white minds

第三十五章 目覚めた歴史‐7

 そこは、単に海と呼ばれていた。世界の端とも、世界の中心とも言える場所。混沌と無を繰り返す、あらゆる者を生み出し、飲み込む場所。
 実際海に入ることができる者は一人もいない。それは『純粋な存在』である彼も同じで、彼が立っているのは海の周りに広がる砂の上だった。誰もがそう。色を変え、揺らぐ海を見つめるだけで、そこに足を踏み入れる者はいない。
 海に入る、それが死を意味するのだと知っているからだ。本能的に、体が知っている。
「ここも久しぶり、かな」
 足にまとわりつく砂を振り払うようにしてレーナは歩いた。まだ彼――ディーファの姿は見えない。気配でさえ傍にはなかった。
 この空間はあまりに広すぎて、それでいてとらえどころがなく、遠くにいるようで近くだったり、近くにいるようで遠かったりする。だが、それでも気だけは確かだった。気が感じられないならまだ彼はずっと先にいるのだろう。そこまでひたすら歩くしかない。
 気が重かった。
 いつもそうだ、彼と会う時は恐怖が体を支配して足が動かなくなる。彼の力と、孤独から溢れ出す破壊への願望が身に突き刺さるのだ。
 特に、一人で会う時はなおさら怖い。
「死ぬかもしれないのだから、仕方ないか」
 彼女は苦笑した。まだ死ねないという思いが、なおさら恐怖を増幅させる。もうどうでもいいとでも思っていれば少しはましなのだろう。彼の気まぐれをたぐり寄せなければならないと思うからこそ、震えが止まらなくなる。
 視界いっぱいに白い砂浜が広がっていた。まだ海までは遠いが、彼がどこにいるかはわからない。まるでさまようように歩くしかないのだ。少しでも気が感じられればその方へ進めばいいが、今のところは感知できない。
「いや」
 だがふと視線を上げて、彼女はその片鱗をつかみ取った。背中を冷たい感覚が駆け抜けていく。これは彼の気だ。忘れるわけがない。恐怖その物として体に染み込んでいる。
「行こう」
 誰にともなく語りかけるように、彼女は再び歩を進めた。重い足を一歩ずつ前へと運ぶ。
 どれくらいの時間が過ぎたのか、よくわからなかった。変化のない砂の上を歩き続け、とうに時間感覚は消え去っていた。だがまだ『あちら』では一日もたってないに違いない。経験でしかないが、そんなことを思う。
「来たか」
 声は、唐突に聞こえた。同時に白い砂浜の先にうっすらと青い何かが見えたような気がした。陽炎のように曖昧だが、体の震えがその存在が確かだと告げている。
 彼女はうっすらと、微笑みを浮かべた。
「ああ、来たよ」
「一人だな」
「ああ、一人だ。誰もいない」
 確かめ合うような言葉が続く。彼の姿は、次第にはっきりとしてきた。
 砂浜の上に立つ男が、視線だけをこちらへと向けている。腰程ある青い髪に光の灯らない青い瞳。砂につかんばかりの服も、全て青だった。それでも瞳の青さだけがやけに際だって見える。冷たい視線に射抜かれると、息も凍りつきそうだ。
「約束は、どうやら守ったらしいな」
 彼の声は平坦で、感情というものが籠もっていなかった。だが何を考えているかだけはかろうじて予想がつく。
「もちろん、守ったさ」
 彼はダークのことを言っているのだ。彼女は孤独に耐えきると賭をした。だからダークを封印するのだと、約束した。もしそれを破っていたら、今すぐにでも彼はダークを殺していたはずだ。そうすればダーク――黒き主を失った魔族たちがどうなるかは、考えたくもない。
「満足、というよりは不満足そうだな。われが憔悴してないからか?」
 彼女は小首を傾げた。ディーファは体こと彼女の方を向くと、ほんの少し口角を上げる。
「私のどこが不満足そうなのだ」
「うーん、何となく。少なくとも賭に勝った、と言えなくてつまらなそうだ」
 一瞬の、間が生まれた。それは恐怖の間だった。彼を怒らせれば全てが終わるが、言いくるめなければまた世界は滅びてしまう。
 彼の気まぐれに任せるしかない。彼が納得するか、面白がるか、とにかくその気にさせればいい。彼女は頭を傾けたまま、彼を見つめた。
「つまりお前は、賭に勝ったと言いたいのか」
 一瞬目をそらした後、彼は瞳を真っ直ぐ彼女へと向けた。光の灯らない、相手を凍えさせる力を持ったその瞳は、体中の力を奪いかねない。だがそれでも彼女はそこに真っ直ぐと立っていた。悠然と微笑みながら、目の前にいる『純粋なる存在』を見つめ返す。
「ああ。賭は、こちらの勝ちだろう」
 そう告げると彼の眉が一瞬ぴくりと跳ね上がった。空間が震え、まるで体の芯から揺さぶられるような感覚に襲われる。
 怖い。
 自分の存在が消えてしまうのではないかと思う。揺らぐ海に飲み込まれるのではないかと、錯覚する。
 それでも握った拳に力を込めて、途切れそうになる意識をとどまらせた。帰らなければならないのだから、ここで倒れるわけにはいかない。
「われはご覧の通り、孤独じゃない。一番欲しかったものを、手に入れた」
「……そうだな」
「そしてセインは連れ戻した」
「いや、まだだ。セインは目覚めていない」
 彼の声がひときわ大きくなった。死を間近に感じ取りながらも、それでも彼女は微笑んでいた。屈することがなければ彼は動揺するはずだ。それが、付け入る隙になる。
「記憶ならいずれ戻るよ」
「本気で言っているのか?」
「賭けはわれの勝ちだ」
「まだだ。お前は何もわかっていない。世界は滅びる」
 確かに、このままディーファが世界を歪め続けていれば滅びは近いだろう。だがそれでは意味が違う。彼が賭に勝ったことにはならない。
「お前が滅ぼしたら、賭の意味がないだろう?」
 問いかけると彼は言葉に詰まったようだった。表情は変わらないが、戸惑っているのがわかる。
 ああ、そうか。
 彼女は胸中でつぶやき、納得した。
 彼は本当に一人になってしまったのだ。孤独で、同じように感じている者もいなくて、ただ一人この広大な砂浜に取り残されている。だから怯えているのだ。
「まあ、こっちも完全な勝利ってわけではないけどな」
 付け加えると、彼の口角が少し上がった。何か思いついたようだ。彼の感情にあわせるかのように、辺りの空気が震える。
「では、賭をしなおすということでどうだ」
「賭をしなおす?」
 二人の視線が絡み合った。鼓動が、ドクリと跳ねる。漂う負の感情に飲み込まれないようにと、彼女はひたすら念じた。胸が痛み、体の奥から吐き気がこみ上げる。
「あと……そうだな、あちらの世界で二十五日。あと二十五日でセインが目覚めなければ、私の勝ちだ。私は全てを破壊する。これが、最後の戯れだ」
 ぞっとした感情が手足を冷たくした。
 二十五日。それだけの期間で、彼らを目覚めさせなければならない。それはあまりにも短すぎた。無理に目覚めさせれば体が壊れかねない。かといって悠長に待っているわけにもいかない。
「セインが目覚めれば、お前の勝ちだ。何をしてもかまわない、たとえ私を殺そうとな。もっとも、簡単に死んでやるつもりもないが。だが二十五日間は、私は何もしない」
 彼女は息を呑むと、ゆっくりと微笑を浮かべた。
 それで十分だ。もとより彼がその気になれば世界などあっと言う間に滅びるのだ。だが彼が孤独を紛らわす戯れを続けてくれれば、機会はある。少なくとも二十五日間は世界は滅びない。
「わかった。最後の、賭だな」
 彼女はうなずき、踵を返した。これ以上ここにいる必要はない。できる限り早く神魔世界に戻らなければ。
「リティ」
 名を呼ぶ声に、彼女は振り返った。彼が呼び止めるとは珍しくて、自然と首を傾げる。
「ディーファ?」
「お前が得たものは、偽りだ」
 無表情のまま言い放つ彼へ、彼女は相槌を打った。不思議と心は落ち着いていて、無意識に浮かぶのは微笑みだけだった。
 この何億年も、続けてきた癖。
「そうかもしれない、痛みと引き替えに得たものだから。それでも確かにわれは、これが欲しかったんだ」
 告げると、彼女は再び歩き出した。もう彼は何も言わない。背後にある凍えるような空気だけがその感情を示している。
 どうしたら、わかってもらえるだろうか?
 彼女は独りごちた。
 同じ境遇に立たされていたはずの二人は、この数億年の間に道を分かたれてしまったのだ。信じたか信じなかったか、その差のために。
 広がる砂浜は、依然として重く足にまとわりついていた。彼女はそれでも、前を見てひたすら進んだ。
 待っているだろう、仲間たちのもとを目指して。

◆前のページ◆   目次   ◆次のページ◆

このページにしおりを挟む