white minds

第三十六章 悲しい賭の先に‐6

 夕食も満足に喉を通らず、滝は黙って食堂を出た。
 今はとにかくゆっくりと頭の中を整理したかった。渦巻く感情のやりどころがなくて、どうしたらいいかわからなくて、ただ焦りばかりがつのっていく。
 自分の記憶が戻らなければ、全てが終わる。
 だが少しずつ記憶を取り戻しつつあるレンカとは違い、彼は全く思い出す気配すらなかった。セインどころかヤマトの記憶もない。後たった二十五日で取り戻すことなどできるのだろうか?
 滝はゆっくり廊下を歩く。どこからも声は聞こえてはこなかった。食堂でも皆押し黙っていて、ただ食器の触れ合う音だけが辺りを満たしていた。誰だってこんな状況なら言葉を失うはずだ。
「ん?」
 気配に気がついて、俯いていた顔を彼は上げた。視界に入ったのは何やら考え込むシリウスの姿だった。丁度レーナの部屋の前で立ちつくす彼は、あごに手をやりながら眉根を寄せている。
「シリウス」
 名前を呼ぶとシリウスは振り返った。深みのある青い髪が優雅に揺れる。
「滝か」
「どうかしたのか? こんなところで」
「いや、少し気になることがあってあいつと話をしようと思ったんだが」
 言いながらシリウスは扉を見た。白い壁に埋め込まれるようにして閉まった扉は、どうやら鍵もかけられているようだ。
「だが寝てるらしい。ものすごい形相でアースににらまれてしまった」
「ま、また寝てるのか?」
「やはりさっきのは無理矢理起きたんだろう」
 シリウスは肩をすくめた。滝も苦笑しながらもう一度扉を見る。
 いくら疲れていても、あんな話を胸に納めたままではゆっくり寝てはいられなかったのだ。実に彼女らしいと思う。
「お前は浮かない顔をしてるな」
「ん? そりゃあな。手がかりは全くないわけだし、なのに時間はないし」
 滝は力無く笑った。シリウス相手だと弱音を吐けるから不思議だ。やはり無意識に後輩たちを心配させたくないと思っていたのだろう。滝は右手をひらひらとさせる。
「思い出す手がかりか……実を言うとな、私もきっかけが全くなかったわけではないのだ」
「え?」
 突然飛び出した言葉に、滝は目を丸くした。確か先ほどレーナに聞かれた時はわからないと言っていた。目で問いかければ、シリウスは口の端を上げて小さくため息をつく。
「話を聞いた時は全く思い出せなかった。が、名前を聞いた後はぼんやりと情景が浮かんでくるようになった。あいつ、話をする時は自分の名を言ってなくてな、それを最後に聞いたんだ」
 滝は相槌を打った。なるほど、そんなことをあの場で言えばどうなるかは予想がつく。ただでさえ敵視しているアースが、さらに視線を険しくすることだろう。難しい関係だ。
「あいつはリティ――アビリティと言った。おそらくそれがこの世界に影響を与えない、限界の長さなんだろう」
 アビリティ。
 聞くと何故か胸が痛んだ。覚えがあるわけではないのに、不思議と胸の奥に響く名だ。
「名前か。何だか変な感じがするな」
「名にも力があるというからな。私たちの名は、私たち自身から発せられる『音』からつけられている。それを聞くことができるのは白き者だけだが、まあ何にしろ我々自身の力と関係はあるのだろうな」
 シリウスはうなずいた。
 ならばその名前に何らかのきっかけがあるのかもしれない。だが残念なことに、この世界では口にできないようだ。
 ではこの世界でなかったら?
 滝はふと思いつき、顔を上げた。
「そういった名前を口にできるのは、どこの世界なんだ?」
 尋ねるとシリウスはゆっくりと首を横に振った。だが口の端には笑みがあり、滝は首を傾げる。
「シリウス?」
「そのことを実は私も聞こうと思っていたんだ。青の海や白の世界なら大丈夫だろうが、そこではディーファと近い。危険すぎる。だが知っていそうなあいつは今は夢の中というわけだ。答えは起きてからだな」
 答えるシリウスに、滝は首を縦に振った。同時に嬉しくなる。彼もきちんと考えていてくれたのだ。
 まだ、望みはある。全く手がかりがないわけでもない。後二十五日でも何とかなるかもしれない。
 心の中で、彼はそう言い聞かせた。




 ようやく見つけた目的の男は、小さな星にできた亜空間に立っていた。広がる荒野の中、彼の銀糸だけが妙に目立っている。
「リティ?」
 気づいたのか、振り返ったその瞳には驚きが溢れていた。自分が捜されていたことも、また見つけられたことも不思議なのだろう。降り立つと、彼女は真っ直ぐ彼を見た。
「ダーク、捜したぞ」
 本当にあちこちを捜した。ディーファとの話を終えてからあらゆる世界を飛び回った。隠れていたのだから見つけにくいのは仕方ないが、疲れ切ってしまったのは問題だった。
 これから最後の仕事をしなければならないのに。
「リティ、外はどうなってるんだ?」
「さっきディーファと話をつけてきた。あいつは眠りに入った。メイオたちはもう誰もいないし、ジーンたちも念のため全員封印した。残るはわれとダークだけだ」
 彼の手が、彼女の肩を掴んだ。痛いくらいに力が入っている。だが彼女は何も言わずに彼を見上げた。頭一つ分以上高い彼の顔が、今は曇っている。
「ディーファが……眠った?」
「賭をしてきた。何とか丸め込むことができたが、条件を付けられた。われはお前も封印しなければならない」
 そう告げると、彼は目を細めた。掴まれた肩がさらに痛んで、彼女は顔をしかめる。
「リティ、つまりそれはお前がこれから全てを一人でやるということか? ホワイトたちを見つけだして、セインを取り戻すと」
「そうだ」
 うなずけばさらに彼は視線を鋭くした。いつも見慣れた優しい目ではない、怒りをたたえた瞳だ。
 何故怒っているのだろう?
『昔の彼女』は考える。
 だが何故彼が怒ったのか『今の彼女』にはわかった。
 そうだ、今ならわかる。このとき彼がどうして嫌がったのか、逃げたのか。何に対して腹を立てていたのか。彼は自分が頼りにされなかったことに怒り悲しみ、そして何もかもを一人でやろうとする彼女を心配したのだ。
「馬鹿なことを言うな! そんな大仕事を、どうしてお前だけがやらなければならないのだ。ディーファがいないのなら私も手伝える」
「駄目だ、約束してしまった。ディーファが目を覚ました時お前が封印されなかったと知れば、全てが終わってしまう」
「見つからなければいいだけの話だろう!」
 彼は掴んでいた肩を突き飛ばした。よろめいた彼女は片膝をつき、それでも何とか顔を上げる。彼は踵を返して地を蹴った。逃げるつもりだ。
「ダーク!」
 彼女は慌てて追った。どうしても彼を封印しなければならなかった。追いかけたのがわかったのだろう、彼が振り向いて左手を突きだしてくる。
 来る!
 牽制のための攻撃だ。それを頭ではわかっていた。
 避けろ。
 自分に命じる。いや、祈る。だが体は思うように動かなかった。黒い光が一筋彼女へと迫ってくる。それでもほんの少し体を傾けるだけで精一杯だった。
 まずい。
 頭の中にこだました警告は、自身のためのものではなかった。彼のためだ。
 けれども祈りも願いも虚しく、鋭い痛みが走る。
 足が止まり、荒い息がもれた。やられたのは左肩だった。思い切り貫かれたらしく、左手の感覚がない。溢れだした血が、地面に大きな染みを作った。
「リティ!」
 気配に気づいたのか、彼は立ち止まった。立ちつくしたその瞳が大きく見開かれている。
 ごめんな、ダーク。
 彼は自分の震える両手を持ち上げて、そして見つめた。息を整えながらその様を見つめて、けれども口からもれるのは吐息ばかりで。
 ごめんな、ダーク。
 だから心の中で何度も謝った。彼は悪くないのに、避けられなかったのは自分のせいであり、彼に当てる気などなかったことはわかっているのに。それなのに声が出ない。
 何か言えたらよかった。
『今の彼女』は思う。そうすれば彼は自分を責めずにすんだかもしれないのに。
「あ、あ……」
 彼の震える声が聞こえた。けれども彼女はそこに立つだけが精一杯で、何も応えることができなかった。
「私は――」
 絶叫が、聞こえた気がした。実際は声ではなかった。彼の心が周囲の空間もろもと震わせて、体に重くのしかかってくる。
 駄目だ、ダーク。
 心を壊してはいけないと、『今の彼女』は叫ぶ。だがそれは、無論彼には伝わらなかった。
 仕方がない。これは夢で、過去のことで、もう取り返しのつかない現実なのだから。
 彼を中心に、四方八方へと薄青い光が飛び出した。それは立ちつくすことしかできない彼女の体をも、何度も貫いた。
 もう体は痛みも感じない。けれども胸の奥が痛くて痛くて仕方なかった。彼の心に感応して、涙が溢れてくる。
 だが封印しなくては。
 よろめきながら、彼女は歩き出した。今のはおそらく精神系、いや、破壊系との中間か。
 血が出ているのは左肩だけだったが全身が取り返しのつかない傷を負っていた。頭がやられなかったのは幸いか。ホワイトのくれた髪飾りが結界を張ってくれたようだ。
 彼女はゆっくりと歩を進めた。うなだれた彼のもとへと、一歩一歩近づいていく。
「ダーク……」
 ようやく口にした声はかすれていたが、彼は顔を上げた。うつろな目が彼女を捉える。彼女は何とか微笑んで、右手で彼の手首を掴んだ。
「ごめんな、でも封印されてくれ」
 彼の体を薄紫色の光が包んでいく。その光があまりに強くて、彼がどんな顔をしていたのかはわからなかった。
 見えなくて幸いだったのか否か、それは『今の彼女』にもわからない。
 ごめんな、ダーク。
 彼女はもう一度繰り返した。泣きながら繰り返した。
 しばらくして光が収まった時、そこには既に彼の姿はなかった。荒野に残されたのは彼女一人。
 傷らだけの、白の少女だけだった。
 どうするか。
 彼女は自分の体を見下ろした。目で見える傷ばかりではないが、もう手遅れなのがわかった。核が傷ついたところへ無理矢理力を使ったため、体が維持できなくなっている。左肩から先が消えかかっていた。このままではじきに全部消えてしまう。核だけになってしまう。
「駄目だ、われが核になっては意味がない」
 何とかしなくては。
 彼女はふらふらと歩き出した。かろうじて動く右手に刃を生み出し、空間を切り裂く。
 まずは出血だ。このまま精神を垂れ流しにしてる場合ではない。だが技を使えば精神を消費する。また体のどこかが消えてしまうかもしれない。
 止血のできる何か、何かがある建物を。
 ひたすら空間を切り裂いて前へと進んだ。何を目印にしたのか、自分でもわからなかった。ただひたすら進んだ。振り返るのが怖くて、とにかく前へと。
「あった」
 それを何度か繰り返し、突然視界に入ったのは灰色の建物だった。小さな星の荒野に、妙な作りをした建物が存在している。
 アスファルトの研究所だ。
 安堵するのは『今の彼女』が知っているからだ。ここに何があるのか、わかっているから。
「レーナっ」
 声がした。周りの景色が急速に霞み、彼女は瞬きをした。全ての景色が一度白に塗り潰される。
「あ……」
 次に視界に映ったのはアースの顔だった。不安そうに覗き込む瞳を、彼女は見上げる。
「アース」
 つぶやけば、彼の手が頬へと触れてきた。その指先が目元をぬぐい、それで本当に自分が泣いていたことに気がつく。
「また夢か?」
 彼は優しく問いかけてきた。その声がかすかに震えて聞こえるのは、意識がおぼろげなせいだけではないはずだ。心配かけたのだろうと思うと胸が痛んだ。いつも自分は心配かけている。それなのに、満足に気持ちに応えることができない。
「うん、また昔の夢だ」
 抱き寄せられた状態で彼女はうなずいた。彼の腕に力がこもるのがわかる。その袖を彼女はぎゅっと握った。何だかすごく温かくて、また泣きそうになる。
「それでは眠っていても疲れも取れないな。大丈夫か?」
「うん、アースがいるから大丈夫」
 その言葉に、嘘はなかった。今はこうして甘えることができるから、自分で自分を壊すことはないはずだ。昔のように死が心を包むことはない。少なくとも、今は。
「お前はまた、すぐそういうことを言うな」
「そういうこと?」
「離したくなるようなことを、だ。あのむかつく奴が話したそうにしてたが、落ち着くまでは部屋から出さないからな」
 彼女は何度か瞬きをした。それから言葉の意味を理解して微笑み、その胸に顔を埋める。
 むかつく奴というのはたぶんシリウスのことだろう。どうしてそんなに毛嫌いするのだと思う一方で、納得もしていた。昔のことを何となく嗅ぎつけているのかもしれない。不思議と鋭いのだ。
「そうだな、こんな顔じゃあ出ていけないし」
 今後を考えれば、心の内を整理しておかなければならなかった。もうじきおそらくダークも目を覚ますだろう。彼の目の前で笑えなくては、これからを乗り切れない。
「本当ごめんな、アース」
「何故そこで謝る?」
「うーん、何となく。ほら、いつも甘えてるし」
「甘えてもらわないとわれが困るんだがな。お前はすぐ一人で行動したがる」
 彼女は口の端を上げた。そうだ、この癖はずっと変わらないのだ。だがきっと昔よりは少し高い目線で周りを見られるようになった。気持ちに、気づけるようになった。
「うん、悪いと思ってる。でもほら、そういう我が侭も甘えだと思って」
「おい」
 痛みを抱えながらも、彼女は微笑んだ。
 心の中でごめんな、と何度もつぶやきながら。そっと静かに。

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