white minds

第三十六章 悲しい賭の先に‐7

「名前を口にできる場所」
 瞼を伏せて繰り返すレーナに、滝はうなずいた。
 彼女が部屋を出てきたのは、皆が食事をとうに終えた夜のことだった。外は既に暗闇と化していて、窓から見える景色もほとんどが黒に塗りつぶされている。空がどんよりとした雲に覆われているためだ。月明かりさえなく、無論星の瞬きも見えない。
 だがそんな中でも、ここ司令室だけが煌々と輝いていた。もっとも、周囲からは見えないようになっているらしいが。
「白の世界と青の海、あとは黄色の世界くらいだな」
 あごに手を当てたまま、彼女は答えた。あまり人のいない司令室ではその声はよく通る。しかし滝は顔をしかめた。彼女が挙げたのは全て『おとぎ話』に出てきた世界で、そのうち二つは既に考えていたものだった。
「でも白の世界や青の海はまずいんだろ?」
「そうだな、ディーファと近すぎるからな。邪魔はしてこないことになってるが、危険ではある」
「じゃあ黄色の世界ってのは?」
 仕方なく残された一つの世界に、彼はすがった。せっかく見いだした一つの可能性、その成否を握っているのはそこだけだ。おそるおそる尋ねれば、彼女は微笑んで相槌を打つ。もう見慣れてしまった、強さを垣間見る笑顔だ。
「そこなら大丈夫だ。ディーファの興味も、もうないだろうしな」
「じゃあ」
「ああ、行く価値はあるな。この神魔世界からだとあちこち抜けなければならないが、この基地ごとなら可能だろう」
 希望が、見えた。滝は握った拳に力を込めた。話を聞いた時には萎えかけていた心に、ようやくまた火がついたような気分だ。
 黄色の世界へ行けば記憶が戻るかもしれない。ディーファとの賭に、勝てるかもしれない。そう思えば不思議と気力がわいてきて、強ばっていた肩から力が抜けた。
「ではレンカたちに話してこよう」
 だがレーナがそう言って歩き出した時だった。目の前の空間が、ぐにゃりと歪んだように見えた。
「え?」
 間の抜けた声がもれる。何度も瞬きしてから、滝は目を凝らしてその歪みを見つめた。見間違いではない、確かに歪んでいる。レーナも気づいたのか振り返り、瞳を細めていた。
 一瞬、黄色い光が辺りを覆った。眩しさに瞼を閉じれば、トンと、軽い足音が耳に届いた。
 滝は慌てて目を開ける。既に光は止んでいて、歪んでいた場所には何者かが立っていた。背の高い女性だ。背中程ある金髪が動きにあわせて揺れる。
「ケイファ!?」
「リティ! 彼が、彼が蘇ってしまったのですっ」
 突然現れたその女性は、目の前にいるレーナの肩を掴んで揺さぶった。激しい揺さぶり方だった。動揺が表れた動作だが、同時に青白くなるレーナが心配でもある。口を何度も開閉させる女性、その袖をレーナは何とか握った。それでも女性の動きは収まらない。
「落ち着け、ケイファ」
 レーナは声を絞り出した。どうやらケイファというのが名前らしい。そういえば先ほどレーナをリティ呼んでいた。ということは彼女も上位の者なのだろうか?
「落ち着いてなどいられませんっ」
「でも落ち着け、大丈夫だ。そのことなら知っている。もうちゃんとわれが会ってきて、とりあえず牽制しておいたから」
 レーナの言葉に、ようやくケイファの動きが緩やかになった。掴んでいた肩を離して、確かめるようにその瞳を覗き込む。
「それは、本当なのですね?」
 問いかける彼女に、レーナは首を縦に振った。それを見てようやくケイファは落ち着いたようだった。ほっと息を吐き、それから何かに気づいたのかはっとしたように振り向く。
 彼女の目は迷うことなく真っ直ぐ、滝を捉えた。
 その茶色い瞳は驚きに見開かれていた。まるで死んだ人に出会ったかのようだ。やはりセインのことも知っているのだろうか? 滝は頭を傾ける。
「セイン様、無事だったのですね!」
「えーとまあ、その、そうだな、無事だな」
「案じておりました。噂であの男に狙われてると聞いて」
 走り寄ってきたケイファは、彼の手を包み込むようにした。吐き出されたのは安堵の吐息。しかし状況が飲み込めない彼は、視線でレーナに問いかけた。何が起こっているのか、彼女が誰なのかさっぱりわからない。
「ああ、彼女はケイファ。黄色き者の一人で、リシヤの部下だったグレイスの部下だ」
 視線に気づいたレーナは、ありがたくもすぐに説明してくれた。だがその声がほんの少しだけ曇った。そんな些細な変化に気づけた自分に驚きつつ、彼は記憶を探る。
 確か、生き残った黄色き者には隠れるよう伝えたと説明していたはずだ。ということはケイファは今まで黄色の世界にいたのだろうか。言葉からすればディーファのことを伝えに来たようだが。
「リティ?」
「残念ながらセインはまだ記憶を失ったままなんだ。それで今、お前たちのいる黄色の世界に行こうと話していたところだ」
 今度はケイファが疑問に思ったようだった。彼女にとってはセインが記憶を失っているなど、予想外なのだろうか。説明するレーナを一瞥してから、ケイファは残念そうに彼を見上げる。どこまで事情を知っているかわからないが、その瞳には失望の色がかすかにあった。
「私たちの世界にですか? どうしてまた」
「名前を呼ぶためだ。それがきっかけになるんじゃないかと期待している。それで記憶が戻るんじゃないかとな」
 ケイファの問いに答えたレーナは、ほんの少し微笑んだ。それはいつも通りの表情で、先ほど感じた曇りはどこにもない。滝は首を傾げつつ二人を見比べた。気のせいだったのだろうか。
「名前? ここでは呼べないのですか?」
「駄目だ。この世界はマグシスたちの生み出した世界の一つだから、名の力に耐えられない。不完全だからな」
 再び尋ねるケイファに、レーナはそう説明した。ケイファは納得したようだが、聞き慣れない名前が飛び出て滝は困惑する。だが彼女の説明を思い出し、すぐに理解した。
 そうだ。世界の大半を生み出したのはリシヤとその部下だとレーナは言っていた。つまり黄色き者だ。マグシスというのはおそらく部下の一人なのだろう。
 白の世界を作り出したのがホワイトならば、黄色の世界を作り出したのはリシヤのはず。やはり『純粋なる存在』の手による世界の方が丈夫なのだろうか。この神魔世界は部下が生み出したものだから、名の力に耐えられないと。
「なるほど、それで私たちの世界に」
「そうだ」
「ですがここからでは遠いです。私一人でも時間がかかりましたし」
 そう言ってケイファはちらりと滝を見た。彼が自分の力だけで移動できないのを、咄嗟に見抜いたのかもしれない。
 オレは一人で世界を渡ることもできない。基地ごと移動とレーナは言っていたが、転移を使っても大変には違いないはずだ。
 ずきりと、胸の奥が痛んだ。いつまでたっても彼女に頼ってばかりで、自らの足で立つこともままならない。
 いつまでたっても力不足。
「またセイン様はそんな顔をなさって」
「え?」
「不甲斐なくてすまない、なんて言わないでくださいね。それはもう聞き飽きましたから」
 滝は目を丸くした。彼女が言ってるのは滝ではなくてセインのことだ。だから驚いた。神の頂点であるセインがそんな言葉を口にしていたなんて予想外だ。力を持っていたはずの男が、そんなことを言うなど。
「ですからそんなこと言わないでくださいね」
 返答がなかったためか、もう一度ケイファは念を押した。滝は困惑しながらも小さくうなずく。
 いや、セインも結局はオレなのか。そんなに違いは、ないのか。
 彼は苦笑した。けれどもほんの少しだけ気が楽になった。セインと呼ばれる存在を遠いもののように感じていたが、実際は大して変わらないのかもしれない。
「わかった、言わないさ」
 きっと満足することなどないのだ。どこまで上っても、これでいいという場所など存在していないのだ。完璧など到底無理で、いや、だからこそ生きていると言えるのかもしれない。
「じゃあケイファにも手伝ってもらおうか、案内役としてな」
 そこで話をまとめに、レーナが口を挟んだ。ケイファは迷うことなく首を縦に振って、にこりと微笑む。
 事情を知るものは多い方が助かる。今黄色の世界を知っているのはレーナくらいだ。彼女の荷が少しでも軽くなるなら、喜ばしいことだった。
「それじゃあレンカたちにも話してくるか」
 だがそう言って歩を踏み出したレーナは、唐突に立ち止まった。ケイファが現れた時と全く同じタイミングだが、今度はどこにも歪みは見あたらない。
「レーナ?」
「リティ?」
 滝とケイファの声が重なった。けれどもレーナは答えなかった。背中を向けたまま彼女は、斜め上を見上げている。その黒い髪だけが緩やかに揺れていた。
「レーナ?」
 彼はもう一度名を呼んだ。まるで彫像だ。五腹心の気を探っていた時と同じ、精神を研ぎ澄ませるように、気配だけを張りつめている。ぴくりとも動かずに。
「目覚めた、ダークとジーンが」
 つぶやいた彼女の声には、何の感情もこもっていなかった。喜びも悲しみも動揺も何もかもが、そこからは抜け落ちていた。
 彼女の華奢な背中を、彼はじっと見つめる。
 しばし静寂が、辺りを包み込んだ。

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