white minds

第三十八章 眠れる海へ‐4

 気づいてしまった変化に、しまったとよつきは思った。何が『しまった』なのかはよくわからないが、とにかくそう感じた。
 眠り続けてもう十日近くにもなるジュリ、その指先がかすかに動いた。十日も飲まず食わずなら死んでもおかしくないはずだが、彼女はずっといつも通りに穏やかな寝息を立てていた。
 そして今、目覚めようとしている。
「ジュリ?」
 おそるおそる彼は彼女の顔を覗き込んだ。部屋の隅ではたくとコスミが眠っていて、全く起きる気配がない。
 返事はなかったが、彼はじっと彼女の顔を見下ろし続けた。確かな予感というものがあって、そこから動くに動けなかったのだ。
 ずっと眠っていてくれればいい。
 起きて欲しい。
 相反する願いが胸の内を渦巻いて、彼は固唾を呑んだ。すると同時に彼女の瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
 起きた。目覚めた。
 そのことは理解できたが、彼はそこを退くことさえできなかった。何が起こるのか、彼女が何を口にするのか、頭の中が疑問と予想で埋め尽くされて動けなかった。
 目覚めた彼女の視線はぼんやりと辺りを漂った後、よつきの顔を捉えた。倒れる直前と変わりない明るい茶色の瞳が、彼をじっと見つめている。
「あの、えっと」
 ようやくもれた声は言葉にならず、戸惑いをそのまま表すものとなった。それでも彼女はじっと彼を見上げて、柔らかに微笑む。
「……え?」
「おはようございます」
 彼女の第一声はそれだった。肩の力が抜けた彼は体を起こし、傍にあった椅子に座り込む。それにあわせてゆっくりと彼女は上体を起こした。肩からこぼれた長い髪を怪訝そうに見やって、彼女はシーツを胸元へとたぐり寄せる。
「あ、あの」
「はい、何か?」
「その」
「ああ、私はどれくらい眠っていましたか?」
 何か話さなくては、だが何を話していいかわからない彼へと、彼女は微笑んで尋ねた。彼は目を丸くして息を呑む。どれくらいとはいつからのことを指しているのか定かではなかったが、彼は何とか答えをひねり出した。
「倒れてから、十日です」
「十日、それは寝坊ですね。心配かけてすいませんでした」
 そう言って彼女は軽く頭を下げた。彼はやはりどうしたらよいのかわからなくて、視線をさまよわせる。ジュリなのか違うのか、これでは希望にすがりたくなる。自分でも自分の感情がよくわからなくて、彼はうろたえた。自分は今泣きたいのか喜びたいのか、それすらも定かではない。
「あの……」
「あれ? 心配しませんでした? それならそれでいいんですけど」
「いや、心配しましたけど」
「そうですか。やっぱり生まれ変わった方が優しいんですかねえ」
 のほほんとした声音で、しかし怖いことを彼女はさらりと口にした。驚いた彼の視線を向けられても、穏やかな顔で首を傾げている。
「違いましたか? ああ、正確には死んでませんから生まれ変わりってのもおかしいですけど」
「し、知ってたんですか!?」
「ラウェイがその格好で私がこんな格好で、ついでにセインの気があるとなれば大体予想できます」
 声を上げれば、彼女は当たり前のようにそう答えた。ここまで飲み込みが早いと別の意味で動揺する。
 では、やはり彼女はジュリではなくスェイブなのだ。そう思うと違和感よりも寂しさがつのった。取り残された気分になり、彼女が柔らかな瞳で見つめてきてもまともにそれを見返すことができない。
「でもラウェイは目覚めてないんですね、困りました。私一人で彼らからレインを守るとなると荷が重いですねえ。どう根回ししましょうか」
 だがそんなことすら意に介した様子もなく、スェイブはほとほと困り果てたようにつぶやいた。物騒な言葉も耳に入ったが、それをよつきは本能で聞き流しておく。
「まあいいですけどね。それじゃあ皆さんに挨拶しておきましょうか」
 するとそう言ってシーツを押しのけて、彼女は立ち上がった。軽くウェーブがかかった髪をちらちら見ながら扉へと歩き出す。
「挨拶?」
「はい、ホワイトやレイン、セインたちに顔見せないと。きっと私が倒れてたから困ってると思うんですよね」
 慌てて声をかければ、彼女は振り返って微笑んだ。実際そんな話を耳にしていたので、よつきはうなずく。伝えてくれるのは何故か平気で司令室を出入りしているカイキとイレイだが、スェイブが目覚めるまでは待つというのはずっと変わらなかった。
 ならば彼女が目覚めた今、これからどうなるのか。
 何故だか鼓動が早くなって、彼は脇に下ろした拳を握る。
「案内、してくれないんですか?」
「……はい?」
「気で居場所はわかりますが、この建物の構造はよくわからないんですよね。迷わないとは思うんですが、念のために」
 動かない彼へと、彼女はほんの少し顔をしかめてそう口にした。
 考えてみれば今の彼女にはジュリとしての記憶がなく、つまりこの基地は未知なる場所ということだ。案内がいれば心強いのはよくわかる。わかる、が彼は正直困っていた。
 案内をするということは、あの司令室へ彼女をともなって入室することと同義だ。それはどうにも気が進まない。
「ええ、案内しますよ」
 しかし彼はすぐにそう答えていた。きっと断っても彼女は一人で行ってくれるだろうが、それはそれで問題がある気がした。外には誰がいるかわからない。ある時目覚めてからカームとウィックの天然組は廊下や修行室を歩き回っていたし、それにつられてかナチュラルやビート軍団も出歩くようになった。聞くところによると、最近はホワイトやセインまで出てきてるらしい。そこへまた新たな一名が加われば、ややこしい問題が起こらないとも限らなかった。
「ありがとうございます」
「いえ」
 よつきは彼女の側へ寄ると、扉を開けた。嬉しそうに微笑む彼女は、やはり上位の神とは思えない。狼狽する心を落ち着かせようと努力して、彼は廊下を歩き出した。
 部屋の外へ出るのは久しぶりだ。予想していたより静かなことに安堵して彼は歩を進める。一歩後ろを歩くスェイブは物珍しそうに辺りを見回していた。実際、物珍しいのだろう。
 かわいらしいとも思うが、同時に寂しいとも感じた。自分の気持ちをもてあましつつ、それでも気取られないようにと薄い笑みを浮かべる。
 何事もなく、二人は司令室へと辿り着いた。中へ入るのにやはりためらいを覚えつつ、彼は一歩を踏み出す。するとプシュウと気の抜けた音を発して、勝手に扉が開いた。スェイブの不思議そうな声を無視して、彼は中へと足を踏み入れる。
「ラウェイにスェイブ?」
 まず声をかけてきたのは、桜色の髪に黒い瞳の小柄な少女だった。以前の名なら彼も知っている。梅花、だと。だが今の名が何なのか彼は覚えていなかった。だから適当に微笑みを浮かべて背後にいるスェイブへと目を向ける。それにあわせるように横へと並んだ彼女は、嬉しげに口を開いた。
「はい、レイン。ただいま起きました。遅くなって申し訳ありません」
 そう言って頭を下げるスェイブを見て、そう言えば自分たちは梅花――レインの部下だったことを思い出した。名前くらい覚えておかないとまずいなと、彼は何度かそれを口の中で繰り返す。
「いいのよ、別に。私が目覚めたのも大分後の方だしね。それに直属以外で記憶を取り戻したのはあなただけよ。ああ、でも確かクーディは覚えてるんだったわね。今はまだ神界にいるはずだけど」
 レインはそう答えて柔らかに微笑んだ。聞き覚えのない名前によつきは頭をひねり、それでも今神界にいる人物を捜し当てる。シリウスだ。そういえばレーナがそんな名前を口にしていた。記憶力の悪い自分に毒づきながら、彼は一歩後ろへ下がる。
「そうみたいですね。クーディがいなくて残念です。何だか大変なことになっているようですから」
 スェイブはそう言うと、レインの後ろにいる面々を見た。部屋にいるのは五人で、モニター傍の椅子には二人の男が腰掛けている。そのどちらも、よつきは見覚えがなかった。
 一人は宝石を思わせる紫の瞳に、銀糸の男。座っていても背が高いのは明白で、どうやらホシワよりも高そうだった。服はほぼ全身黒。所々銀色が差している他は、ほとんど黒だった。同じ黒でも上着はやや緑がかっていて、下はやや紫がかっている。だが印象が黒いことには変わりなかった。
 その横には、長い髪の青年が座っていた。やや小柄に見えるのは隣にいる男のせいだろう。ゆったりとした服に優しげな瞳が、どことなく穏やかな印象を与える。だが彼はこの部屋の空気の悪さを、明らかに気にしているようだった。スェイブとレインをちらちら見ながら、辺りの様子をうかがっている。
 その他には青葉とケイファが、それぞれに不機嫌な顔で脇の方に腰掛けていた。実際もう青葉と呼ぶべきではないだろうが、それでも彼はもう一つの名を覚えていないので仕方がない。
「そう、大変なのよ。すごく大変なのよ。ダークは何も喋ってくれないしブレードは不機嫌だし、リティが歩き回っててケイファは不満そうだし。セインやホワイト、カームやウィックは諦めてたからいいんだけどね。でもさっきメイオとスピルがクーディを迎えに行っちゃって、私一人で取り残されてしまったのよ。本当、あなたが来てくれて助かるわ。何だか目眩がしそうだったのよね」
 スェイブの言葉に触発されたのか、レインはまくし立てるように早口で愚痴をもらした。愚痴だとわかるのは話の内容を聞いていたからだ。声には苛立ちも呆れも不満も込められていない。聞き流していたら間違いなく、それが愚痴だとは気づかなかっただろう。
 案の定、考え事をしていたらしい青葉とケイファは何も言わなかった。内容に気づいてうろたえていたのは髪の長い青年だけで、大柄な男も瞳を伏せたままだ。
「そうですか、またレインにしわ寄せが来てるんですね」
 スェイブは目を細めてレインの肩に優しく手を載せた。慣れた仕草だったのかレインは相槌を打ち、それからよつきの方へと眼差しを向ける。
「ここまでありがとうね……ええと、よつきでよかったかしら?」
 彼女の唇からもれた名前に、彼は息を呑んだ。
 どうして知っているのか。まだ彼は名乗っていないし、昔の記憶は持ち合わせていないはずだ。戸惑いながらもうなずいて、彼は眉根を寄せる。
「その、どうしてわたくしの名を?」
「よかった、あってたのね。リティの記憶から引っ張り出してみたのよ。私と彼女は記憶を共用できるから。まあ新しい方の記憶だから、ちょっと強引に借りて来ちゃったのだけど」
 疑問の声に、彼女は嬉しそうに微笑んで答えた。それからあっ、とつぶやいて眉をひそめ、うかがうように瞳を覗き込んでくる。
「リティでわかる? 今の名はレーナというんだけど」
「はい、わかります。彼女の名は、何度も耳にしていましたからね」
 よつきは苦笑しながら首を縦に振った。状況を正確に掴んでくれていることに、喜びがこみ上げる。記憶のない自分にあわせて話をしてくれるなんて、予想もしてみなかった。心のつっかえが取れたような気がして、自然と口の端が上がる。
「そう、よかった。じゃあスェイブに今後の話しておくから、よつきはブレードたちの相手しててくれる?」
「……え?」
 だが彼女の放った言葉に、よつきは思わず動きを凍らせた。先ほどの話で何となくわかったが、おそらくブレードとは青葉のことを指すのだろう。不機嫌なブレード、それは不機嫌なアースと同じ気配を漂わせていた。十中八九理由はレインがらみに違いない。
「大丈夫、ただ傍にいてくれればいいから。ケイファと近づけないようにしていて。あとダークとも」
「ああ、はい」
 宥めるようなレインの言葉に、仕方なくよつきはそう答えた。それならば注意しなくとも心配なさそうだ。ブレードとケイファはともに反対側の端で、他の二人がいるモニター傍とも離れていた。彼らの間に何かあると、顕著に伝えるように。
「このままで大丈夫なんでしょうか」
 よつきはぽつりとつぶやいた。思っていた以上に彼らの関係は複雑なようで、そしてそれがいまだに尾を引いているようだ。これが後に悪い影響を与えなければいいがと心配になる。
 それが現実のものとなることは、まだ彼は知らなかった。

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