 ならば精堂陣が恐れていたのは青き者なのだろうか? 思い返してみれば彼の力について書かれていた箇所が幾つかあったような気がする。それはまるで、手の届かない強靱な力を恐れるかのようであった。
「ここに我々の過ちを記しておく。同じことが繰り返されないよう、真実を記しておく。青き者に踊らされ戦った我々白の派と、同じく踊らされた黄色の派。何故こんなことが起きたのか、どのような結末を迎えたのか、ここに記そうと思う」
 ベルセーナはそこで声を途切れさせた。彼の橙色の瞳には戸惑いが見られる。イーストは小首を傾げながら、読まれた一節を反芻した。
 過ち。
 青き者に踊らされた。
 我々白の派。
 頭の中を単語がぐるぐると回っていき、何故かとはわからずも違和感だけが胸を満たしていった。知らない間に握っていた拳を、イーストはゆっくりと解く。
「精堂陣様が恐れていたのは、青き者だった」
 おそるおそる紡ぎ出された言葉にイーストはうなずいた。青の海にいる青き者。他の世界には出ていくことができないが、力を持った存在。それを皆、恐れている。
「次に気になるのは我々白の派、というところだ。魔族は黒、神は赤。白は何者かわかっていないが、どうやら我々魔族はこのとき白き者に荷担していたようだ。だがこの書き方からは……」
 ベルセーナは眉をひそめた。
「まるで白の中に黒があるようだ」
 ああ、とイーストは声を上げそうになった。
 違和感の正体はこれだ。過ち、青き者に踊らされた。それは確かに衝撃的であったが、そんなことがあったのだと普通に理解できる。だから隠していたのだと。
 でも我々白の派というのがおかしい。これはまるで白の側にいるのが当たり前といった風だ。
「それでは白き者の中に黒き者がいるというわけですか? ですが今までの書き方では」
「ああ、並列だったな。いや、そうではないところがあったか」
 あごに手を当てて、ベルセーナは一端言葉を切った。イーストは瞳を瞬かせてその続きを待つ。
「赤き主も、黒き主も白の世界にいた」
 ベルセーナの唇がゆっくりと動いた。彼の視線は再び手元の本へと注がれている。
 最初の日記に書かれていた一節だ。白の世界は黒も赤も許容するらしい。その時は大して気にもとめなかったが、今になってますます疑問がわいてくる。
 白き者とは、何者なのか。
「青き者は巧妙に我々の内にある不信感を煽った。後に生まれた者たちを動かすのは、彼にとってはたわいもないことだっただろう。気づいた時には手遅れだった。黄色き者たちは我々を恐怖の対象と認識し、また後に生まれた赤き者や黒き者たちも黄色き者を危険な存在だと認識していた」
 読みながら、ベルセーナの声音が落ちていったのがわかった。同時にイーストも愕然としていた。
 聞いたことのある状況だ。つい先ほどまで考えていたことと、まるで同じだ。
 そう、まるで神と魔族のよう。
「ま、まさかベルセーナ様」
「そのまさかと考えていいだろう」
 イーストの声もうわずった。今にも息が止まりそうだった。拳を握りながら彼はベルセーナを見上げる。聞きたくない、知りたくない事実を確認するように。
「過ちは繰り返された」
 ――それが、おそらく真実。




 これだけ心が震えそうなことが、かつてあっただろうか?
 傍に誰もいないのはいつものこと。だが今課せられた使命は世界を預かるのに等しいくらい重いものだった。
 彼を眠らせなければならない。
 そうでなければ皆が戻る前に世界の方が壊れてしまう。それでは、意味がない。
 ゆっくりと彼女は歩いた。足下の砂が思いを反映するように重くまとわりついてくる。目の前には揺らぐ海と、白っぽい砂しか存在していなかった。その中を、彼女はひたすら進んでいく。
 一人で彼と向き合うのは怖い。彼の心に感応してしまう自分が怖い。
 でも皆のため、今はそれを押し殺そう。
 彼女は真っ直ぐ前を向いた。刹那、砂の先が一瞬歪んだようになる。
「もう、お前とあいつしかいないな」
 体を凍り付かせるような平坦な声に、彼女はうなずいた。遥か遠くにおそらく彼がいる。砂の向こうにその姿は見えないが、声も視線もはっきりと感じることができた。彼は、こちらを見ている。
「そう、皆消えてしまった」
「寂しいか?」
「寂しいね」
「だから来たのか」
「そうかもしれない」
 視界に、ぼんやりと青い姿が見えた。
 全体的に青いが、特に瞳の青さが際だっている。姿は揺らいでいるというのに、瞳だけがはっきりとしていた。射抜かれるだけで体中の力が抜けそうになる。それでも崩れ落ちることなく、彼女はそこに立っていた。
「お前も暇だろう?」
 問いかけると彼は訝しげに首を傾げたようだった。この言葉は予想していなかったようだ。だからこそ効果がある。彼に興味を示してもらわなければならないのだから。
「私は常に退屈だ」
「だったら、賭をしよう」
 彼女はそこで言葉を切った。ほんの少し微笑んで、萎えそうになる心を奮い立たせる。唇が震えないよう意識しながら彼女は口を開いた。
「お前は一旦眠る。その間に世界がどうなってるか、賭をしよう」
 間があいた。彼は瞳を瞬かせたようだった。一瞬だけだが周囲の空気に温度が戻ってくる。
「なるほど、お前の努力がどれだけ実るかという賭か。だが確実に世界は滅ぶ。セインも、戻らない」
 そう言い切る彼を、彼女は真正面から見据えた。まるで絶望を通り越して虚無に陥った瞳だと何とはなしに思う。しかし彼女はそれに飲み込まれるわけにはいかなかった。口角を軽く上げて、かすかに唇を動かす。
「いや、世界は滅びない。セインも連れ戻す」
 再び彼の視線が鋭くなった。射抜かれた体はぐらつきそうで、自分という存在が消えかけているように思えた。だがそれでもどうにかしてこれだけは達成しなければならない。彼を、野放しにはできない。
「だから賭をするんだ、どちらが正しいのか。孤独な我々に救いがあるのかどうか、確かめようじゃないか」
 普段無表情な彼が、笑ったように見えた。どうやら言わんとすることに気がついたらしい。
「ではダークは封印するのだな」
「もちろん、これから行くところだ」
「いいだろう。私の孤独が世界を覆うか、お前の孤独が癒されるか。世界を巻き込む賭だな、なかなか興味深い」
 空気が、震えた。彼に宿った感情が辺りの空間もろとも震わせているかのようだった。彼女はうなずきながら拳に力を込める。
 使命は果たされた。
「そう、興味深い賭だ」
 それは恐ろしい賭であった。恐ろしく、そして悲しい賭。

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